「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

一等兵に

2006-05-28 13:37:09 | Weblog
  命一等兵 昭和19年5月1日附 
 襟章の赤い床に黄色の星
が1つ増えて2つになった。襟章を替えている私達に古兵殿は「俺達をナメるんじゃないぞ」と凄んだ。上等兵達が古兵の1人(1等兵)に「お前、ラッパは吹けないか、ラッパが吹けると上等兵になれるかも知れんぞ」と勧めていた。その古兵はラッパ吹きになり、衛兵のラッパ手として往き来していたが、上手く吹くまでには随分日数がかかった。ここのラッパは佐世保重砲大隊のとは比較にならぬ位下手であった。
 ある朝、衛兵に立った者が帰って来ていった。
「昨夜は恐ろしかった」
「どうしたんだ」
「実は西門の歩哨に立ってね。あそこの直ぐそばに、病院(牡丹江陸軍病院)の死体置き場があるものだから」
「それがどうしたんだ」
「幽霊がでるんですよ」
「ヘエー、出たのか」
「しっかりとは分からなかったけど、硬直したのがいつも2,3体置いてあると言いますからね」
 幽霊が出るとか、人魂が出たとか言われていたが、若い兵隊間に西門の歩哨は嫌がられていた。又、実際見たという者もいた。
 1月の中頃だったか、幹部候補生の募集があったが、募集というより命令であった。中等学校卒業者は甲種。これは士官学校に行って将校に、3年制以下の者は乙種で下士官を養成するのが目的で、甲幹を受けても成績によっては乙幹に回される者もいた。
 しかし、甲幹の訓練はさすがに激しかった。朝早くから夕方遅くまで、汗と泥にまみれて教育されていた。
 進級は1ヶ月に1階級上がっていた。彼らが伍長くらいになったとき、洗面所で1緒になった。私は1等兵。「おい、敬礼しようか」と言ったら、「馬鹿いえ」と照れくさそうに応えたが、傍を現役の初年兵が変な顔をして敬礼して通って行った。勿論、こんな所を意地の悪い古参兵に見つけられたらビンタもの。
 ある時「甲幹は大変だなあ」と言ったら「なあに、当番がついているからいいよ」と誰かが言ったが、演習から帰って汚れ物を抱えて洗濯場に駆け込んでいるのをよく見かけたものだ。
 私は生来人見知りが下手で、一寸会っただけでは姓名をなかなか覚えきれずに、非常に困った。
 班長当番についたとき、1班と自分の班長の見分けがよくつかなかった。室は隣同士、背丈も体格もうり2つ、顔も東北か、北陸辺り出身の色の白い美男子だった。班長はめったに班に顔を見せたことはなかった。勿論、朝夕の点呼の時は週番士官と一緒だったと思うが、無口の人らしく、当番には声も掛けてはくれなかった。何か演習に行くとかで、飯盒の副食に鮭の切り身がついたことがあったが、私はそのまま中蓋に入れてやった。帰られてその飯盒をとったら紙片が入っていた。「今度から焼いて入れてください」と書いてあった。鮭は生だったらしい。しかし、その班長は別に何も言わなかったし、ビンタもとられず、1週間も終った。
 1期の検閲が終って私達にも少し余裕が出てきた。
 転属者が次から次に出て行って班内も人員が少なくなってきた。

 

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