ブーゲンビリアのきちきち日記

神奈川の米軍基地のある街から毎日更新。猫と花と沖縄が好き。基地と原発はいらない。

久保田君を悼む

2011年09月28日 19時55分38秒 | その他いろいろ(原発)
友人からのメールを転載します。


以下転載_______________


久保田君を悼む 


あまりにも早世な !!
                      2011.09.27

夏目漱石に「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という句がある。
ある句会で「あるだけの 菊なげ入れよ 死者若し」という句に出会った。
漱石の模倣であろうと思った。漱石の句にはやや激情が感じられるが、
やはりこの句の方が優れていると感じられた。

今、知人が還暦を迎える前に早世した。ふと、この二句を想い出した。
模倣句の方に感情を移入する自分がいた。あまりにも若く、業半ばであった。

久保田千秋君が昨26日に彼岸へ旅立った。59歳の若さであった。
彼は腎臓疾患をかかえ、週三回の人工透析をうけながら教壇に立つ教師であった。
「9条改憲阻止の会」のメンバーで平和を希求することにかけては
人後に落ちない意志と思いを持った仲間であった。

「9条改憲阻止の会」が11日から経済産業省前のテント村で続けている
「原発全廃」の抗議行動にも仲間とたびたび座り込んだ。
23日もテントの前に静かに座っている姿があった。

19日の原発反対の明治公園集会にも参加し、5時間近く行動した。
今になって考えれば何処にそのような体力と気力が残っていたのか不思議でならない。
彼にもっとも近い友人の話によれば心臓肥大が原因の痛みも訴えていたという。
時間がとれる日曜日には良く友人達と街角に立ち、ハンディーマイクで人々に話しかけた。

25日にも数寄屋橋で街宣を行った。
街宣を終えてお茶を飲んだときに彼は
「私がいなくなってもこの街宣は続けてください」と言ったそうだ。
友人はその発言の真意が掴めなかったという。
彼はその時既に全てを予感していたのだろうか。
そして、翌日の旅立ち。

まさに、「9条改憲阻止の会」の合い言葉「命尽きるまで」の戦いであった。
私はこの追悼文を書きながら涙が流れ続けるのを止めることが出来ない。
 
彼が追い求めた「反基地、反原発……」の炎は決して絶やすことなく
仲間達と一緒に燃やし続けることを思いながら、合掌             
(文責 冨久亮輔)


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以上、勝手ながら、ブログで読みやすい様に、改行させていただきました。
富久さんの胸中をお察しいたします。
同じ年の同志に、心からお悔やみ申し上げます。




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