「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ビンタ 3

2006-05-11 19:18:20 | Weblog
 「鉄砲の弾は前からばかり来るとは決まっとらんとぞー」この言葉の裏には虐待された1,2等兵の万斛(ばんこく)の恨みがこもっていて、実際、戦場のドサクサでやられた上官もいたらしい。 輸送船で背嚢が無くなった兵隊、将校行李が行方不明になってしまって将校もいた。
軍隊では1日でも入隊が早いと古参兵とされる。軍人勅諭の「上官の命令は朕の命令と心得よ」を金科玉条と振りかざし、薄馬鹿な古参兵の天皇陛下代理が屁理屈をつけてビンタをとる。思わず《この野郎》とニラミ返すと、「貴様の目つきは何だ!」と絡まれた。 《ここは軍隊なんだ、別世界なんだ》と悟ると苦にならなくなり、なるようになれという気持ちになってくる。 しかし、こう殴られると、何時しか《さあ、殴るなら殴ってみろ》という度胸ができた。復員後、農業共済組合に勤めていた時、水稲の損害評価の事で、当時、鏡町の町会議員で鏡町漁業組合長の野田弥吉さんと議論した事があったが、野田さんは「芝口(地名)の最下方の田の被害額が少なく見積もってあるから、訂正しろ!」と言って聞かない。私はそうすれば、鏡町全体の評価の釣り合いが敗れるし、又、被害常習田はそれだけ平年収穫量が少ないのだから、何時も共済金を貰えると考える事は、誤りだと説明しても、いらだつばかりで、終いには「ドヤス(殴る)ぞ!」ときた。私は「ドヤスならドヤシてみなっせ」と平然として居る事もできた。そこへ、騒ぎを聞きつけてきた宮崎組合長が駆け寄って、「野田さん、そうゆう事は言うもんではない」と、留めに入ったので治まった。又、五反田(地名)訴訟の熊本高裁で和解判決のあったとおり、境界にコンクリート畦を作った時、藤山保明が妨害して、スコップを振り上げて、「打ち殺すぞ!」と脅した時も《やるならやってみろ》と平然として居られたのも、この兵隊で鍛えられたお陰かもしれない。命懸けでやって来た度胸が身についたのだろう。 この時は、私が野村敏明君宅から、宮原警察署に「暴力行為があるから、直ぐ来てくれるように」と頼んだ。すると、間もなくパトカーが駆けつけつけて、青ざめている藤山保明に、説教をした。そして警官が見守る中で、作業を進めることができた。