わが三国が丘は、肥前、筑前、筑後の三つの国の国境(くにさかい)であることはすでに述べたが、そもそも、わが筑後の国は、筑前の国とともに元は筑紫の国と呼ばれていた。
大宰府政庁の手前にあるのが筑前、後方にあるのが筑後として、分割されている。
「柳河三年、肥後三月、筑前、肥前朝飯前」といわれほど筑後の国、柳河城は難攻不落の堅城として誇っていた。
江戸時代、私の故郷、柳川は、立花氏の城下町として栄え発展するが、戦国時代の幕開けである鎌倉時代、柳川の礎として、柳河城を築城し、筑後地方十五の城の筆頭大名として君臨していたのが、嵯峨天皇の直系、蒲池氏(源久直)であった。
当時は、筑後の蒲池氏、筑前の秋月氏、肥前の龍造氏と松浦氏、豊前の大友氏、薩摩の島津氏と肝属氏等が九州の代表的大名として勢力を誇っていたが、なぜか蒲池氏はあまり知られていない。
しかしながら筑後戦後史を代表しているのは蒲池氏である。
また茶器の蒲池焼は、日本3大茶器のひとつとして、伊万里焼とともに国立博物館に展示されている。
その蒲池釜は数年前から国際的著名な陶芸家によって、柳川市西蒲池において再興復元されている。
このように蒲池の地名は今も残っており、元は三潴郡蒲池村であった。
私はその蒲池小学校、ならびに蒲池中学校の出身である。(続く)
大宰府政庁の手前にあるのが筑前、後方にあるのが筑後として、分割されている。
「柳河三年、肥後三月、筑前、肥前朝飯前」といわれほど筑後の国、柳河城は難攻不落の堅城として誇っていた。
江戸時代、私の故郷、柳川は、立花氏の城下町として栄え発展するが、戦国時代の幕開けである鎌倉時代、柳川の礎として、柳河城を築城し、筑後地方十五の城の筆頭大名として君臨していたのが、嵯峨天皇の直系、蒲池氏(源久直)であった。
当時は、筑後の蒲池氏、筑前の秋月氏、肥前の龍造氏と松浦氏、豊前の大友氏、薩摩の島津氏と肝属氏等が九州の代表的大名として勢力を誇っていたが、なぜか蒲池氏はあまり知られていない。
しかしながら筑後戦後史を代表しているのは蒲池氏である。
また茶器の蒲池焼は、日本3大茶器のひとつとして、伊万里焼とともに国立博物館に展示されている。
その蒲池釜は数年前から国際的著名な陶芸家によって、柳川市西蒲池において再興復元されている。
このように蒲池の地名は今も残っており、元は三潴郡蒲池村であった。
私はその蒲池小学校、ならびに蒲池中学校の出身である。(続く)
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