聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘の謎と小墾田宮

2015年03月22日 | 聖徳太子の謎


古代史の謎を解く重要な問題は、「大王」と「天皇」の称号に関してです。
王は「大王おおきみ」と呼ばれていましたが、のちに天皇と呼ばれるようになった
とされます。これは間違っています。
「大王」と「天皇」は異なります。ここが理解できない限り古代史の謎はとけません。
だから邪馬台国、卑弥呼のことがわからないようなことになっている。
邪馬台国から繋がるであろう大和王権と、天皇家は関係ありません。

初代天皇は神武天皇だとされますが、実在していてももちろん天皇の称号なんて
使用されていません。後に時代に天皇だったとされるわけです。

つまり、天皇家が後に、我々の初代の天皇は神武天皇だと主張しているわけです。
この天皇家というのが、本来は蘇我家のことである。

天皇家は蘇我家だという証拠はあります。
蘇我馬子と、聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」です。
蘇我馬子が関わっていることからも明らかです。これらは、権力を握った
蘇我氏の歴史書です。
馬子は本来の大王家と対立していたために、歴史書編纂する必要があったのです。

この蘇我氏の祖は武内宿禰とされます。簡単な推測です。
神武天皇として描かれていた人物は、この武内宿禰のことです。
つまり、本来の神武天皇陵は、この武内宿禰の眠るお墓です。

神武天皇は九州から来たとされますが真実ではありません。
神武天皇は、和歌山生まれです(*^▽^*)

しかし後に藤原氏によって蘇我氏の歴史も変更されている。


「天皇」号の使用は、推古天皇がはじめてです。ですので、推古天皇は本来の初代の天皇
です。この天皇とは、蘇我の王の名称であり、推古は初代の蘇我の王でもあるわけです。
そして、推古の子供の竹田皇子は、敏達、推古と、両親を王、天皇に持つ非常な重要な
人物です。
ところが、この竹田皇子は、日本書記にはほとんど登場しません。
押坂彦人大兄皇子も同様です。
しかし本当は、「皇太子」の名で頻繁に登場しています。
聖徳太子(押坂彦人大兄皇子)より、少し年下で同時期に生きたこの竹田皇子が
謎を解くキーマンです。このふたりが混同されているのです。

聖徳太子はいなかったのではなく二人いたのです。

これどういうことかというと、この竹田皇子も、皇太子であり、皇子、太子であるのです。
そう聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子と、この竹田皇子が混同されているのです。
この竹田皇子の事跡をも聖徳太子のことだとして取り込まれているため、
聖徳太子は超人的な人物になっているのです。
本当の聖徳太子とはこの竹田皇子ことでもあります。

今回は、法隆寺金堂薬師如来像光背銘の謎を解きます。
そして、この薬師如来像光背にある銘から、推古天皇と聖徳太子の
小墾田宮の場所が特定できます。


法隆寺金堂薬師如来像光背銘

池邊大宮治天下天皇大御身。勞賜時。歳次丙午年。
召於大王天皇與太子。而誓願賜我大御病太平欲坐故。
将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。
小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。
大命受賜而歳次丁卯年仕奉

以下は、こうだとされている意味・・・

池邊大宮治天下天皇(用明天皇)が大病を患っている時、歳は586年に
大王天皇(推古)と太子(聖徳太子)を召して、自信の病気が治癒することを念じて、
寺を作って薬師如来を奉ることを誓われた。
しかし、誓は果たされず亡くなってしまって、その当時は造ることができませんでした。
小治田大宮治天下大王天皇(推古)と東宮聖王(聖徳太子)は、その大命を受け
(推古15年 607年)に法隆寺を建立して薬師如来像を奉った。

これ法隆寺が建立された年が彫られていて貴重な銘文だとされています。
でも創建の由来はどうなのでしょうか???

この法隆寺金堂薬師如来像光背銘は、天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るこの法隆寺を、
古くからの勅願寺であったとするための捏造分です。
法隆寺は斑鳩寺ではなく再建されてはいません。


この銘文の問題箇所は、天皇の名称の使用時期とされますが、それだけでしょうか?

問題は、「大王天皇」です。これ二重称号だとして、誰も問題視していません。
これおかしいでしょうに。「おおきみてんのう」ってなんだよ。
こんなの疑問に思いなさいよ。

理解できていないのは、そう「大王」と「天皇」は異なるということが理解できて
いないからです。

つまり、「大王天皇」ではなく、「大王」と「天皇」で区切らなければいけません。

聖徳太子を研究している学者先生は沢山いるでしょうに、ここ不思議に思わないの
でしょうか?だから謎とけないと思うんだけど・・・。

もう何度も云っているところですが、推古は天皇ですが、大王ではない。
この銘文も大王と天皇を分けて使用している。天皇は蘇我の王の称号。
大王(おおきみ)ではない。
推古は天皇、大王は押坂彦人大兄皇子です。これを理解することが凄く重要です。

隋書・・・
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。


これ、つまり、池邊大宮治天下天皇は、大王と天皇と太子3人召したということ。
大王はもちろん聖徳太子(押坂彦人大王)、天皇は推古、太子は推古の子の竹田皇子。
推古は聖徳太子の育ての親であり、この二人で政治を行ってきた。

竹田皇子は聖徳太子の弟として育てられました。
聖徳太子が大王に即位すれば、太子はこの竹田皇子です。
推古は天皇であり聖徳太子は大王である。東宮聖王とは竹田皇子です。

つまり、こうです
召於大王天皇與太子・・・
召於大王(聖徳太子 押坂彦人大兄皇子)、天皇(推古)、與太子(竹田皇子)

小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王・・・
小治田大宮治天下大王(聖徳太子 押坂彦人大兄皇子)、天皇(推古)及東宮聖王(竹田皇子)


そして、この東宮聖王というのも、聖徳太子の謎を解く鍵です。
そう、何故、竹田皇子が、東宮聖王なのかっていうことです。
東宮ってどこなのか?っていうこと。
東宮っていうのだから、この宮の西側に宮があったということです。
その西側の宮を中心に、東としているわけですから、この時代の本来の宮は
この西側の宮なわけです。

その宮はとは、推古の宮の小治田宮ではなく、聖徳太子こと大王だった
押坂彦人大王の宮である。水派宮です。
この東宮は、水派宮の東に位置する意柴沙加宮です。

隅田八幡神社人物画像鏡に、竹田皇子が水派宮の東に位置する意柴沙加宮にいた
ことが書かれています。
おそらく、病気療養のため明日香近くの意柴沙加宮に移ったのだと思います。


隅田八幡神社人物画像鏡・・・

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等
取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえの
みこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴
沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて
開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。

この推古天皇の宮は小墾田宮ですが、本来の大王の宮は押坂彦人大王の水派宮です。

この大福にある三十八柱神社由緒にはこうあります・・・
当社は小墾田の宮とも云われる。法隆寺の太子伝五林抄には聖徳太子伝暦の注記に
「小墾田ノ宮ハ当時大仏供(大福の古名)ト云フ里ニヲハル田ノ宮トテ小社アリ
其れ宮所也云々」とあることを明記している。

この由緒は藤原氏によって変えられたものです。この押坂彦人大王が大王に即位
していたことを消し去ったために、本来の宮を推古の宮だと改竄したのです。
どうして、大王であることを消し去ったかというと、そう祟ったからです。
長屋王、早良大王はこの押坂彦人大王の後胤です。

そして、ここの謎を解く鍵は、この神社の神様です。
この三十八柱神社は、「みそやはしら」とされていますが、この三十八は、
本来は「みずは」であり、水神の水波能売命(みずはのめのかみ)を祀る神社です。


日本書紀・・・
遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。俄而知事難濟、歸附彥人皇子於水派宮。

ついに太子の彦人皇子の像と、竹田王子の像とを作りて呪いをかけた。
しばらくして事が成功しないとしり、帰して「水派の宮」で彦人皇子にしたがった。

この押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)の「水派の宮」の水派とは、三十八(みずは)であり、
ここ大仏供(大福の古名)は、もとは、押坂彦人大兄皇の宮だったところです。
そこに、新たに推古天皇が宮をつくり共に政治をおこなった場所です。

大福(桜井市大福)は、敏達天皇の宮である、百済大井宮(桜井市吉備)、
訳語田幸玉宮 おさたのさきたまのみや(桜井市戒重)のそばに位置します。
東に位置するのが意柴沙加宮であり、位置関係も問題ありません。

押坂彦人大兄皇子を大王だとしたくないため「水派の宮」ではなく、推古の「小墾田の宮」
を本来の宮だとしたため比定地が混乱しているのです。

飛鳥の地が、この時代において中心になったのは蘇我氏が権力を得たからであって、
もともと地理的には奈良盆地において中心になるような場所ではない。

この大福の地理的立地は、この時代の宮にするに相応しい場所です。
横大路に沿って、そして、中津道、上津道にはさまれたこの地に造られた宮こそ
この時代の宮に相応しい。


写真は、桜井市大福にある三十八柱神社です。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の宮である「水派の宮」です。
「みそやはしら」でも、「みまた」でもなく本来は「みずは」です。
記紀においては、彼が大王だったことが消されています。

三十八柱神社の小墾田の宮の由緒です。


                   


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