聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

藤原不比等の謎

2015年02月18日 | 聖徳太子の謎


藤原不比等は、聖徳太子とも関係するので少し。
この不比等は天智天皇の落胤で、兄の定恵は孝徳天皇の落胤だったのではないのか?
ともいわれます。

以下、よく知られている箇所ですが・・・
ウイッキペディア・・・
『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の
二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では
天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、
女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。
『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

これ、このとおりのようにも思うのですが・・・?

もうひとつは、尊卑分脈において、不比等は山科の田辺史(ふひと)大隈の家で養育され、
史(ふひと)と名づけられたと記述されていることである。

この田辺史は、百済系の渡来人であるとされます。これ、やはり史実のように思います。
藤原不比等は、百済からの渡来人を父に持つ、そう天智の息子です。
天智天皇の娘である持統天皇朝から、彼が頭角をあらわしてくるのは、
こうとしか考えられないように思うのですが・・・?

それで、この不比等の息子の藤原四兄弟は、天武の子の高市皇子の子の長屋王と
対立します。結局、この長屋王と王子を殺します。(長屋王の変 729年)
この変の8年後、天然痘がはやり藤原四兄弟はなくなった。
長屋王が祟って出たといわれたようです。

当然、祟ったのは長屋王のはずなのに、なぜか翌年、法隆寺に食封が再開され、
東院伽藍(夢殿)が新たに建設され、聖徳太子だろうとおもわれる救世観音を
祀った。・・・梅原猛さんの「隠された十字架」にある、よく知られた話ですよね。
私もこの本を読んでから聖徳太子に興味を持つようになりました。

法隆寺は、天武朝に祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために造られたのですが、、
後の怨霊信仰により、彼の霊を封じこめるようになったのは全くそのとおりだと思う。


ここの問題点とされているところですが・・・
祟らないでと、長屋王を祀るのが当然なのに、聖徳太子が祀られているはずの法隆寺に
何故?というのが謎だとされています。

でもここ、聖徳太子は押坂彦人大兄皇子だとすると謎でもなんでもないですよね。

天武天皇が皇祖と仰ぐのは、この押坂彦人大兄皇子で、舒明天皇の子の天武にとってはおじいちゃん。
天武の子である高市皇子の子が長屋王ですから、聖徳太子と繋がりますよね。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)ー舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王

ここ問題ですが、天武天皇の後、高市皇子や長屋王も大王だったんじゃないでしょうか?


で、さらに藤原不比等は天智天皇の落胤であるとすると・・・
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)の子の茅渟王は、孝徳天皇の父であり、この孝徳天皇の子
である有馬皇子を天智は殺している。おそらく孝徳も暗殺しているように思うのだけど・・・?

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


中臣鎌足は、孝徳天皇の落胤だったといわれる定慧を唐へ送ったのも当然といえば当然のおはなし。

定慧伝・・・
百済の土人,窃かに其の能を妬み、之を毒す。すなはち、其の年十二月廿三日を
以て、大原の第に終わる。

この百済の土人とは、もちろん中大兄皇子です。


日本書紀は720年に完成したとされますが、この藤原四兄弟が病死した737年以降に手が加えられた
可能性はないのでしょうか?。つまり、聖徳太子が祟ったのは737年だということ。

写真は法隆寺の西院伽藍の中門です。
法隆寺は、天武によって創建されました。その時、はじめて聖徳太子が
祀られました。でも、創建時には、まだ聖徳太子は祟っていません。



           












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