平成うきよの覚え書き

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遠き昭和のスター 赤木圭一郎

2013年09月08日 | 私の「小話」史
以下転載
平成十三年(二〇〇一年)、小林旭はインタビュー形式による著書「さすらい」を出版している。この著書の一章は「赤木圭一郎とダイヤモンド・ライン」と題されている。小林旭はこの中で、赤木圭一郎と石原裕次郎に多少の嫉妬と反発を抱きながら、彼なりに赤木評価をしている。それは基本的には、私自身が当時の日活ダイヤモンド・ラインを担った三人の俳優、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎について抱いていた評価と大きくちがわない。その意味で小林の赤木圭一郎評価は、あれほど間近にライバルを見ていながら、冷静で客観的である、と言える。
 特筆すべき小林旭の発言をいくつか以下に紹介しておくことにする。出典は上記著書の文庫版(小林旭著、「さすらい」、新潮文庫)である。

 「赤木は俺よりも身長は低く、運動神経のほうもよくなかったけど、拳銃を構え股を開いて立つと人が変わり、そんなハンデをまったく感じさせなかった。逆に、嫉妬を覚えるくらいスマートだったよ。それこそ都会的なチンピラの、ジーパンはいて革ジャン着て、オープンカーに乗っかって、なんて格好させたら天下一品。実に絵になった。」(一〇四頁)

 「俺に『こいつはたいへんなライバルになるな』と脅威を感じさせたのは、後にも先にもこの赤木圭一郎ただ一人。俺にとって裕次郎は、俗に言われているようなライバルではなかった。彼には彼の世界があり、俺にも俺の世界があったから、競争意識を持つ必要など何もなかった。
 赤木があのまま一人前になっていたら、日活の二枚看板は「裕次郎・赤木」になっていたろうね。返す返すも惜しい人材を失くしたよ。赤木が生きていたら、日活の低迷なんてのもなかったかもしれない。日本映画の斜陽化を踏み止まらせたかもしれない。」(一〇五頁)

 「(赤木圭一郎は)要するに、アウトローで、都会的で、それでいて下品じゃない。ルックスも甘い。
 俺なんか女に甘い男じゃないし、海水パンツよりもどっちかといったら作業着にズボンの方が似合う。裕次郎も女には優しいかもしれないけど、赤木ほどには都会的じゃないし、ギターはぴんとこない。
 死んだから言うわけじゃないけど、赤木が生きていたら、ひょっとして裕次郎の名前も霞んでたかもしれない。」(一〇六頁)

 小林旭の赤木圭一郎評価は、彼の性格をそのまま表していると思われるくらい、素直で露骨である。同じようにわたしが赤木圭一郎を裕次郎、旭と比較しつつ、その特徴と魅力を一言で表現しようとすれば、赤木の魅力は他の二人ほどにギラギラした欲望と言ったようなものを感じさせない、都会的な哀愁を湛えた孤独者、ということになりそうだが……これについては、具体的な出演作品の中で考えてみたい。

 上に紹介した小林旭の第一の発言については、赤木圭一郎の「抜き射ちの竜」に、あるいは遺作「紅の拳銃」などによって裏付けられている、と考えることができる。発言二については、小林旭のいずれかの作品と赤木圭一郎の「幌馬車は行く」あるいは「錆びた鎖」を比較したとき、いっそう際立って二人の違いが見えてきそうな気がする。

 わたしは裕次郎や小林旭と同じように長生きした赤木圭一郎を想像することができない。もし彼がその後多少とも長生きをしていたら、などと無責任な想像をするにしても、赤木が果たしていつまでも俳優生活を続けていたかどうか、非常に疑問である。少なくとも、彼が出演した十数本の映画の延長上で、俳優として生き続ける赤木圭一郎を想像することはできない。裕次郎もまた別の意味であれほど永い間俳優を続けるべきでなかった俳優だと思う。彼もまた時代の生み出した俳優として、比較的初期の時代にその本質的な魅力は発揮され、そこにしか彼の魅力はなかったように思う。それは「狂った果実」や「錆びたナイフ」などのような初期の作品のことである。
転載以上
 オリンピックが東京で開催される事が決まり、日本中が大騒ぎしている、***ナ日に遠き善き昭和をしのぶ。
 東京オリンピックの時には私は20歳であったろうか、別になんとも思わなかったし、テレビ・新聞もこれほど大騒ぎはしていなかった。なんだ今日のこの馬鹿騒ぎは。愚かの極み!!

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