703 ~NAOMI’s Room~

0311東北地震記

東北の大きな地震から一週間が経った。
これを書き出した今もテレビに余震速報が入るけれど、
私は幸い、何不自由無く、通常通り生活ができている。

今の自分の気持ちを整理すると共に、
未来の自分への記録として、記憶として、
自分の言葉で、鮮明に残しておこうと思う。



2011年3月11日(金)午後2時46分
東北地方で最大震度7を記録した、その地震は起こった。

大阪では、震度3という小さな被害だったが、
東北では、地震・被災・津波・放射能という莫大な被害を被り、
今日18日の時点で、死亡者は6539人・・・、
1995年の阪神・淡路大震災の犠牲者数6434人を超えた。
そして、行方不明者は、判っているだけで1万300人超え。

日が経つにつれて恐ろしく、未だに信じがたい。


地震の瞬間、私は会社のオフィスにいた。
ちょうど来客が終わり、お客さんをエレベーターまで見送った後、
スタッフがいる部屋に戻ると、みんなが窓の外を見たり、やたらとソワソワしていて、
「揺れてるよな・・・」とか「長過ぎる!」とか話してたような気がする。

私は、自分の席について初めて揺れに気付いた。
最初は、あまり寝ていないが故の目眩かとも思ったけど、
ブラインドは明らかに揺れていた。
約2分間。とても長いゆったりとした横揺れだった。


数分後、ヤフーの地震情報を見て驚いた。
最大震度は宮城で7。その他、東北地方で大きな震度を示す数字が、
ずらっと並んでいて、まさかと思った。
東京の社長、外出していた先輩から、「大丈夫!?」と電話があった。

当時オフィスにいたのは5人。
同じビルの会社のスタッフが外に出ていると聞いておきながら、
気の知れた人が近くにいると、非常の場合でも変な安心感や余裕が生まれて、
誰も避難しようと言い出さなかったこと、
あとになって、改めて危険だと思った。とても反省している。

地震に関して、かなり敏感になっている今だからこそ、
緊急時の行動等を考えたり、非常バッグを用意したりするけど、
完全に地震とは無縁の日々を送っていたら、現に今回がいい例であるように
いざという瞬間の対応が浮かばなかったり、誤ってしまう。



私は小3の時に神戸で経験した阪神大震災で、家が半壊になった。
恐ろしく怖かった。
自分の不安と闘うことで精一杯だったように思う。

海外の人達が皆言っているように、
被災した方達がメディアを通して流す言葉や態度には、
驚きを通り越して尊敬の念さえ覚える。

「お父さんは亡くなってしまったけど・・・」
「家は流されてしまったけど・・・」
「娘とまだ連絡はつかないけど・・・」

「私は生きているから安心してね」
「皆さんのおかげで食べものもあります」
「お隣の山田さんと、その隣の内山さんのお宅は皆無事だと伝えてください」


マイナス2℃の体育館。
暖房もなく、薄っぺらい布を重ねただけの寝床で、
生活が、人生がふりだしに戻ってしまった状況で、
私は果たしてこんな言葉を口にできるだろうか。

絶望状態にも関わらず、人のことを気遣う。
それは絶望状態だからこその人間の心理?
いや、日本人のそれ?


すぐに立ち上がったSAVE活動。
被災者含め、眠らずに動き続ける人達。
次々に届けられる義援金や物資。
日本が一つになろうとしている。

そして、海外も日本を応援してくれている。
「Pray for Japan」
この動画を見たとき、涙が止まらなかった。






いつ人生が終わるか分からない。
信じられないほどに人間の命は儚い。

分かっているつもりではいたけれど、
今回の件で、25歳の自分は、はっきりと気付かされた。

色々なことに挑戦したい。
今の自分は嫌い。今の自分で人生を終わらせたくない。

そう強く思う。
だからこそ、迷っている暇はない。

動くのは不安だけど、動かないといけない。
“いけない。”



最後に、今回の地震で被災された全ての方のご冥福をお祈り致します。

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