「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

捧げ銃

2006-05-16 19:12:02 | Weblog
 ビンタ制裁が禁ぜられてからは罰は「捧げ銃」をやらされた。38歩兵銃は捧げ銃を長くしていると脂汗が出る程つらかった。又、手を上げていることも長く続けると苦痛だ。手を上げている事くらい、なんでもなく長くやっても平気だという気もするが、やってみるとこれもどうして、やはり、脂汗ものだ。
通信の教育では、助手が「お前達のビンタばかりドツイていたら、俺が電鍵を叩けなくなった。字が狂ってしまった。」とぼやいていた。それなら、ほどほどにしておけば良かったのにと思った。 それで考え出されたのは対抗ビンタ。2列に向き合わせて、相手のビンタを叩くのであるが、同年兵同士、そんなに強く叩く訳にもいかず、ビンタを擦るぐらいにやると、「こうしてやるんだ」とパーンとやって見せる。そうなると是非もなく、お互いに力が入ってきて殴り合いの形になってくる。これ程、最低で、いやな感情を初年兵同士で抱かせる、逆効果的な制裁はなかった。その次、考え出されたのは講堂の横に幅1メートルくらいで、深さ30センチくらいの溝があった、その端に立たせて、腕立て伏せをやらせる。段々辛くなって、腹が下がると溜まった水で濡れるという具合だったが寒い間は凍結していたので、ぬれる事はなかった。 又、ある日、見習士官が中隊に配属になった。「いくら召集兵だからといって、今の様な教育ではいかん!現役と同じようにやる!お前達は、起床時間より30分早く起きれ、鍛えてやる!」と言うお達しで、起床40分前に起床、古参兵から、「お前ら、何をするんだ、うるさいぞ!」と怒鳴られながら、準備をして中退前に整列すると、「今から、牡丹江の町まで往復駆け足だ!」と先頭に立って走り出した。約、20名くらいだったか、走って帰って来ると丁度、起床時刻になっていた。しかし、これも1週間くらいで、中隊長から「召集兵は現役と違うから、無理させたらいかん」と差し止められた。
私達召集兵は、再検査で乙種補充兵になって、召集を受けた者で、指が曲がったり、背が低かったり、少し斜視だったり、片足が少し短かったり、近視だったりが約2割り位いた。ビンタ禁制の一寸前、「こんなだったら、早く転属したいな!」と思わず独り言を言ったのを、何処から誰が聞いていたのか、2.3日したら、本当に北千島に転属させられた同年兵がいた。 その後、おじさんとかが面会に来て、すごすごと肩を落として帰って行った。又、牡丹江市内の親戚の人が面会に来たが、その同年兵も直ぐどこかに転属して行った。