聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

神武天皇は武内宿禰

2011年04月19日 | 日本書紀の謎


古代、奈良盆地は、湿地地帯が多く存在したようにいわれます。おそらく盆地の中央部は
農耕地帯だったのでは?各部族の本拠地はこの中心部をはさんで、東西になる。
それで、奈良盆地内が一つの勢力のもとに統一された後、この時期、河内(大阪平野)と
奈良盆地の勢力の争いの図式。
この河内の勢力も、奈良盆地を制した勢力も、もとは、どちらも同じ部族(後の物部)。
この河内の勢力と奈良盆地、大和物部との戦いが畿内での神武の東征の物語。
つまり神武天皇は武内宿禰とお父さんである屋主忍男武雄心命がモデル。
この屋主忍男武雄心命は、卑弥呼の男弟の伊香我色雄命の子である建膽心大祢命。
九州平定にむかったのがこの建膽心大祢命。

簡単に説明すると、この時期、南北に生駒山脈、葛城山、金剛山に隔てられた、大阪平野
の河内の勢力と大和盆地の勢力が争って、王座は一時、河内側に移ったということ。
蘇我氏はもちろん河内側であり、のちに再び大和の物部氏と争うことになるわけです。
それで、天皇家。この天皇家という氏族が存在するというのなら、この部族の本拠地はい
ったい何処なのでしょうか?天皇家の宮があちこち移動するのはえらく不思議じゃない
のでしょうか?

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