アントニオ猪木の訃報で彼が湾岸戦争前年の1990年12月にイラクに行き、イラクで人質になっていた在留邦人の解放に尽力していたことを思い出した。情けないことにイラク大統領サダム・フセイン(当時)の命により、日本人を含め欧米諸国の民間人が「人間の盾」として人質にされていたことさえ、すっかり失念していた。以下はwikiでの「人間の盾」の解説。
―さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。
なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空やブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は、アントニオ猪木が訪問した後に解放した日本人人質41人など、小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。
だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。
当時猪木は参議院議員でもあったが、彼の解説「イラク在留邦人人質解放までの真相」にも以下のように書かれている。
―1990年(平成2年)湾岸戦争が危惧される中、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。
解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木は、被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行うため、バグダードに向かうということを決断する。
猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否。すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いという意味です」と猛烈に反対した。イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。
1990年(平成2年)11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。やむなく猪木は、園遊会の会場で当時の駐日トルコ特命全権大使に懇願したところチャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバグダード入りが可能となった。
1990年(平成2年)12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。この時サッダーム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。
イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。……
同年、日本社会党委員長だった土井たか子も猪木より先にイラク訪問、サダム・フセインに面会したことを思い出した。土井はフセインに、「私は女性です。戦争になれば女性が最も被害を受けます……」と訴えていたが、フセインがおざなりの対応をしたは書くまでもなく、邦人人質1人、解放されなかった。
蛇足だが、「自衛隊は憲法違反だ、即刻廃止せよ」と長年に渡り声高に主張し続けた土井は、1999年10月、中国での建国50周年記念の軍事パレードに参加したことがwikiにある。
イラク在留邦人人質解放は、猪木の功績だったといえる。外務省の対応には改めて腹が立つが、トルコ大使の仲介もあったことはwikiで初めて知った。
何故フセインが一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたのかは不明だが、猪木と同じくフセインも派手なパフォーマンスを好んだ人物だった。人質といえ、強制収容所の囚人並に扱われていたのではなく、それなりに待遇は良かったはず。イラク側でも大勢の外国人人質を抱えていれば、食費だけでもバカにならない。
そして邦人人質事件に対し、イラクを批判した日本のイスラム研究者や中東シンパはいただろうか?批判したとしても、米国や日本政府の対応程度だろう。外務省の対応は批判されて当然だが、とかく米国を糾弾しても、総じて日本の中東研究者はイスラム圏の人権弾圧にはダンマリ気味。共産主義国を賛美し続けていた社会党や土井と同じく。