朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

金日成・金正日主義の基本内容ー強盛国家へと向かう朝鮮とその思想ー

2014年05月22日 | チュチェ思想入門
1、金日成・金正日主義とは 

 金日成・金正日主義の基本内容について述べます。
 話の要点は、金日成主義と金日成・金正日主義は何がことなるのかということです。結論からいうならば、なぜ金日成・金正日主義なのか、金日成・金正日主義がこんにちの朝鮮の革命の実情とどのようにむすびついているのかということになります。

1) チュチェ思想とは

 金日成・金正日主義とは何かをとらえるまえに、チュチェ思想とは何なのかをみなければなりません。
 チュチェ思想には二つの側面があります。一つは広義としてのチュチェ思想であり、二つは狭義としてのチュチェ思想です。

  狭義としてのチュチェ思想とは、チュチェ哲学のことをいいます。チュチェ哲学とは、チュチェの世界観、社会歴史観、革命観、人生観であり哲学体系をなしています。これはまた学問としてのチュチェ思想でもあります。
  広義としてのチュチェ思想とは、金日成主義をさします。広義としてのチュチェ思想は、チュチェの思想、理論、方法の全一的な体系をいいます。チュチェの思想、理論、方法の全一的体系というときの思想は、チュチェ哲学にあたります。したがって金日成主義とチュチェ思想は同義語だともいえるのです。

  チュチェ思想を解説するうえでまず、1930年6月30日、カリュン会議で開かれた共青やよび反帝青年同盟の幹部会で金日成主席がおこなった報告『朝鮮革命の進路』をみる必要があります。
  当時、朝鮮の植民地民族解放闘争においてもっとも影響力をもっていた思潮はマルクス主義でした。マルクス主義にもとづいて、ロシアで社会主義革命がおこり社会主義建設がすすんでいきました。ロシア革命の影響で、マルクス主義やそれにもとづく社会主義革命の潮流が、アジアやラテンアメリカなどの世界各地域に波及していきます。朝鮮人民にたいしてもマルクス主義が大きな影響を与えたことは事実でした。
 
  1920年代後半~1930年代前半、朝鮮の植民地民族解放闘争に身を投じた人は、マルクス主義者だけではなく、民族主義者、義兵闘争にかかわった人などさまざまでした。
  しかし、彼らの闘争は制限性をまぬかれませんでした。彼らの闘争における制限性のなかでもっとも深刻であったのはマルクス主義者でした。朝鮮のマルクス主義者がおかしたあやまちは、マルクス主義に内在する制限性というよりは、当時の朝鮮革命においてマルクス主義がどのような位置にあったのかという問題と関連する制限性でした。
  マルクス主義にもとづいてロシアにおいては社会主義革命がすすめられていました。ロシア革命やその後のソビエト社会主義共和国連邦における社会主義建設を見ながら、その成果を自国の革命に適用しようとした朝鮮共産主義者は、ロシアにおける革命を模倣する傾向が強くありました。彼らは、ロシアでの経験を朝鮮革命にそのまま適用しなければならず、また適用できると考えたのでした。
  当時、ロシア革命が勝利したとき、ロシアの民衆のなかで労働者は80%をしめていました。それにたいして当時の朝鮮においては民衆の90%以上が農民でした。90%以上を占める農民を一つに団結させて、どのように革命をおしすすめていくのかということが課題としてありました。
  農民は土地とともに生きています。朝鮮の農民の多くは小作農であり、小作農が耕している土地は地主から借りた土地です。社会主義革命をおしすすめるためには、農民は土地を手放し、社会的所有にしなければなりません。ところが当時の朝鮮の農民はみずからが耕している土地を手放してまで社会主義革命をおこなうという利害関係にたいする認識はなかったといえます。
  マルクスが指摘したように、土地にしばられる農民は、労働力しかもたない労働者階級より階級意識が低いという面がありました。農民が人口の多くを占める朝鮮の現状を無視して、革命が成功し社会主義建設をおしすすめているソ連のように、朝鮮もただちに社会主義革命をしなければならないという教条主義的な考え方は正しいとはいえませんでした。
  ロシアでの革命の成功をもって、朝鮮の自称社会主義者が同様の社会主義革命を朝鮮でもおこなっていこうとしたことで、朝鮮の民衆は社会主義者たちに反発するようになりました。
  本来ならば、民族解放闘争は同じ民族ならば社会主義者であろうが民族主義者であろうが主義主張に関係なく、すべての人たちが力をあわせて団結してたたかっていかなければなりません。みんなが力をあわせて日本帝国主義の植民地となっている朝鮮のおかれている状況を打破して、民族を解放する必要がありました。
  日本帝国主義という大きな敵がたちはだかり、朝鮮を植民地支配している状況がのなかで、すべての人たちが民族解放のために力をあわせてたたかわなければならないにもかかわらず、朝鮮人民のあいだで分裂がおきてしまったのです。
  当時の朝鮮の共産主義者は、朝鮮人民のためにたたかうのではなく、各自が党派をつくってコミンテルンの承認を得るために奔走しました。朝鮮の歴史的条件と具体的現実からかけはなれ、事大主義と教条主義の影響が強かった朝鮮共産党は消滅してしまいました。
  当時、朝鮮革命はどのような進路を見いださなければならないのか、民族主義者であれ、社会主義者であれ、みんなが考えていました。しかし誰もこの解答を見いだすことはできませんでした。
  社会主義を信念として朝鮮の解放をめざす朝鮮の青年共産主義者たちの中心には金日成主席がいました。金日成主席はチュチェ思想の原理を明らかにし、朝鮮革命の主体的路線を示しました。

  そのときはチュチェ思想という言葉はありませんでしたが、大きな発見が二つありました。一つは、人民大衆を発見したということであり、もう一つは自主的立場、創造的立場をうちだしたことです。
『朝鮮革命の進路』のなかで金日成主席はつぎのように述べています。
  
  「革命闘争の主人は人民大衆であり、人民大衆が立ち上がらなければ革命闘争の勝利は望めません。したがって、運動の指導者は当然、人民大衆のなかにはいり、大衆をめざめさせ、大衆自身が主人となって革命闘争を展開するようにしなければなりません」

  金日成主席は、革命の主人は人民大衆であり、彼らのなかにはいり意識化組織化することでのみ革命闘争に勝利することができる、人民大衆に依拠しなければならないと明らかにしたのでした。
  また朝鮮を独立させるためにどのような方法をとるべきかということについては、中国やロシア、あるいは日本などの他の国にお願いして朝鮮の問題を解決することはできない、朝鮮の問題は朝鮮人民が責任をもって解決しなければならない、朝鮮の人民にはその力が十分あるとしています。朝鮮人民をもっとも尊い存在、もっとも力強い存在としてみなしているのです。これが人民中心、人間中心の思想としてのチュチェ思想の出発点となっています。

  もう一つの発見である自主的立場、創造的立場について、金日成主席はつぎのように述べています。

  「朝鮮革命の主人は朝鮮人民であり、朝鮮革命はあくまでも朝鮮人民自身の力で、自国の実情に即して遂行しなければならないという確固とした立場と態度をもつことがもっとも重要であると認めます」

  朝鮮革命におけるすべての問題をみずからの責任によって、そして朝鮮の実情に即して解決していかなければならないということになります。これは方法論の問題です。
  チュチェ思想はまず人民大衆、人間が中心であり、人間がもっとも尊く力強い存在であると明らかにしています。それにもとづいて朝鮮を解放するためにはどういう方法論をとるべきかを明らかにしているのです。言いかえるならば、一つは朝鮮の問題をだれが責任をとるのかということで、これは朝鮮人民が責任をとるということです。もう一つは、どのように責任をとるのかということで、マルクス主義をそのまま模倣すればよいのではなく、朝鮮の実情に即してたえず創造していかなければならないということです。
  チュチェ思想は、人間をもっとも大切にする思想であり、人間の力によってすべてを解決していく思想です。

2) 金日成主義の定式化

  つぎに人民大衆中心、人間中心の思想であるチュチェ思想、そして自主的立場、創造的立場を提起しているチュチェ思想が、どのようにして金日成主義として体系化されていったのかという過程について述べたいと思います。
  金日成主席の思想が金日成主義として定式化されたのは1974年のことです。
  1974年2月14日、金正日総書記(当時は書記)が金日成主席の唯一の後継者として推戴されました。  金日成主席の後継者となった金正日総書記は、5日後の1974年2月19日、全国の朝鮮労働党宣伝活動家講習会の結語として、「全社会を金日成主義化するための党の思想活動の当面するいくつかの課題について」と題する演説をおこないました。

 金正日総書記は、結語のなかで金日成主席の革命思想を金日成主義として定式化し、つぎのように述べました。
 
「金日成主義はチュチェ時代の要求を反映して生まれた新しく独創的で偉大な革命思想です。金日成主義は一言で、チュチェの思想、理論、方法の全一的な体系です。すなわちチュチェ思想とそれによって明らかになった革命と建設に関する理論と方法の全一的な体系です」

  金正日総書記は、結語のなかでチュチェ思想を金日成主義とあらため、金日成主義を定式化しました。
  金正日総書記はまた、チュチェ思想とマルクス主義思想はことなるということを明らかにしました。
  そのときまで朝鮮の指導理念はマルクス主義であり、マルクス・レーニン主義を高くかかげて反帝闘争に勝利しようというのが朝鮮革命のスローガンでした。
  1974年までは、チュチェ思想は朝鮮におけるマルクス主義の創造的適用という位置づけで、朝鮮の実情に即してマルクス主義を適用するというのが朝鮮がおこなってきたことでした。
  党宣伝活動家講習会において金正日総書記が結語のなかで提起したのは、金日成主席の革命思想とマルクス主義はことなる思想であるということです。すなわちマルクス主義はこれまで世界の革命闘争を導いてきた偉大な思想であることは認めるが、帝国主義が新しく編成され、朝鮮の実情もかわってきた新たな状況に即して朝鮮革命をさらに前進させていくためには、マルクス主義ではなく金日成主義をうちたてなければならないということでした。
  そして金正日総書記は、マルクス主義の革命的伝統を受け継ぎながらも、朝鮮革命は新しい思想で力強くおしすすめていかなければならないと強調しました。

  金日成主席は、「社会主義偉業の継承完成のために」(1992年3月13日、1993年1月20日、3月3日)のなかで、つぎのように述べています。

 「わたしがわが人民の土壌に種をまき育んできたチュチェ思想を、金正日同志が生い茂った林にし、豊かな実りとして結実させたということができます」

 金日成主席は、チュチェ思想の内容について革命の発展段階に応じて明確にしてきました。
1955年12月28日、朝鮮労働党の宣伝扇動活動家におこなった演説「思想活動において教条主義と形式主義を一掃し主体性を確立するために」という有名な思想事業にかんする著作は、チュチェ思想をさらにうちたてるうえで重要な文献となっています。
 1970年代にはいると金日成主席は、外国の記者たちの質問にたいする回答という形で、チュチェ思想の内容についてさまざまな角度から発言しています。
 しかし金日成主席は、さまざまな発言はされても、みずからの思想を一つの体系として定式化し自分の名前を冠して主義とすることに意味がないと考えていました。金日成主席は、わたしは人民の息子であり、人民の息子としてマルクス・レーニン主義という偉大な思想をもって朝鮮革命をおしすすめていけるならばそれでよいと思っていたのでした。
 金正日総書記は、1966年から69年まで3年間、先行する労働者階級の革命思想を総括する思想理論活動にとりくみます。哲学、政治学、歴史学などあらゆる分野にわたり、100名余の専門家集団とともに、『共産党宣言』や『資本論』、『国家と革命』など、マルクスやレーニンの著作を読みこみ、論点を提起し、朝鮮の実情にあわせてどのように解釈できるのか、制限性はないのか研究を深めていきました。その研究の結論として、1969年にマルクス主義とチュチェ思想、金日成主義は根本的にことなる思想である、マルクス主義の偉大な革命的伝統は受け継ぐが、マルクス主義の理論はそのまま朝鮮に適用することはできないと言明していったのです。

  そのような研究成果のうえに、1974年2月19日に金日成主義が定式化されていったのです。
  これにより、朝鮮人民は人民中心、人間中心の思想としての金日成主義を朝鮮の唯一の指導方針としてかかげ、朝鮮革命を力強く推進するようになったのです。

  2012年4月6日、金正恩第一書記は朝鮮労働党中央委員会の責任活動家におこなった談話「金正日同志をわが党の永遠なる総書記として高くいただきチュチェの革命偉業をりっぱになしとげよう」において、金日成・金正日主義を新たに提起しました。
 じつは、1990年代にチュチェ思想研究者から金日成主義を金日成・金正日主義と規定することが提起されていました。朝鮮の学者たちもその提起をうけて、その意向を金正日総書記に伝えました。しかしながら金正日総書記はその提起にたいして強く反対しました。そのことについて、金正恩第一書記は「かぎりなく謙虚な総書記は、金正日主義はいくら掘り下げても金日成主義以外のものではないとして、わが党の指導思想を自身の尊名と結びつけるのをきびしくいましめました」と述べています。

  金正日総書記は、わたしは金日成主席の一人の戦士である、金日成主席と同列に並べて語ることはできないと、金日成・金正日主義を提起した人たちをきびしく批判しました。
  金正日総書記は、金日成主席の思想である金日成主義によって朝鮮革命をおしすすめている、朝鮮革命のリーダーとしての金正日はいるけれども、金日成主席と肩を並べるものではないと言っているのです。

  当時は金日成・金正日主義として確立することはありませんでした。
  これは金正日総書記の銅像を建立することについても同じことがいえます。
  朝鮮人民は、ことあるごとに金正日総書記の銅像をピョンヤンや地方都市に建てることを心から希望し、総書記に提起していました。金正日総書記はそのような提起をする人たちをきびしく批判し、けっして許可をだしませんでした。
  2012年12月17日、金正日総書記が現地指導の過程で突然逝去されました。このとき朝鮮人民は弔意をあらわそうとしても、どこに行けばよいのかわかりませんでした。それで金日成主席の銅像を訪ねていき金正日総書記にたいして挨拶をしていたのでした。
  人民の心情をおもんぱかり、金正恩第一書記は人民が金正日総書記を自分の胸のなかにいつでも誇らしく思いおこすことができるよう銅像を建てようと決意されます。それも単独ではなく、金日成主席といっしょに建てるようにしました。
  金日成主席によって創始され金正日総書記によって深化発展させられた革命思想は、金日成主義ではなく金日成・金正日主義とあらためることが必要だし、金正恩第一書記によって金日成・金正日主義は定式化されていったのでした。

3)金日成・金正日主義の定式化

  前述したように、金正日総書記が金日成主席のチュチェ思想を自主時代の指導理念として確立しました。この業績は誰も否定することはできないことです。金日成主席は回顧録のなかで、つぎのように述べています。
 
 「わたしはそれを体系化して本にまとめようとは思わなかった。ただ朝鮮人民がその思想を正しいものとしてうけとめ、革命実践に具現すればそれでよいと思ったのである。
その後、金正日書記がその思想を全面的に体系化し、『チュチェ思想について』という論文を発表した」
(『金日成回顧録―世紀とともに』第2巻)

  金日成主席はみずからチュチェ思想を金日成主義として体系化したわけではありません。

  それではチュチェ思想、金日成主義の体系化はなぜ必要なのでしょうか。
  思想は口伝で伝わるものではありません。このようなすばらしい思想があると口伝しても革命実践にむすびつきにくいものです。しっかりとした理論を土台にして体系的にその理論を学んだ活動家たちが、人民のなかにはいり彼らを革命思想で意識化し組織化していっしょにたたかっていくプロセスが必要なのです。
  朝鮮革命を金日成主義という偉大な指導者の思想にもとづいて指導していくためには、チュチェ思想をマルクス主義とはことなる金日成主義として確立しなければなりませんでした。金日成主義を現時代の革命思想として確立するうえでもっとも貢献したのが金正日総書記なのです。
  金日成主義確立における思想理論的業績が金正日総書記にあると金正恩第一書記は結論づけています。
  金正日総書記が金日成主義を深化発展させた内容の一つは先軍思想を確立したことであり、もう一つは社会主義強盛国家建設構想を確立したことです。
  
  金正日総書記の思想理論的業績の第一は、金日成主席の銃重視思想を先軍革命思想、先軍革命理論として確立したことにあります。銃重視思想とは文字どおり銃を重視する思想です。
金日成主席は父であるキムヒョンジク先生から二つの遺産をゆずりうけます。一つは三大覚悟という遺産です。すなわち殴死、凍死、飢死にする覚悟で革命にのぞまないならば、朝鮮の独立を達成することはできないということです。もう一つの遺産として、キムヒョンジク先生は金日成主席に二挺の拳銃を渡します。二挺の拳銃をゆずりうけた金日成主席は、「くるった狼は棒で」というスローガンをかかげ、日本帝国主義が朝鮮人民を無慈悲に抑圧し殺すならば、われわれは銃をもってたたかわなくてはならない、銃があってこそ朝鮮の解放ができる、言葉だけでは達成できないとして抗日遊撃隊を創建し、抗日武装闘争をおこなっていきました。
 
 金日成主席の銃重視の思想を先軍政治として1995年に確立していくのが、金正日総書記です。
1 994年7月8日に金日成主席が逝去された後、三つの理由によって朝鮮は苦難の行軍を強いられることになります。

  一つは帝国主義の孤立圧殺策動です。主席が逝去されたとき、アメリカや日本など帝国主義諸国がさかんに喧伝していたのは「三、三、三説」です。すなわち「三日で朝鮮は崩壊する」、あるいは「3か月で崩壊する」、「長くても三年で崩壊する」というものでした。
 朝鮮が崩壊するということを前提に、アメリカは朝米基本合意文があるにもかかわらず軽水炉の建設をとりやめ、さらに朝鮮にたいしてすべての外国との貿易をドルで決済するように強いたのです。朝鮮の国内には多くのドルはありません。ユーロや中国の元などの外貨はありましたが、ドルで一本化することが強制されることにより、朝鮮はすべての支払いができなくなったのです。これがアメリカのおこなった経済制裁です。アメリカが世界のドルを支配しているため、ドルを貯蓄している銀行の取引をストップしたり、すべての支払をドルで決済するよう他の国々に命じたりすることによって、朝鮮は他国との貿易ができなくなりました。これにより朝鮮は多大な経済的な損失をこうむることになったわけです。
 
 苦難の行軍を強いられることになった二つめの要因は、社会主義諸国の挫折です。
 社会主義諸国の挫折は一時的なものではありますが、実際に社会主義市場がなくなりソ連や中国などの社会主義国が市場経済に移行することにより、貿易が困難になりました。
ソ連や中国などの国々とはそれまでバーター取引をしていました。ドルなどの外貨で貿易の決済をするのではなく、たとえば朝鮮に無尽蔵にあるマグネシアクリンカー(マグネサイト)と中国に膨大にあるコークスを物々交換したり、ソ連とは重油などを現物で決済したりしていたのです。
 社会主義諸国の崩壊によりバーター取引ができなくなり、朝鮮は他国との貿易をドルで決済することが強いられることになりました。それにより朝鮮に重油がはいらなくなり、ほとんどの工場は操業がとまるようになりました。
 たとえばハムフンにある2.8ビナロン連合企業所は17年間、操業できませんでした。重油がないため工場が操業できず、操業を再開したのは2011年です。
  工場に労働者がおり工場の設備があっても重油がなければ機械を動かすことができません。労働者が生産しなければ労働者の生活は苦しくなり、国内の経済は機能しなくなっていくという悪循環を生みだしていくことになります。

  これに追い打ちをかけたのが自然災害です。これが苦難の行軍の三つめの要因となります。1994年に大洪水があり朝鮮の農村の30%の田畑が流出してしまいました。これにより朝鮮は慢性的な食糧難におちいることになり、食糧問題改善の道はけわしいものになりました。
  1990年代に朝鮮は、帝国主義諸国と対峙しなければならず、社会主義諸国とはバーター取引ができず、また食糧難におちいり、しかも金日成主席が逝去されるという困難な状況のなかで、金正日総書記はどのような決断をされたのでしょうか。

  金正日総書記は先軍政治しかないという苦渋の選択を決断します。
  1995年、安辺青年発電所の建設現場において、人民軍軍人たちは「トンネルを貫通するまで祖国の青い空を見ない」というスローガンをかかげてたたかっていたのです。トンネルを貫通させるまで自分たちは青い空を一度も見ない、いまの困難な状況のなかでこのトンネル工事の成功が父母たちの生活、人民たちの生活に直結する、一日でも一分でも早く、このトンネルを貫通させなければならないという心意気で人民軍軍人たちは安辺青年発電所の建設にとりくみみごとに完成します。これによりピョンヤンの電気事情が改善されました。
  安辺青年発電所の人民軍軍人たちがかかげた革命的なスローガンには、革命的軍人精神がやどっています。「党が決心すればわれわれは実行する」という革命的軍人精神でたたかっている軍人たちに依拠しなければ朝鮮はたおれてしまう、軍人たちに依拠するならば、あらゆる困難をのりこえて国を守り経済建設をおしすすめることができると金正日総書記は確信し、軍人たちの精神世界を見習い、社会主義強盛国家建設をおしすすめていくようにしました。これが先軍政治なのです。
  
  金正日総書記は、1994年11月1日、「社会主義は科学である」という歴史的な著作をあらわしました。金正日総書記は、同じ時期「主席が逝去されてから世界の政界はわたしがどのような政策を実施するのかと注目しています。とくに、敵どもはわたしの思想が赤いのか白いのか、黄色なのかを知ろうと神経をつかっています(『チュチェの社会主義偉業を擁護固守し最後まで完遂しよう』、1994年11月19日)」と述べます。

  赤いというのは共産主義、黄色いというのは資本主義で、白いというのは白旗を意味します。金正日総書記が赤いのか黄色いのか白いのかを世界が注目しているなか、総書記は、「わたしは論文『社会主義は科学である』を発表して、主席がきりひらかれた社会主義偉業を擁護固守しあくまで完成していくことを明らかにしました。これは、わたしの思想が赤いことを宣布したのと同じことです」と述べています。  金正日総書記は、金日成主席が偉大な人民とともに歩んできたこの朝鮮をなくすことはできない、社会主義革命をここで終わらすわけにはいかない、朝鮮が先頭に立って、苦難をのりこえながら社会主義革命を推進していこうと述べたのでした。
  当時、金正日総書記は、人民たちが食糧がたりず苦労している姿を目のあたりにし、心のなかで涙を流しながら、それでも社会主義革命を守ると決心していきました。学校教育や医療も無料であり、すべてのものを人民を優先する国家を守るために先軍政治をうちださざるをえなかったのです。
  こうして金日成主席の銃重視思想を先軍政治理論として開花させたのです。これが金正日総書記の大きな思想理論的業績の一つです。

  もう一つの金正日総書記の思想理論的業績は、社会主義強盛国家建設理論です。
  社会主義強盛国家建設理論は、社会主義強盛国家建設として1998年にうちだされました。1998年は「強盛富強アリラン」という歌が広まっていきましたが、当時の状況は停電がしばしばあり食糧も豊かではありませんでした。そのようななか、1998年8月31日、朝鮮は人工衛星「光明星第1」号の打ち上げに成功します。人工衛星打ち上げの成功を皮切りに、朝鮮人民は自分たちの力で強盛国家をつくると決意し、準備をすすめていきます。
  帝国主義とのたたかい、社会主義陣営の崩壊、朝鮮経済の破綻というかつてないきびしい状況をのりこえ、社会主義強盛国家を建設するという段階にいたるまで12、13年もの歳月がかかりました。社会主義強盛国家の大門をひらくと言われるようになったのは2007年11月のことです。
  朝鮮では苦難の行軍と呼ばれる期間、経済的に困難な状況のなかでも国家資金の多くをCNC(コンピュータ数値制御)開発にあてました。朝鮮はきびしい状況のなかでも先端科学技術によって経済をたてなおし、すべての生産を自国の原料と燃料に依拠し、自力でおこなう方策をとっていったのです。
  金日成主席は、人民が白米と肉汁を食べ、絹の衣服を着、かわらの家に住めるようにするというのが念願でした。人民へのあたたかい思いがあらわれており、その思いを具現したのが社会主義強盛国家建設だと思います。人民がおなかいっぱい食べ、よい服を着て、よい家に住むという理想を実現し、帝国主義の圧殺策動から自国を守り、社会主義勢力が弱体化しているなかで社会主義を防衛し発展させていくための方策を具体的に示したのが金正日総書記でした。
  このような金正日総書記の思想理論的業績をふまえて、金正恩第一書記は、金日成主義ではなく金日成・金正日主義とすべきであると結論づけたのでした。

  金日成主義と金日成・金正日主義は、チュチェ思想にもとづいており、本質的には同じです。
  チュチェの100年史を総括して新しい100年史をはじめる際に、新しい100年史を導いていく時代精神、時代理念として朝鮮人民をかわらず勝利の道に導いていくのが金日成・金正日主義であるということができます。

2、朝鮮の強盛国家建設の現況とその思想

 つぎに社会主義強盛国家建設の現況とその思想についてみていきます。

1)百年史の総括と歴史の分水嶺

 金正恩第一書記は、2012年4月15日、金日成主席生誕100周年慶祝閲兵式でおこなった演説「先軍の旗をさらに高くかかげ、最後の勝利をめざして力強くたたかおう」のなかで、つぎのように述べています。

 「昔も今も国の地勢学的位置はかわりませんが、列強の角逐戦の場として無惨にふみにじられていた昨日の弱小国が、今日は堂々たる政治軍事強国となり、朝鮮人民は誰もあえておかすことのできない自主的人民として尊厳をとどろかせています」

 朝鮮の地勢学的位置にはかわりがありません。朝鮮は、大国である中国やロシアにかこまれています。
中国との関係を2000年という長いスパンで歴史的にふりかえってみると、朝鮮はたえず中国から侵攻をうけ、大国の角逐の場として無残にふみにじられてきました。日露戦争(1904~05年)は日本とロシアのどちらが朝鮮を占領するのかという戦争でした。朝鮮は長いあいだ大国によって翻弄される歴史がつづいてきました。
  20世紀になってはじめて朝鮮人民は金日成主席という偉大な指導者を迎え、チュチェ思想を手にすることができ、みずからが国と社会の主人であり、国と社会をつくっていく力も自分自身にあるという自覚をもつことができるようになりました。朝鮮人民の運命は金日成主席という指導者を見いだすことにより180度転換することになりました。
チュチェ思想を守りつづけることが、朝鮮の100年史の総括です。チュチェ思想を守り、チュチェ思想のもとに団結し、チュチェ思想をもってたたかってきたところに、朝鮮人民の立ち位置があるというのが100年史の総括です。
  金正日総書記が2011年12月17日に逝去されたとき、朝鮮人民は力をなくし、帝国主義者たちは朝鮮にたいする孤立圧殺策動を強めていました。朝鮮はこれからどの道をすすむのか、「改革開放」にむかうのか、それともチュチェ思想を守り、金日成・金正日主義の旗をかかげてまっすぐにチュチェの道をすすんでいくのかということが問われました。
  金正恩第一書記がうちだした結論は、金日成・金正日主義の旗を高くかかげてチュチェの道ひとすじにすすんでいくということでした。
  金正恩第一書記は、2012年3月26日、金正日総書記の逝去に深い哀悼の意をあらわしたすべての人民軍将兵と人民に感謝文をおくりました。
  
 金正恩第一書記はつぎのように述べています。
 
 「こんにち、われわれには、金正日同志が強盛国家建設のために生涯労苦をついやし心血をそそいでまいた貴重な種を丹精して育て、すばらしい現実として開花させるべき重要な課題が提起されています」

  金正恩第一書記は、このような思想にもとづき2012年4月15日、歴史的演説をおこないました。
 また2012年8月27日、青年節に際し、青年節祝賀大会の参加者と全国の青年たちにおくった祝賀文のなかに「われわれはいま、白頭山大国の建設のための第一歩をふみだした」という言葉があります。金正恩第一書記は、金日成・金正日主義をうちだしたことにより、われわれは社会主義強盛国家、白頭山大国建設のための第一歩をふみだしたと述べているのです。

 朝鮮では、青年は祖国建設のための主力であり、未来の主人公であると定義しています。青年にたいする期待が強く、青年を未来の主人公としてみています。金正恩第一書記自身が青年です。金正恩第一書記はまだ若く、公の場にでてきて1年たらずのあいだで国家のリーダーになったので、業績も金日成主席や金正日総書記にくらべるといまはまだ多くありませんが、若いリーダーとしてすべての人民が期待しているということができます。
  こんにちの時代認識として、徹頭徹尾、「遺訓」の精神を貫徹するということがあり、金正恩第一書記は、金日成主席と金正日総書記、人民がきずきあげてきた偉大な成果をそのままうけ継ぐ政治方式をとっています。
  朝鮮人民、朝鮮の青年は、これから金正恩第一書記の名前で輝く強盛国家をきずいていくんだという強い意志をもっています。指導者と人民との一体感、一心団結の思想がいまの朝鮮にはみなぎっており、それが輝かしい朝鮮の未来を展望するものになっています。

2) 21世紀を自主時代に導く金正恩ビジョン


  最後に朝鮮の未来を展望する意義と意味について述べます。
  自分自身の主人になるとはどういう意味でしょうか。自分が社会の主人であるからといって、自分が生きている国に抑圧されている人民がいるとしたならば、その国は強盛国家とはいえないでしょう。
  東北アジア、世界において戦争をなくし平和を実現していくために、あるいは植民地主義の解決のために朝鮮半島がになっている意味は大きく、それゆえ朝鮮の未来を展望する意義と意味は大きいといえます。
  一心団結、不敗の軍力、新世紀産業革命、これは金正恩第一書記が2012年4月15日に述べた構想です。金正日総書記は1994年にこれとまったく同じことを言っています。金正日総書記は、1994年11月19日、朝鮮労働党中央委員会責任幹部との談話「チュチェの社会主義偉業を擁護固守し最後まで完遂しよう」で、いま朝鮮では人民が一心団結しているが、これからはもっと強く一心団結していかなければならないという立場を明確にしました。また、これまで人民軍は人民のためにたたかってきた、これからアメリカと対峙しながら自国を守るためには、よりいっそう人民軍を強化していかなければならないと述べています。
  金正日総書記は、1994年に新世紀産業革命にかんして賢明な指導をします。当時、アメリカを中心とする帝国主義勢力は、朝鮮にたいしての軍事的技術的優勢を誇っていました。それにたいして朝鮮は、人民軍を強化することに力をそそぎ莫大な国家予算をついやしてきました。戦争になると肉弾戦になるので死を覚悟しなければならず、莫大なお金も投下しなければなりません。この問題を解決するためには、最新の科学技術をとりいれる必要がありました。軍事的技術的優先を帝国主義者たちが表明できないようにするため、CNC技術に莫大なお金がつぎこまれていきました。
  金正恩第一書記は2012年4月15日、これまでは帝国主義者たちが軍事的技術的優勢を誇っていたが、帝国主義者たちが威勢を誇る時代は永遠にすぎさったと述べました。
  CNC技術を開発して工場をCNC化し、人工衛星を打ち上げるという道のりはどのような意義をもっていたのでしょうか。朝鮮人民は、1994年からはじまった苦難の行軍のため苦しい生活を余儀なくされているなかで、CNC開発のため、軍事力の強化のため、経済再建のため、全力を投じていきました。血と汗と涙の結晶が人工衛星「光明星3」号2号機の打ち上げだったのです。
  ところが人工衛星打ち上げに成功したとき、「国際社会」は朝鮮にたいして「違法」だと決めつけたので朝鮮は反発しました。国連安全保障理事会の常任理事国はすべて核保有国です。日本や韓国はアメリカの核の傘にはいっています。朝鮮だけ核の傘がないのです。その朝鮮にたいして人工衛星を打ち上げたと非難するのです。世界ではこれまで約9000回、人工衛星が打ち上げられていますが、それらの国々にたいしては何の制裁もなく、唯一朝鮮だけを違法だと非難しているのです。
  アメリカに挑戦し、アメリカ帝国主義体制にとりこまれないで自主を表明する国々が自国の技術を発展させると違法となり、アメリカを主軸とするグローバリゼーションの枠内にはいっている国は違法ではないというのです。朝鮮はこのようなアメリカ中心の秩序をこわし、世界を自主化しようとしています。
帝国主義や大国主義の横暴な秩序を解体していくために、自国の力をたくわえていかなければなりません。金正恩第一書記は朝鮮労働党中央委員会2013年3月総会で、この間の活動を総括し経済建設と核武力建設の並進路線を提起しました。
  朝鮮はこれから攻撃精神で社会主義建設をおこなっていくということです。こんご、アメリカは戦争なのか平和なのかの二者択一するしかありません。朝鮮人民の覚悟はできています。すでにボールはアメリカに投げられました。オバマが戦争を選択するのか、平和を選択するのかを決めなさいという意気込みです。
  
金正恩第一書記は朝鮮人民のリーダーとして絶対的な信頼と敬愛の念をあつめ、朝鮮革命はまえにすすんでいます。
  金正恩第一書記は、いまの朝鮮の時代精神として金正日愛国主義をかかげています。愛国主義とはナショナリズムではなく、その根本的な内容は未来志向です。未来のためにいまを生きる、明日のためにいまを生きるということです。後代のために何ができるのかということを超強度強行軍という現実をもって人民に教えてくれた金正日総書記の遺訓を継いでたたかっていこうとしています。
  














コメントを投稿