近年になって毎年風物詩の如く報道されるようになったものに、越前くらげ襲来がある。本来風物詩と言う言葉は、広辞苑によると「季節の感じを良く表わしている物事」とあるから、越前(クラゲ)様の訪問に使っても可笑しくは無いが、招かねざる客であれば越前様訪問を風物詩と捉えるのは、いささか適当ではないかもしれない。
最近のTVで今年の越前様のご訪問の様子が紹介されていた。この報道によると今年の越前様は今までと一寸様子が違うと言う。今までの越前は(ここから呼び捨てにさせてもらう)中国の大河・揚子江の河口付近で生まれ、次第に成長しながら黒潮~対馬海流に乗って日本海に入り、越前沖に至るころは大きいもので直径2メートルにも育って現れる。ところが今年は例年には見られなかった小型の(1メートル以下)越前が多く見られると言う。専門家によると「地球温暖化が海水温の上昇となり、揚子江河口付近と同じような環境が九州有明海で見られるようになったため、越前(クラゲ)の一部が有明海で発生するようになった。このため有明海で生まれた越前が、越前沖に着く頃まだ十分に大きくなれず、1メートルクラスが混ざっているのではないか?」」と言う調査結果があり、朝鮮半島南端部にも同じ現象が生じていると言う。TV放送はここまでの説明であったように記憶しているが、その後の説明が有ったのか、無かったか見逃したのか定かではない。
以上の放送から推理した小生の仮説を紹介する。この現象は本来揚子江で孵化するはずの越前の卵の一部が、卵のままの状態で黒潮に乗って有明海に入り、海水の環境が揚子江と同じようになった有明海で孵化した後、再び対馬海峡に乗って越前を目指すが、揚子江からの行程と比べると丁度半分位の距離であることから、ハーフサイズの越前が現れたということであろう。
大分前置きが長くなったが、私はこの有明海生まれの越前からある事を思い出した。くらげの泳ぎを見ると多少の推進力は持っているが、意思を持って方向を定めているとは思えない。海流任せのように見える。帆を持たない頃の古代の舟は、クラゲに近かったと言えるのではないか。人力で櫂を操れば多少は制御できるが、長い航海、例えば揚子江から九州となればほぼ潮任せであったであろう。と言う事は有明生まれの越前を考えた時、「揚子江近辺から倭国を目指した古代の渡来人は、有明海に辿り着いた」と言う事が言えるのではないか。
稲作の倭国への伝来ルートは幾つか考えられている。一つがこの揚子江近辺から、いま一つが朝鮮半島経由、そして台湾・沖縄経由である。山川出版社の「日本史総合図録」によればこの三つの道で最も大きな道は揚子江ルートとしている。更に同資料の「弥生文化遺跡の分布図」を見ると、最も密度が高く発生しているのが筑紫平野であり、他を圧倒している。筑紫平野とは言い変えると、有明海に注ぐ川が作った平野である。
航海術が未熟な古代の人達が、揚子江河口から黒潮任せに倭国へ向かったら、有明海に辿り着いた。そこに開けた肥沃な筑紫平野の川を遡り、稲作により築いた文明こそ、「邪馬台国」の基となった文化であったのではないか。
先にこのブログで、今年の5月から7月にかけて、倭国成立に係わる三つの海の道についての話を進めている。そのうちの一つが有明海と中国を結ぶルーとであった。嫌われ者の越前くらげのお陰で、‘有明海ルート’について思いかけずも検証することが出来た。
越前地方の人達は、「このクラゲの名前は、越前クラゲとせず、発生元の`揚子江クラゲ'と呼ぶべきである」と言っているという。最もな話である。私には思いもかけない情報の提供者となってくれたが・・・。
最近のTVで今年の越前様のご訪問の様子が紹介されていた。この報道によると今年の越前様は今までと一寸様子が違うと言う。今までの越前は(ここから呼び捨てにさせてもらう)中国の大河・揚子江の河口付近で生まれ、次第に成長しながら黒潮~対馬海流に乗って日本海に入り、越前沖に至るころは大きいもので直径2メートルにも育って現れる。ところが今年は例年には見られなかった小型の(1メートル以下)越前が多く見られると言う。専門家によると「地球温暖化が海水温の上昇となり、揚子江河口付近と同じような環境が九州有明海で見られるようになったため、越前(クラゲ)の一部が有明海で発生するようになった。このため有明海で生まれた越前が、越前沖に着く頃まだ十分に大きくなれず、1メートルクラスが混ざっているのではないか?」」と言う調査結果があり、朝鮮半島南端部にも同じ現象が生じていると言う。TV放送はここまでの説明であったように記憶しているが、その後の説明が有ったのか、無かったか見逃したのか定かではない。
以上の放送から推理した小生の仮説を紹介する。この現象は本来揚子江で孵化するはずの越前の卵の一部が、卵のままの状態で黒潮に乗って有明海に入り、海水の環境が揚子江と同じようになった有明海で孵化した後、再び対馬海峡に乗って越前を目指すが、揚子江からの行程と比べると丁度半分位の距離であることから、ハーフサイズの越前が現れたということであろう。
大分前置きが長くなったが、私はこの有明海生まれの越前からある事を思い出した。くらげの泳ぎを見ると多少の推進力は持っているが、意思を持って方向を定めているとは思えない。海流任せのように見える。帆を持たない頃の古代の舟は、クラゲに近かったと言えるのではないか。人力で櫂を操れば多少は制御できるが、長い航海、例えば揚子江から九州となればほぼ潮任せであったであろう。と言う事は有明生まれの越前を考えた時、「揚子江近辺から倭国を目指した古代の渡来人は、有明海に辿り着いた」と言う事が言えるのではないか。
稲作の倭国への伝来ルートは幾つか考えられている。一つがこの揚子江近辺から、いま一つが朝鮮半島経由、そして台湾・沖縄経由である。山川出版社の「日本史総合図録」によればこの三つの道で最も大きな道は揚子江ルートとしている。更に同資料の「弥生文化遺跡の分布図」を見ると、最も密度が高く発生しているのが筑紫平野であり、他を圧倒している。筑紫平野とは言い変えると、有明海に注ぐ川が作った平野である。
航海術が未熟な古代の人達が、揚子江河口から黒潮任せに倭国へ向かったら、有明海に辿り着いた。そこに開けた肥沃な筑紫平野の川を遡り、稲作により築いた文明こそ、「邪馬台国」の基となった文化であったのではないか。
先にこのブログで、今年の5月から7月にかけて、倭国成立に係わる三つの海の道についての話を進めている。そのうちの一つが有明海と中国を結ぶルーとであった。嫌われ者の越前くらげのお陰で、‘有明海ルート’について思いかけずも検証することが出来た。
越前地方の人達は、「このクラゲの名前は、越前クラゲとせず、発生元の`揚子江クラゲ'と呼ぶべきである」と言っているという。最もな話である。私には思いもかけない情報の提供者となってくれたが・・・。
虚庵居士が皆さんに呼びかけて展開中の、市民大学講座でも、事例として紹介させて貰いますので、予めご了解願います。
近く諏訪大社に参詣されると伺い、諏訪大社で何を見出して来るか、今から楽しみにしております。
I want to crawl into a hole and die.