無教会全国集会2015

2015年度 無教会全国集会ブログ

無教会と宣教

2016-01-28 22:28:56 |  2 無教会と宣教

金成翰

プロフィル
13歳から宣教師の子供として日本で育つ。大学卒業後4年間、建設会社で社会生活を経験した後、神の御国の為に献身したいと思い神学校に入学する。2007年にフルゴスペル神学大学を卒業し渡米、Southwestern Baptist Theological Seminary(M.Div)を経て現在はEvangel University (Ph.D.in Intercultural Studies) に在学中。スプリングフィールド第一長老教会と純福音東京教会にて副牧師、フルゴスペル神学大学講師などを経て、現在は日本の無教会をテーマとした卒業論文準備に取り組んでいる。

 まずこのような素晴らしい機会に、日本の無教会の皆さまを前にして、お話をさせていただく機会を与えてくださった関係者の皆様とそして何より、われら主なる神様に感謝しております。前年度の大会では、初対面ながら皆さまにアンケートを協力をお願いし、また協力してくださった方々にこの場を借りて、感謝を申し上げます。

 私は現在、宣教学を勉強しており、中でもキリスト教の歴史の中で福音がどのように伝播されてきたのか、それぞれ異なる文化において福音はどのような形で現地の人々に受け入れられるのか、について関心を持っております。
そんな中、アメリカで在学中に授業で日本について話し合う機会がありました。クラスのすべての教授や学生達が口を揃えて私にした質問は“何故、日本にはキリスト教が根付かないのか?”でした。私を含めほとんどが日本イコールキリスト教が世界で最も広がりにくい国、という認識で染まっていました。
 そんなある日、私は日本的キリスト教についてリサーチをしている中、常に登場する一人の名前がありました。それは内村鑑三という人物でした。それまで彼と無教会についての存在は知っておりましたが、関心を全く持ったことはありませんでした。それは私の意識の中に、無教会イコール異端という認識はあったからです。

 教会では、とにかく熱心に教会の礼拝に参加する人を信仰が良い人、と呼んでくれますので、私も牧師としてそのように教えてきました。ある聖徒が“今日は体調が悪いから休みます”ということを言うと、はじめは“いや、いくら体調が悪くても礼拝を休んではなりません”といいますが、それが何週も続くと“あの人は不信仰の霊に取りつかれた”といいます。そのような状態で牧会をしますので、当然、無教会と言われると、いい印象を持つはずがありませんでした。

 しかし、日本のキリスト教の土着化を調べていく過程の中で、内村鑑三という人の存在がもはや、無視することができないくらい頻繁に出てくるようになりました。そこで私の関心を一気にひきつけたのが内村鑑三の一高不敬事件でした。正直、それまで私は教会の中で日本の聖徒達の過去の国家神道の過ちに対する曖昧な態度にとてもイライラしておりました。国家神道を批判することが日本を批判することと同じことになってしまうという心配から日本聖徒には正しいことを言うつもりが、なぜかおどおどする自分がいました。そんな私に2次大戦の当時の天皇に頭を下げなかった日本人クリスチャンがいたことはとても衝撃でした。しかも、それが無教会の創始者ということで、私は迷わず研究テーマにしたい、と教授先生たちに報告しました。

 キリスト教が珍しい日本について、しかも初めて聞く無教会について、研究したいときいた先生達は皆、口をそろえて、“彼らの正体は一体何なのか?”ベースラインのデスクリップションを要求されました。そこから一昨年前に皆さまにお願いしたパイロットリサーチの時点までも私は皆さまについての研究を非常に安易に考えておりました。しかし、研究が進めば進むほど、本を読めべ読むほど、わからなくなってきました。膨大な量の無教会関係の本、研究資料、そして何よりも難しいのが、無教会関係の本はどんなに小さいい本でも内容が濃い言葉も難しい、何度も読んでもよくわかりない本が多すぎる。これは基本的なリサーチところか、無教会についての研究が世界的にもすでに富士山のような大きな存在であることに気づくようになりました。中に入るとどんどん吸い込まれるが、ますますわからなくなる、最近は、だから無教会なんだ、と割り切って研究に取り組むようにしております。

 しかし、今の段階で、私が確信を持つようになったことは、無教会の日本社会における影響力のすごさです。これだけの社会的影響力を及ぼすことができるのは、“宣教師の墓場”と言われる日本についての私の世界観を一気に変える大変な出来ことでした。確かに日本は“宣教師達の墓場”かもしれない、しかし“キリスト教の墓場”ではない、と私は強く確信を持つようになり、しかもその中心に内村鑑三と無教会の皆さまの存在があるということです。
さて、今日はこのような私の研究を背景に、私は無教会と宣教という題で韓国教会の一牧師の視点からみた、お話をさせていただきたいと思います。

 まず韓国のキリスト教会は統計がとても好きです。なんでも統計を取りたがります。何十万聖徒、何十個の管轄教会、など。このような統計的な立場から日本と韓国のキリスト教を比較してみると 韓国のキリスト宣教が日本よりもはるかに成功的であったことは一目瞭然であります。国民の約3割がクリスチャンという統計は欧米の宣教師達にとっても嬉しい結果であったはずでした。しかし、聖書が意味する教会(聖徒の群れ)という側面からみて、この統計的結果だけをもって宣教の成功可否を語ることをどこまで信頼できるかには疑問が残ると思ったわけです。それは真の教会とはキリストを頭とする目に見えない霊的な教会であるからであります(コロサイ1:18;エペソ1:22)。人間の統計によってある国の宣教は成功、ある国は失敗、という見方に些か疑問を抱かずにはいられません。

 しかし、今なおあれだけ大きくなった韓国教会、しかしその内外でよく耳にする言葉は“教会とは一体何だ?”ということです。聖徒達の貴重な献金で大きな建物を建て、教会の財産を積み上げるのが教会か?毎日のように熱心に祈り礼拝に参加するのが教会か?しかし、そんな熱心な信仰生活の裏側で満たされないこの心のもやもやは何か?しかも、教会の外ではなぜあれだけの批判を浴びているのか?聖徒達はとても混乱しているわけです。多くの人々は神の国と教会を、神様と牧師を、混同しています。それは教会でそのように教えるからです。牧師と教会によく仕えれば神様は祝福してくださる、という睡眠剤のような教えが蔓延しているわけです。

 私が大学を卒業して建設会社で務めていたごろ、いつも思っていたことは、“自分は会社の会長のために働いている”ということでした。しかし、彼は私とは何の関係もない人の為にこんなに自分を献身するくらいなら、神様の教会で神様の為に働きたい“、と思うようになり、神学校に入学し、教会で働き始めましたが、教会内にも同じように存在する世俗的な組織を見てがっかりしました。そんな私にとって何か信仰の突破口という気持ちでアメリカでの勉学が始まりました。そして、“真の教会という一体何か”という止まらない私の問いに対し、納得の行く答えは最新の神学知識からではなく、意外にも宣教地の日本から見つけることができたわけです。

 内村鑑三によって始まった日本の「無教会」という概念は世界中のクリスチャンに教会の本質に関する大きな課題を遺してくれたと思います。それは、教団教派を称する目に見える教会が必然的に持つようになる人間組織の堕落した姿に関して、であります。神を名乗り多くの人々を抑圧したローマカトリックという巨大な人間の組織は宗教改革を通し、プロテスタントとして教団教派へと細分化されながらマテリアリズムと手を組みました。そして今日、教会の中で起きている唯物論的リバイバルとご利益主義による弊害がその結果であるのではないかと思うのです。しかし、今から100年前にすでに内村は初期プロテスタント宣教の時期に無教会を叫んでいたのです。

しかし、今まで多くの韓国教会は無教会を無視してきました。それは韓国教会は欧米のオーソドックス化されたドグマと組織中心の教会論に強く依存してきたからであります。しかし、近年の宣教学の発展にともない、この欧米文化の衣を着た組織中心のオーソドックスな教会論への依存がどれだけ世界の宣教各地において副作用を起こしてきたかがだんだんと明らかになってきているのであります。

 今日、21世紀における宣教の中心が北半球から南半球へと移動することにより、現地で新たに生まれてくる様々な文化に適した形の教会についての研究が進んでおります。そして、宣教学(Missiology)と教会学(Ecclesiology)の架け橋として注目されている「宣教教会 (Missional Church)」という概念は今までの教派教団中心の宣教と組織中心の教会概念を脱皮し、教会とは即ち、神を信ずる人々の群れである、という聖書が言う真の教会観を再証明するようになりました。すなわち、教会は教団の産物ではなく、神の宣教の結果であるという概念へ教会のパラダイムが全世界的に少しずつシフトしているのであります。その神の宣教とは決して人間の組織と権力の中に閉じ込まれることなく聖霊を通して救われる人々の為に働き、いつの時代においても形や固定概念に捕われず神の霊はご自身の人々の為に働いて来たということが明らかにされるようになってきました。そして、「無教会」が目指してきた紙上の教会は、その「宣教教会」というレンズから見て、十分に真の教会の一群として神の宣教の一角を担って来たともいえるわけです。韓国においても、このような「宣教教会」の理解を通し、多くの既成の教会から否定的にみられてきた「無教会」に対する誤解を解き、韓国のキリスト教における新しいビジョンを考えることが必要な時代になってきているのではないかと思うようになったのであります。

 しかし、そんな中で私は韓国ではなぜこれほど無教会にたいして否定的なのかを、考えてみました。それは、このような宣教学と教会論の世界的な変化がもちろん韓国の神学校でも教えられているのにも関わらず、無教会を異端とは言えない時代になってきたのにも関わらず、韓国教会の無教会に対してはなかなか耳を貸そうとしないのか?を考えるようになりました。そこで私は日韓の初期プロテスタントの土着の過程に注目し、二つのことに注目しました。

 一つ目は、両国のキリスト教のイメージの違いです。無教会が韓国でどうしても越えられなかった精神的壁、それは植民地時代の日本という悪いイメージがることに気づきました。もちろん無教会本来の精神は世界的にも普遍的ですが、しかし、戦後直後の霊的にも物質的にも貧しく、日本に対し被害意識が強かった韓国では日本というイメージはあまり歓迎されなかったのはないか、と思うわけです。
 そういう意味からすると、日本と韓国における初期プロテスタント宣教における無教会の位置付けはそれぞれ異なるように思えたのです。日本の無教会は日本人から始まったので、少なくとも日本的というイメージをもっております。しかし、韓国社会はキリスト教を含めは終戦後、日本的なものよりアメリカ的なものをもっと積極的に受け入れてきました。もちろん、植民地時代と朝鮮戦争の苦難を信仰で生き抜いた素晴らしい韓国の無教会の人々もいましたが、戦後、そのほとんどは社会運動化され、1960年代以降に起きた韓国教会における爆発的な成長はむしろ、無教会精神と正反対のマテリアリズム重視の成功主義と欧米の教会成長理論が韓国文化のシャーマニズム的側面とうまく合致した結果であるのではないかと考えたのです。このように目に見える大きな教勢を持つ韓国教会と無教会を代表とする日本のキリスト教は、初期プロテスタント宣教の受容において全く正反対の道を歩んでいたのです。

 そして、もう一つの理由に日韓の人々の一般的な価値観の違いに注目しました。私に日本人と韓国人の違いを一言に述べるとしたら、感情的と理性的だと思います。韓国の人は見た目がすべてだと言っていいほど見た目を重視する、しかしそれにくらべて日本人は中身を優先する。その分、常に“何故”を理由を求めようとするからではないかと思うわけです。 なので日本の無教会は日本社会において数々の業績を残してきたように思います。特に教育界と神学界における無教会の貢献が目立つと思います。目に見える教会の規模は小さいけれども、日本社会の中で無教会が“真の教会”を絶え間なく求め続けて来た結果ではないかと思います。しかし、今日の韓国の教会は大きな教会教勢の規模に比例するかのように、“真の教会”の姿に対する疑問を持つ人々の批判が絶頂に達しています。“教会さえ大きければすべてよし” という形重視の考えは、まさに外見重視の韓国の人々の価値観とぴったり合うわけです。しかし、そこから出てくる弊害に対して、韓国教会がこれといった答えを見つけているようには思えません。このように、それぞれ異なる二極の教会観を歩んできた両国を宣教学的な視点から見ると、意味(Meaning)を重視した日本と形(Form)を重視した韓国であったように思える。

 結論的に、宣教の成功可否は人間の統計によって語ることはできません。宣教も教会も神ご自身のものであるからである。日本には日本的キリスト教が、韓国には韓国的キリスト教が生まれてきたのは文化的・社会的に必然なことであったように思えます。しかし、若い牧師の一人として、あまりにも形だけを重視してきた今日の韓国教会が抱えている問題を目の前にしながら無教会精神を立ち帰らずにはいられないのであります。「宣教教会」という教会のパラダイムの変化による韓国教会の覚醒がいち早くおきて、韓国において無教会に対する真剣な考察が行われることを祈りたいと思います。


生けるキリスト

2016-01-28 22:19:54 |  生けるキリスト

 10月17日。全国集会1日目の19時からは、全体テーマでもある「生けるキリスト」という標題のもと、浅井慎也さん、中川陽子さん、木村護郎クリストフさんの三名に証をしていただいた。三者三様に、一人ひとりのご経験を通じて、それぞれに自己自身の言葉を探し、たしかなものをたぐり寄せようとしていたように思う。以下、それぞれの証の要約を記していきたい。

 浅井慎也さんは、自己の深く傷ついた経験を辿り直すことから、イエス・キリストのとりなしによって主の平安へと至るまでの道筋を示してくださった。伝道は、社会の課題にも結びつく。否、社会のあり方は、他ならぬ一人ひとりのこころの行いに依るのである。浅井さん個人のこころのありようから、聖書の言葉、イエス・キリストとの出会いを通じて、社会の改良という大きなテーマを一言一言に掘り起こしていくような証の言葉だった。

 中川陽子さんは、ご自身の幼少時からの道行きを通じて、律法ではなく、永遠の生命によって生かされるということについて証してくださった。人間関係の躓きのなかで繰り返される「私には愛があるのか」という自問自答。これは、わたしたち一人ひとりの日々の課題であり、また、信仰の課題でもあるだろう。中川さんご自身の経験から見いだされた「神さまに向き合う」ということ、「どんなときも、どんな相手にも、愛をもって接する」ということ、とても強められる言葉であった。

 木村護郎クリストフさんは、「余に如何にして信仰が与えられしか」という副題で語ってくださった。人生の仮定として、仕事を失うこと、家庭を失うことはだれにでも起こりうる。しかし、「信仰を失うことはあり得ない」と木村さんは語る。信仰とは世界観であり、人生観であり、日々の活力の本源である。キリスト信徒の家庭のなかでさえ「信仰がわからない」という経験がありうるということ、しかし、「つべこべ言わずに信じる」ということ、「わからなくても信じる」ということ。その論理を飛躍したところにこそ見いだされる信仰のあり方からもまた、大いに勇気づけられた。

 後半の質疑応答の時間も含めて、有意義な言葉のわかちあいを実現できたように思う。なお、この青年の会という企画は、2009年5月に名古屋で開催された青年全国集会の流れを汲んでいる。今年は、準備委員の一人でもある浅井さんの「苦しんでいる人、弱い立場に置かれているひとのための時間をもつべき」という強い希望によって、証の時間をもつことになった。
結果、三名の証の言葉からは、それぞれの信仰に対する冷静なる熱情とともに、その人格的な誠実さが伝わってきたように思う。主にあって一つ、豊かな時間を共にすることができたことに、深く感謝申し上げたい。(倉井香矛哉)



生けるキリスト

2016-01-28 22:03:27 |  1 生けるキリスト

                          浅井慎也

プロフィル
1982年11月13日生れ。20歳から心の病を発症、不安や罪悪感の嵐に襲われる。発症期間は仕事も勉強もできなくなる。
26歳の春にキリストと霊的な出会いがあり、そこからは、大きな心の病には至らずにすむ恵みを受けている。プロテスタントの教会に通っていたが、洗礼が救いの条件になっていることなどに疑問を感じた、その時に、無教会を知り導かれる。現在、工場にて検査、出荷などの仕事を与えられている。

1.    神との出会い

25歳の春に、夢や希望もなく、また、自分の犯した罪などに関して苦しむ時期が続きました。26歳の春に当時住んでいた会社の寮の近所の教会に導かれ、イエス様との出会いが与えられました。いくつかの教会を行ってみましたが、あまり、かまってもらえないような所もあったのですが、その教会はとても親身になって、自分のことをケアして下さりました。家庭に招かれたり、礼拝に参加したりしました。

そこでイエス様のお話、聖書のお話を聴きました。
 姦淫の罪を犯して石打ちの処刑にさせられそうになっている女性をイエス様が救うお話、または、朝一番から一日、働いている人にも、仕事を見つけられなくて、夕方の四時から働きだした人にも、同じ賃金を与えるという天の国のたとえの話を聴いて、とても救われた思いがしました。自分は姦淫の罪を犯した女性のような存在であり、また、仕事を見つけれなくて、四時まで働けていない人と同じような存在だと思っていたからだと思います。

 自分の罪を赦していただいたような経験をしました。そして、砂漠のような乾ききっていた心に、潤いが与えられたのでした。毎週日曜に教会に行き、礼拝に参加する生活が始まりました。教会に通っているうちに色々な疑問が生じてきました。洗礼を受けた人が救われるという事などです。
 聖書の中の、詩編3:9に、救いは主のもとにあります。
とあるように、救いは神様からくるものではないかという疑問がうまれていました。
教会が絶対化されているような印象を持ち(すべての教会がこのようになっていないことを後に知りました。)、ちょうどその時、無教会の存在を書物にて知りました。本を読むことにより、無教会に大きな期待を抱くようになりました。救いや神様の恩恵などは、教会と言う枠の中に閉じ込まるものではない、教会の外にも救いありという考え方に深く共感しました。

2.    無教会の集会に導かれる

インターネットで無教会の集会を調べ、高橋聖書集会の礼拝に参加させていただきました。
その後、2010年11月のキリスト教無教会青年全国集会、2011年11月の無教会全国集会で徳島聖書キリスト集会代表の吉村孝雄さんと出会いました。
吉村孝雄さんの無学な人にも、どうにか福音を伝えたいという精神に深く共感し、それに大きく助けられました。当時、聖書の知識もなかったのですが、吉村さんのお話はわかりやすく、力をいただけました。徳島聖書キリスト集会のホームページにてインターネットで自由に聴けるようにしてくださっているのが、自分にとっては助かりました。吉村さんの聖書講話を小型の音楽プレイヤーに入れて、通勤の時に聴くような習慣がスタートしました。それによってたくさん聖書の事を学ばせていただくことができました。

 もう一つその全国集会で印象に残っていたことがあります。徳島の全盲になっている綱野悦子さんと綱野さんを手引きしている貝出久美子さんのペアの明るさ、笑顔です。その空間だけ、パッと光輝いているように見えたのです。ハンディを背負っている人に対して、自分が持っていた固定観念が壊されたのです。その時は、一度は信仰を与えられたものの、様々な原因があり、信仰が落ち込んでいる時だったのです。しかし、綱野さんの笑顔を見て、神様はいるのだと思わされたのです、信仰が再び心の中に、燃え上がって来たのをよく覚えています。

3.    生ける神を伝える

 自分の場合は、神様から与えられた恵みを他の人にも伝えたいという思いがうまれました。
3年前に、以前勤めていた会社の先輩(現在64歳)にお会いできたことがありました。その方に、聖書の話をしたり、吉村さんが書かれている月刊誌いのちの水を渡したりしました。
その時は、興味がなかったようですが、一年以上は経った、ある時、その先輩が目の調子が悪くなりました。
その時に、僕に連絡をくださりました。その方は身寄りがほとんどいないので、僕に連絡を下さったようです。1か月くらいした後、網膜剥離ということがわかり、緊急入院が決まりました。
その日の内に手術をされたようです。
手術が終わったあとに、僕に連絡を下さりました。
僕は、先輩が入院している時に、お見舞いに行きました。その時に、聖書講話や、賛美歌が入った音楽プレイヤーをお渡ししました。
その先輩は元気な時は、あまり神様の話には興味がありませんでしたが、入院していたときは、興味深く聴いて下さりました。

手術が無事に成功し、無事に退院なされました。有難いことに、僕が毎週日曜に礼拝に行く渋谷への道のりの途中に住んでいらっしゃる方でしたので、毎週日曜日にお会いするようにしました。その方とともに聖書のお話や讃美歌を聴いたりする時間を持つようになりました。僕にとって、とても幸せな時間でした。日曜日ごとに神様の恵みを分かち合う時間を持つようになったのです。

 そして、一つ嬉しいことがありました。福島の原発の事故の影響で、孤児になっている犬、猫などの為に募金活動をしている団体を、その先輩と歩いている時に見ました。僕は次のように言いました。「犬や猫など弱いものが一番辛い思いをするんですよね。 
でも神様は一羽のすずめのことをも忘れないでいてくださる方と聖書には書かれて、あるんです。」その後、先輩に変化が起こりました。
 今までマンションの2Fに住んでいるのに、エレベーターを使っていた先輩が、階段を使うようになったのです。その時は、寒さの厳しい冬だったのですが、その先輩は、1人で部屋の暖房はするのは悪いと思い、図書館や本屋に行ったりして電気を節約していたようです。その先輩はまだ信仰告白はしてませんが、そのような変化が自分には、嬉しかったのです。

 神様の福音というのは、その恵みは伝えられた人だけにとどまらず、社会にも影響が及ぶとても大きく、深く、広いものだと思わされたからです。伝道は社会問題の解決にも結び付く、とても貴重な仕事であると自分は思っています。
経済の格差が広がっている問題においても、昔は、社会の仕組みが悪いのが原因と思っていましたが、今では、原因は我々の一人一人の心の問題、一人一人の行いにあると思うようになりました。

聖書の中でルカ3:11に
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない物にわけてやれ。食べ物も同じようにせよ。」
と書かれています。他にも聖書の中には、困っている人を助けなさいというメッセージがたくさん書かれていることを学びました。貧しい人や困っている人を助ける、このような単純なことを一人一人が行っていない結果が、経済格差によって、貧しい人が苦しむ原因になっていると思うのです。

 お金に余裕のある人が、貧しい人にお金を寄付すれば、時間に余裕のある人が、困っている人を助ければ、その分、生活保護、社会福祉などの国家の負担が減り、国の財政もよくなるのではないか、そのようなことを考えています。聖書の教えは、個人にとどまらず、国を救うものであると思っています。

 聖書のヨハネの手紙1の4章19節に、わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
と書かれているように、神様から愛されているという実感がないと、困っている人や貧しい人を助けることは難しいのではないかと思っています。
聖書の中で、ザアカイという税金を取り立てる嫌われ者だった人がいます。ザアカイも、イエス様の愛に触れて
「自分の財産の半分を貧しい人に施します。」
と言っています。
だから自分は、神様の愛を伝える者となりたいと思っています。

4.最後に
ニュースで、麻薬に依存してしまう19歳の少女のお話が載っていました。麻薬に依存する理由は、嫌な過去と、不安な将来を消すためということでした。自分も、イエス様に出会う前、同じことで苦しんでいたことを思わされました。イエス様は、自分の嫌な過去と、不安な将来を消してくださりました。そして、生きる目的を与えて下さり、どのように生きたらよいかを教えて下さりました。ここに集められている多くの人も同じような経験をしているのではないでしょうか。
麻薬は人体に悪い影響を及ぼすと聴いたことがあります。しかし、神様の恵みは、そのように人体に悪い影響も及ぼしませんし、嫌な過去と不安な将来を消すだけに留まらず、その人の一生をよいものでみたし、周囲にもその恵みが増え広がってゆきます。
 いま、まさに苦しんでいる魂に、イエス・キリストを必要としている魂に伝えなければと思わされたのでした。

生涯、私を救って下さった神様を礼拝する者、伝える者であり続けたいです。



生きている神様に導かれて

2016-01-28 22:00:03 |  2 生きている神様に・・

中川陽子

プロフィール
1971年生まれ。徳島聖書キリスト集会員。集会では、スカイプの中継係やコーラスの担当をしている。コーラスは多くて8名程で、楽しく讃美している。看護師として14年間大学病院に勤務後、母が立ち上げた「有限会社マンナ在宅支援ミルトス」に勤務し、二人で介護支援専門員(ケアマネジャー)として、心身に問題を抱えた要介護者や、その家族を支えるための仕事をしている。

 私の最初の神様との関わりは、母からでした。母が無教会のクリスチャンで、高校生の時に担任だった吉村孝雄さんより伝道を受け、徳島聖書キリスト集会に行くようになっていました。私や弟も小さい頃集会に連れられて行っていました。
小さい時から私は自分の中に大きな罪があることを強く感じていました。また、行動はぐずぐずしていて、友達と仲良くする方法が分からず、強い劣等感を持っていました。
聖書を開いて自分なりに読んでみた時に、イエス様の山上の教えに感動したものの、自分にはできないことも思い、悲しくなりました。クリスチャンになるとは、これを全部守ると決めて宣言することだと思い、キリスト教に憧れがあるのに、清すぎて入り口が分からない世界に思えました。
20歳の時に、マーリンキャロザース牧師の「賛美の力」という本を読みました。困難に見えることに対しても神様を信頼して心から感謝した人に、奇跡的な解決が与えられた証が書いてあって驚きました。また、その本から、初めてキリスト教とは罪人の私たちのために、イエス様が十字架に架かってくださることによって、永遠の命を無償で与えてくださるものであるということを知りました。アブラハムもただ神様を信じるだけで義とされたとありました。私はこんな自分にも道が開かれ、実際に助けてくださる神様がいることを知って、本当に嬉しく、ただ信じて入れていただこうと思いました。この本の証のような奇跡を起こせる生きた神様についていきたいと思いました。それですぐ、母のところに行って、「お母さん、私クリスチャンになる。」と言いました。母は突然のことで半信半疑でしたが、とても喜んでくれました。その後まもなく、父もいつの間にかイエス様を信じるようになっていました。
その数ヵ月後、私は、神戸の大学病院で看護師として働き始めました。最初に配属された心臓血管外科の病棟は急変の多い部署なので緊張度が高く、先輩の指導も非常に厳しいものでした。朝から晩まで叱られ、否定され、心はボロボロになりました。同期の子は一人辞め、翌年入った新人は皆辞めました。仕事を覚えながら何とか適応しようと努力しましたが、夜勤も多かったので、体も疲れ果て、過敏性大腸症候群や不眠症になりました。また、看護師の仕事で一番苦しかったのは、日々自分の愛のなさを痛感させられることでした。
当時無教会の集会が近くになかったので、近くの教会に行こうとしました。しかしそこでは、洗礼を受けなければ、クリスチャンではなく求道者と呼ばれ、どこに行っても信仰でなく洗礼の話になり、教会の人にとって、洗礼を受けているかどうかが非常に大切なことであるということを知りました。信じるだけで無償で救われることを読んで、この信仰の世界に入ってきたけれど、洗礼を受けなければ永遠の命がいただけないのかもしれないと思い、何年も悩みました。一度は悩みを解決するためだけに洗礼を受けようとしたこともありましたが、どうしても納得できずに止めました。教会でのお話も、私が当時実生活で悩んでいることの力にはなりませんでした。だんだん、救われた最初の喜びからほど遠くなり、キリスト教が理解できず、劣等感の塊で、完全に道を見失っていきました。就職して9年程経っていました。
そんな時、徳島で行われた無教会のキリスト教四国集会に参加しました。そこにはゆったりとした清らかな、特別な空気が流れていました。私は人に会うのが嫌で、あまり周囲と関わりたくなく、壁の内側から周囲を観察しているような感じでした。
その日、講話が始まると、みなさんが前を向いて熱心に聞き始めました。その瞬間、一人ひとりが心を、上におられる神様に向けて、じっと神様に聞き入ろうとしているように感じました。みんなが人間的な思いで人に会いに来ているのではなく、神様に会いに来ており、自分の課題に対して、生きた神様の働きを待っているのが分かりました。そう気付いて、私は心底ホッとすることができました。人間を見つめず、神様の方を向いているその空間が、とても居心地良く感じられました。その時、私は初めて聖霊を感じて、それを受けることができました。地上の喜びとはまったく違った、理屈ではない大きな喜びで満たされて、この喜びと他の物を交換するのは嫌だと思いました。
それが大きな転機となり、聖霊を受けたその時から、洗礼を受けるかどうかということが、まったく問題ではなくなりました。イエス様が救ってくださったものを人が覆したりできないことが分かり不安がなくなったのです。そして私の霊的な居場所が、この無教会の徳島聖書キリスト集会であるということもはっきりと分かりました。その後神戸でも集会が与えられ、交代勤務の中でも定期的に礼拝に出ることができるようになりました。
仕事では、集中治療室に配属されました。いつかは働いてみたいと思った部署でしたが、人間関係に再び悩まされることになりました。しかし、信仰的な転機を迎えていた私は、講話を聴くときには、自分のこととして一生懸命聞き、不安な時は聖書を必死で読みました。詩篇の作者のうめきが、私のうめきと重なり「私の敵の前で、私の食卓を整えてくださる」という詩篇23篇5節の御言葉が深い慰めとなりました。自分に冷たい態度を取る人のことを祈り、できるだけ愛をもって接するように努めました。ある時、士師記7章のところが、目に留まりました。神様はギデオンに、「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいけない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ」と言われ、兵士をわざわざ減らされました。それを読んでとても驚きましたが、私の目の前の問題もいかに大きく見えても、神様のお力はそんなものを越えて勝つことを、信じることができました。それは、自分の力に頼らず、信仰によって、神様のお力によって救っていただくことを知る良いレッスンとなりました。
しかし集中治療室5年でもう限界となり、病院を辞めることにしました。辞める時、私にずっと冷たい態度をとってきた人が、ためらいながら話しかけてくれ、「中川さんだったら、優しいからどんな仕事をしてもうまく行くと思うよ」と言ってくれました。私はそれをその人の精いっぱいの謝罪と愛だと受け止め、できるだけの愛が伝わっていたことも知ることができました。こうして、病院での私の課題は終わりましたが、それが今では、私のかけがえのない経験として、仕事上や心の大切な宝物となっています。
今、わたしは母が起こした、有限会社マンナ在宅支援ミルトスという会社で、ケアマネジャーとして働いています。病院でとても厳しい訓練を受けたことが、今利用者さんを支援する上で、とても役立っています。利用者さんやそのご家族は、神様が意味あって私に出会わされた隣人であると思い、できるだけ私なりに愛を込めたいと願っています。今こうして、神様に繋がり、自由に仕事ができる環境を感謝します。日常の些細なことで、神様は驚くほど私たちを助けて下さり、それを通して「神様が生きて共にいる」ということを知らせてくださいます。外に仕事に行くと、会うべき人にばったり出会えたり、神様に促されるように相手に電話をしたことで、問題を早期に解決できたりしました。解決不可能と思われた問題も、神様は必ず助けて下さいました。私達は罪人で十分なことができませんが、神様はいつも私達を助け励まし、できる以上のことを与えて下さっています。母と二人の小さい会社ですが、今では中核病院や市役所関係からも困難事例と言われる仕事を任せていただけるようになりました。
わたしは枯れた骨のような状態から、神様の吹かれる、霊の風によって生き返りました。私の杯は、今溢れていると思えます。今も自分の罪や課題がたくさんありますが、そのまま神様に祈ると、神様は聖書をはじめ様々な本や、出来事から方向を示してくださいます。今、なるべく嫌な出来事や気持ちも神様に感謝するようにしています。痛みがある所に祈りが生まれ、神様との関係が発展していくことを知ったからです。今までの歩みを振り返ると、すべて私たちの背後で、生きているキリストが導いてくださったことを感じます。まだ小さい、仕事上の面でしかできないことも多いですが、これからも、自分の思いを超えて、クリスチャンとして神様ご自身が成長させてくださると信じています。




どのように信仰が与えられたのか

2016-01-28 21:44:43 |  3 どのように信仰が・・

木村護郎クリストフ

プロフィール
両親・妹との家庭集会から、春風学寮を経て、現在、自由が丘集会に通っている。上智大学教員。専門は、言語社会学、ドイツ社会研究。東日本大震災以来、脱原発を打ち出したドイツのキリスト教界が原発にどのように向き合ってきたかを調べたことをきっかけに、信仰と自然・環境の関係を考えている。

 韓国からいらした方々が、どのように信仰が次世代に伝えられてきたかをお聞きになりたいということですので、今日は、私にどのように信仰の恵が与えられたかをお話ししてみたいと思います。

 キリスト信徒の両親のもとに生まれた私は、小さいときから、神様の存在を家庭の「雰囲気」から感じとっていました。小学校高学年か中学校くらいの頃、夜、寝る前に一人でベッドのなかで信仰に関することを考えていたことをおぼえています。それがなんだったか具体的にはわすれてしまいましたが。神様を信じるというのは自分にとって、いわば三度の飯とおなじくらい当然のことでした。
 クリスマスなどにおばの行っていた教会にいくほかは、基本的に両親と妹の家族4人で日曜日の夕方に家庭集会をしていました。小学生の頃は、日曜日に両親が年に数回、特別な講演のある日などに無教会の集会にいくときは祖父の家に預けられていました。そこではテレビ番組が見放題だったり、祖父に絵をかいてもらったり祖父の犬の散歩をしたりして楽しかったこともあり、親がいれこんでいる無教会とやらには、悪い印象はなかったです。
 信仰の自明性が薄れ、疑問がでてきたのは高校くらいのときでしょうか。家族4人で車に乗っているとき、この車に乗っている人のなかで信仰がわからず神様から離れているのは自分だけなのか、とおもっていたことを思い出します。でも、信仰なしで生きることを考えたことは一度もありません。これまで自分とともにあった神様との関係を失うことはもはや考えられないことでした。ただ神様って誰なのか、信仰って何なのかよくわからなくなっていました。
 そういう高校時代に、うまれてはじめて無教会の集会に行きました。盧平久(ノ・ピョング)という韓国の無教会の先生がきて、その人は(日本人とちがって)ダイナミックな話し方が面白く、はなすときにぴょんぴょんはねるというので、なんとなく面白そうだと関心をそそられて親について行ったのです。大人だけが行く場所にはじめていけるわくわく感もありました。ちょっと大人になったぞ、みたいな感覚でしょうか。行く前は、無教会の集会というのは、大きな講堂みたいなところにたくさんの人が集まって、講師が壇上で話すんだろうと、学校の全校集会のような会をイメージしていたのですが、いざ行ってみると、ビル地下の会議室に主に年配の人たちがたしか10数人から20人程度座っていて、前の教卓みたいなところで講師が話す、教室のような雰囲気で、拍子抜けしました。でも、かえって緊張感がとれてなんとなくほっとしたようにおぼえています。
 そのときだったか、また別のときに同じ集会に行ったときだったか、集会の主催者の合田初太郎という、長らく企業に勤めながら伝道活動を行ってきた先生が私に話しかけてきて、次のように言いました。
 若いもんは、聖書のあれがわからんこれがわからんといっていろいろ言うけど、おれだってわからんわ。とにかく、つべこべいわずに信じればいいんだ。
 ちょっと乱暴な言葉にも聞こえますが、私は、自分の内心をみすかされているような気がして、はっとしました。こうやって何十年も熱心に信仰の人生をおくってきた人でも、わからないんだ。なーんだ、それでいいんだ。なんかすごく安心しました。信仰を(頭で)わかる必要はない、というのは大きな発見でした。
 大学に入って、親のすすめで、春風学寮という食事(これも大切な要素でした。無教会は共にする食事を軽視すべきではありません!)と聖書講義つきのキリスト教学生寮に入ることには何の抵抗もなく、むしろ日曜に聖書の話が聞けるのが楽しみでした。(そのわりに、実際はあまりまじめに聞いていなくて、大学院生になって寮を出る頃になってようやく一回一回、真剣に聞くようになりました。)
 親の信仰に対して反発しなかったのかと聞かれることがあります。息子というのは、しばしば父親に反抗心をいだくのかもしれませんが、うちの父はあまりしゃべる方ではなくかつ何もおしつけない人なので、のれんに腕押しとはまさにこのことで、反抗のしようがありませんでした。母は逆に、たえずいろんなことを言ってきましたが、そのような母への反抗心やうっとおしさを感じたころには、その強そうな母の弱い面も同時にみえてきてしまって、反抗する気がうせてしまいました。ドイツの神学者エスター・フォン・キルヒバハはいみじくも次のように言っています。
「大きくなった子どもは親のさまざまな至らなさをみるようになって失望するということがよく言われます。親の弱さを発見することは子どもにとってショックだと。こういうことは私たちのところでは起こらないはずです。といってもキリスト信徒の親の方がそうでない親よりすばらしいということではありません。そうではなくて、キリスト信徒の家庭では、子どもはそうではない家庭よりも早く、親も完璧ではないということを学ぶからです。」(Esther von Kirchbach: Die Hausgemeinde, S.42)
 これは自分の経験からしてもうなずけます。親が自分の権威をふりかざす権力者ではなく、弱さをもちつつ神とともに懸命に生きようとする人間であることを知ったとき、親は既に反抗の対象ではなくなっていました。
 またなんらかの「方針」を親から指示されたように感じたことはそもそもありません。信仰は、「方針」ではなく生きる上での基盤そのものなのでなんらかの「方針」と感じたことはありませんでした。親からあれこれ提案はよくしてきましたが、いいとおもえばやるし、気がすすまなければやらないまでで、あとくされなくやってこれたとおもいます。エスペラントや少数民族の研究など、次々と(世間一般からみれば)変わったことに手を出す息子を温かく見守ってくれた両親には本当に感謝してます。

 今の私にとって、信仰は、世界観でもあり、人生の目的を示すものであり、日々の力の源でもあります。毎朝、一日は『日々の聖句』(ドイツ語でLosungen)を読んではじまります。毎日、その日を導く「標語」となるべき旧約の一句に、その意図を新たに照らし出す新約の一句が添えられています。旧新約がそれぞれ伝えることの間にある緊張と共鳴、展開に、毎朝のように驚かされます。仏教徒の友人に、神の意志などどうしてわかるんだ、と言われたことがありますが、聖書を読むことで知ることができることを実感します。とりわけ、新約聖書の福音書によって、生けるキリストの言葉に出会うことができます。そして、職場に向かう道中、家を出て少し歩いたところにある、視界のパッとひらける坂上のいつも同じ場所でこう祈ります。

 「今日、世界を愛と感謝に満ちたまなざしでみることができますように。とりわけ、快活な安心感をお与えください。私に出会うすべての人があなたの愛と臨在を感じられるために。」
(Gib, dass ich heute die Welt mit Augen betrachte, die voll Liebe und Dankbarkeit sind. Vor allem bewirke, dass ich voll heiterer Zuversicht bin, dass alle, die mir begegnen, sowohl Deine Liebe als auch Deine Gegenwart spüren.)

 朝、これらの文章に導かれて祈ったあとの私の一日は、仕事や生活に紛れて、感謝も快活な安心感もどこかに行ってしまうことがあまりにも多く、日々、前進がないようにもみえますが、あきらめずにつながり続けることでいつしか造りかえられていることを願って、今日も生かされています。

木村護郎クリストフ