日本サッカー殿堂

2006年07月14日 | 君に書かずにはいられない
 蒸し暑いのに、さらに仕事が忙しい。
 こんなエッセイを文藝春秋8月号に書いた。



私のサッカー観戦歴は、サッカー好きの夫の影響で、一九八六年のメキシコ大会に始まる。

今大会、日本代表の惜敗にマスコミは戦時もかくやと思われる過熱ぶりを示したが、Jリーグ開幕から十三年。本大会進出は三度目、歴史は浅い。むしろ連続出場は先人たちの血と汗と知の賜物と、「第二回日本サッカー殿堂掲額式典」に出席して、ちょっと胸を熱くしたのである。

ワールドカップ直前のその日、初めて御茶ノ水にあるサッカーミュージアムの「日本サッカー殿堂」を訪ねた。故人となったサッカー界への貢献者は二百名にのぼるらしいが、今年は十名の功労者が掲額された。厳かな空間で先達たちの顔のレリーフは赤く照らされ、永遠なる輝きを湛えていた。ヴァーチャルスタジアムでは殿堂掲額者の映像紹介があった。

日本でサッカーが知られるようになったのは大正末期だ。進取の気性に富んだ学生が取り入れたが、プレーとなると動きの見当がつかない。外国の試合を見る機会もなく、学生らはサッカーの原書を読み、孫子の兵法や日本海海戦を応用して試行錯誤を重ねてきた。

今回はこの黎明期の人々が主に殿堂に掲額されたが、私が式典に出席したのは、三菱化成社長・会長を務め、経団連副会長にもなった故篠島秀雄氏が掲額されたためである。

私は先ごろ、篠島の残した四百通余りの恋文から、彼の一生とその愛を辿った本を出版した。東大蹴球部の主将だった篠島は、フォワードとして一九三〇年東京カレッジリーグ五連覇を達成し、東大黄金時代を築いた。日本代表のユニフォームが青であるのは、この王者東大のユニフォームがライトブルーだったことに由来するといわれる。

また篠島は第九回極東選手権大会に日本代表選手として出場。それまで勝てなかった中華民国との決勝は激烈なシーソーゲームの末、篠島がドリブルでゴールエリアに食込んでシュートを放ち、初の極東制覇を成し遂げた。

東大卒業後、会社においては一貫して労務畑を歩んだ。組織はピラミッド型との発想が一般的ななか「企業のトップは頂点で君臨するものではない。社長も社員も一つの環(リング)につながる運命共同体」との独自の組織リング論を展開した。サッカーの持つ全体と個のコーディネーションが会社機構の縮図だ、世界最大のスポーツを日本人も知るべきだと常に口にしていた。あくまで公私を峻別し、表現も峻烈、恐怖に似たものを労働組合員が感じることもあったが、その底にある人間尊重の理念に社員の信頼も厚く、「労使問題の最高峰の一人」と称された。

三菱グループ最年少で社長となった篠島は一九六八年、テレビ東京「三菱ダイヤモンドサッカー」の放映を実現した。三菱数社がスポンサーとなったこの番組で、世界の一流プレーが観戦できるようになった。篠島は試合途中のCM不要と、テレビ界始まって以来の提案をして、番組関係者を興奮させた。

今回の式典では、その番組で解説を務めたサッカー協会元会長の岡野俊一郎氏が思い出を語っていた。篠島は岡野が訪ねると、秘書に「誰も入れるな」と言い、三時間余りウィスキーグラスを片手に、サッカー談義に興じることがしばしばだったという。

「正論を吐き、正論に聴き、正論を実行する」を信念とする質実剛健な人物であり、私は彼に失われた日本人の美徳を見た。サッカー関係者はそんな篠島が恋文を書いていたと知って仰天したらしい。「君に書かずにはいられない。僕にとっての全生命、全世界は君一人」「君と生涯を共にするのでなければ、一生独身で淋しく暮らすかもしれません」

篠島は悲願のJリーグ誕生を見ずに、一九七五年六十五歳で亡くなったが、最期まで瑞々しい魂を持っていた。「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」というサミュエル・ウルマンの「青春」の詩を愛誦し、財界に広めたともいわれる。

今、篠島が存命ならサッカー界新世代の育成をどう見据えるか。選手生命は長くはないが、Jリーグにはキャリアサポート制度があり、職業体験研修もある。司法試験合格者もいるという。将来を案じずに子供たちにボールを蹴らせたい。ロナウジーニョは誕生時にボールを贈られ、犬相手にドリブル練習をしてきたという。垂涎の人材である。

日本サッカー界への期待は止まない。底辺を広げ、人材を集め、大会最後まで日本チームが活躍する姿を一度でもいいから拝みたいものである。今サッカーミュージアム、ピッチが一望でき、全選手の動きが同時に見られる今大会日本戦の映像が準備されているようだ。



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