以下、たんぽぽ舎より転載
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┗■3.一体のものとしての原爆と原発
| 潜在的核武装と闘う反原発運動へ 連載その5
└──── 武藤一羊 (ピープルズプラン研究所)
◯ ところで、それに先立って、1957年にA級戦犯だった岸信介が首相になります。この岸は、憲法改正を目指すのですが、憲法を変えなくても日本は核兵器を持つことはできると言明しました。1957年3月7日、参議院内閣委員会でのことです。秋山さんという議員が「核兵器と憲法の問題についてごく率直にお尋ねします。日本の自衛隊が核兵器を持つことは憲法に違反すると私は考えるがご違憲をうかがいたい」と質問し、岸はこのように答えます。
『核兵器ということばで用いられている各種の兵器を名前が核兵器であれば、それは憲法違反だ、秋山委員のお考えはそうふうなものでありますが、そういう性質のものじゃないのではないか。憲法の精神は自衛ということであり、自衛権の内容をもつひとつの力をもつというのが、今われわれの憲法解釈上当然できることである。而して、それが科学の発達ということから兵器の発達というものにつきましてな、科学的な研究をしていかなければならないという建前におきまして、いつまでも竹槍で自衛するというものではなかろう。』
◯ これは安倍晋三さんにそのまま受け渡されている考え、立場ですね。自衛のためなら何でもできる、憲法が何と言っていようと関係ない。これは、一議員が言ったのではなく、総理大臣が国会において、議員の質問に答えてこう言明したのですから、由々しいことです。取り消せない立場声明として残っているわけです。
◯ しかし、では、ここからすぐに核兵器をもつとか自前で原子炉から核爆弾をつくるという核の軍事利用の方向に進んだかといえばそうではないです。この段階においては、作れるぞという法律の場所を作った。そして中身の方は別個に進んだ。
米国との間に日米原子力協定を結んで、米国の厳重な管理のもとで原発を作りはじめる。これについては、紆余曲折があって、有馬さんは『原発と原爆、「日・米・英」核武装の暗闘 』(文春新書)という最近の本のなかで、前著の主張を事実上取り消して、日本は米国に言われて原子力平和利用を始めたのではなくて、英国のコールダーホール型原子炉という核兵器を製造できる天然ウランを原料とする原子炉を入れた。米国の場合には濃縮ウランを原料としますが、コールダーホール型は天然ウランを原料とする。これを導入するのは核武装したかったからではないか、というのが有馬さんの新たな仮設です。
しかし現実はその線では進まず、米国から濃縮ウランをつかう軽水炉を導入して原子力産業をつくっていきます。
◯ 1970年代に、原子力は黄金期を迎え、エネルギー産業としてテイクオフします。毎年毎年原子炉が新たに造られる。1970年代に20基、1980年代に16基、1990年代に15基、2000年代に5基と毎年10基以上の新しい原子炉が稼動するようになる。これに対して反対運動が起きるわけです。反対運動によって多くの所で建設を阻止しています。しかし、それでもこれだけの数のものが造られてしまうわけです。
◯ これは、1964年から1972年までの佐藤栄作の時代で、ベトナム戦争の時代です。運動としては全学共闘会議(全共闘)やベトナムに平和を市民連合(ベ平連)の時代で、沖縄の復帰運動が反戦復帰という条件をかかげて高揚する。学生、少数民族、女性、そして若者たちの現状を変えようという運動が沸きかえる時代です。この時期に、佐藤内閣は、米国側についてベトナム戦争を支持し、私たちの側はこれに反対してたたかうわけです。【次回へ続く】
※連載その1は「4/11【TMM:No2754】」掲載
連載その2は「4/12【TMM:No2755】」掲載
連載その3は「4/13【TMM:No2756】」掲載
連載その4は「4/14【TMM:No2757】」掲載
〔「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」連続学習会第3回講演記録より
参照Web http://www.nonukesocialforum.org
問い合わせ:小倉 ogr@nsknet.or.jp 〕
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┗■3.一体のものとしての原爆と原発
| 潜在的核武装と闘う反原発運動へ 連載その5
└──── 武藤一羊 (ピープルズプラン研究所)
◯ ところで、それに先立って、1957年にA級戦犯だった岸信介が首相になります。この岸は、憲法改正を目指すのですが、憲法を変えなくても日本は核兵器を持つことはできると言明しました。1957年3月7日、参議院内閣委員会でのことです。秋山さんという議員が「核兵器と憲法の問題についてごく率直にお尋ねします。日本の自衛隊が核兵器を持つことは憲法に違反すると私は考えるがご違憲をうかがいたい」と質問し、岸はこのように答えます。
『核兵器ということばで用いられている各種の兵器を名前が核兵器であれば、それは憲法違反だ、秋山委員のお考えはそうふうなものでありますが、そういう性質のものじゃないのではないか。憲法の精神は自衛ということであり、自衛権の内容をもつひとつの力をもつというのが、今われわれの憲法解釈上当然できることである。而して、それが科学の発達ということから兵器の発達というものにつきましてな、科学的な研究をしていかなければならないという建前におきまして、いつまでも竹槍で自衛するというものではなかろう。』
◯ これは安倍晋三さんにそのまま受け渡されている考え、立場ですね。自衛のためなら何でもできる、憲法が何と言っていようと関係ない。これは、一議員が言ったのではなく、総理大臣が国会において、議員の質問に答えてこう言明したのですから、由々しいことです。取り消せない立場声明として残っているわけです。
◯ しかし、では、ここからすぐに核兵器をもつとか自前で原子炉から核爆弾をつくるという核の軍事利用の方向に進んだかといえばそうではないです。この段階においては、作れるぞという法律の場所を作った。そして中身の方は別個に進んだ。
米国との間に日米原子力協定を結んで、米国の厳重な管理のもとで原発を作りはじめる。これについては、紆余曲折があって、有馬さんは『原発と原爆、「日・米・英」核武装の暗闘 』(文春新書)という最近の本のなかで、前著の主張を事実上取り消して、日本は米国に言われて原子力平和利用を始めたのではなくて、英国のコールダーホール型原子炉という核兵器を製造できる天然ウランを原料とする原子炉を入れた。米国の場合には濃縮ウランを原料としますが、コールダーホール型は天然ウランを原料とする。これを導入するのは核武装したかったからではないか、というのが有馬さんの新たな仮設です。
しかし現実はその線では進まず、米国から濃縮ウランをつかう軽水炉を導入して原子力産業をつくっていきます。
◯ 1970年代に、原子力は黄金期を迎え、エネルギー産業としてテイクオフします。毎年毎年原子炉が新たに造られる。1970年代に20基、1980年代に16基、1990年代に15基、2000年代に5基と毎年10基以上の新しい原子炉が稼動するようになる。これに対して反対運動が起きるわけです。反対運動によって多くの所で建設を阻止しています。しかし、それでもこれだけの数のものが造られてしまうわけです。
◯ これは、1964年から1972年までの佐藤栄作の時代で、ベトナム戦争の時代です。運動としては全学共闘会議(全共闘)やベトナムに平和を市民連合(ベ平連)の時代で、沖縄の復帰運動が反戦復帰という条件をかかげて高揚する。学生、少数民族、女性、そして若者たちの現状を変えようという運動が沸きかえる時代です。この時期に、佐藤内閣は、米国側についてベトナム戦争を支持し、私たちの側はこれに反対してたたかうわけです。【次回へ続く】
※連載その1は「4/11【TMM:No2754】」掲載
連載その2は「4/12【TMM:No2755】」掲載
連載その3は「4/13【TMM:No2756】」掲載
連載その4は「4/14【TMM:No2757】」掲載
〔「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」連続学習会第3回講演記録より
参照Web http://www.nonukesocialforum.org
問い合わせ:小倉 ogr@nsknet.or.jp 〕