「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

紀元節と陸軍記念日

2006-05-17 10:25:16 | Weblog
 2月11日は紀元節である。兵隊は軍装して、営庭に整列した。古参兵達の背嚢の中身は整頓箱の引き出しであった。初年兵はそんな芸当の真似をする要領が分からず、重い背嚢を背負って式の終るまで突っ立っていた。 1月頃だったか、内地から慰問袋が届いた。古参兵は1個宛て、初年兵は2人に1個配給されたが、内務班は紙くず、その他で雑然としてゴミ整理に初年兵は弱った。
 スケートの訓練だと10アール位の池に連れて行かれた。氷の上を私達は恐る恐る手を繋いで、危うくひっくり返りそうになりながら渡ったが、古参兵達はスケート靴で上手に滑って見せた。 この池は随分深いと思っていたが、暖かくなってから見たら、10センチくらいの深さに水を張ってあったのだ。私達のへっぴり腰を見て、サゾおかしかったろうと思う。
 3月10日、陸軍記念日で、やはり、式があったが、この時は私達も背嚢には整頓箱の引き出しを入れて出た。背嚢の角が作れて格好良く、又、軽くて上出来であった。この時、連隊長の斉藤大佐は軍刀を振りかざして、「ウラジオストックの一番乗りは、我が連隊だ!」と訓示した。この斉藤大佐は通信の大家で「通信兵操典」を書いた人ということであった。 ソ満国境の情勢が悪い時か、自動車部隊は一晩中エンジンをかけっ放しで何時でも出動出来る態勢をとっていた。そして隊内の空気が、緊張の為か重苦しかった。 又、内地から芸能人が慰問に来たが営庭に舞台を作り、マイクを使って色々やったようだが、私達初年兵は、一寸見ただけで、直ぐ班に帰ったので、どんなのがあったのか覚えていない。