インドのムガル朝第3代皇帝アクバル(在位1556-1605)は、この王朝のみならずインド史上もっとも優れた君主の一人とされる。多宗教多民族国家インドをまとめるため採った政策の一つが宗教の寛容、信仰の自由だった。宗教会議用にイバーダド・ハーナー(礼拝の館)を建て、そこでムスリム、ヒンドゥー、ジャイナ、ゾロアスター、キリスト教徒などを召集、自由に討論させる。16世紀にこんな政策を行ったのはインドの他にない。まさに名前どおりアクバル(アラビア語で偉大の意)なのだが、この皇帝はパールシー(インドのゾロアスター教徒)とも親密な関係にあったことが、先日見た『ゾロアスター教の興亡』(青木健著、刀水書房)に書かれていた。
イスラム化が進み、祖国での迫害を逃れインドに移住したゾロアスター教徒のことは、「合法移民と不法移民」の記事にしたし、「インドのユダヤ人」でもパールシーについて触れた。移住後13世紀頃までは次第に居住区を拡大、生活基盤も安定するものの、インドにもイスラム勢力が盛んに侵攻するようになる。14-15世紀になると、居住地のグジャラート州がムスリムの侵攻に直面し、パールシーの共同体も破壊され、せっかく築いた社会的地位も下降する始末。
アクバルも1572-73年にかけ、グジャラート征服を果たしている。もちろん戦なので虐殺、破壊、掠奪はあったにせよ、これまでのムスリム支配者とは異なった。
パールシーは1578年に早くも代表者を首都ファテープル・シークリーに送り出し、アクバル皇帝の御前討論会に参加させ、ムガル宮廷との関係を強化している。アクバルは同年から翌年には積極的にパールシーの大神官マーフヤール・ラーナー(1536-91)、同じく医師メフルヴァイト(1520-86?)との接触を図り、神官の演じる幻術や後者の医術にすっかり魅了されたという。その後、アクバルは自らスドラとクスティーというゾロアスター教徒独自の白シャツに帯をつける衣装を着用し、宮廷で拝火儀式の執行を命じる。ついには自分の暦においてゾロアスター教暦の月名を採用するに至る。そして1581年、諸宗教融和のため新宗教ディーネ・エラーヒー(神の宗教の意)を開教するが、これは儀礼面でゾロアスター教に酷似していたそうだ。
布教もしない少数民族の宗教なのに、アクバルは何故ここまでゾロアスター教を優遇したのか?見ていて楽しいだけのマジックや優れた医療技術ばかりが原因ではない。これにはムガル朝の特殊な事情が背景にある。王朝の血筋こそムガル(モンゴル)よりトルコ系だが、戦のみが強い草原の遊牧民集団ではなく、既に洗練された文化を有しており、特にペルシア文化を愛好していた。宮廷の公用語もペルシア語、インドの土着諸語を上回る文化語として扱う。本格的な近世ペルシア語辞典もイラン本国に先駆け17世紀のインドで編纂される。
ペルシア文化尊重の流れで、16世紀後半から17世紀のインドではゾロアスター教徒は古代ペルシア文化の生き証人として優遇される。日本人が今でも古代中国の文明を憧憬の目で見るように、当時のインドではイスラム以前でも歓迎された。そのため、この時代にイランからインドに移住したゾロアスター教の神官もいる。宗教間の融和運動と神秘主義の興隆は血生臭い宗教対立に明け暮れる西欧と対照的で、信じる信仰が異なる者でも共存可能な社会だったのだ。
一方、ペルシア文化の本国イランはサファヴィー朝時代、シーア派を国教としたため純化運動が進み、スンニ派さえ迫害を受ける有様、ましてや異教時代の生残りであるゾロアスター教徒の境遇が一段と低下する。サファヴィー朝の頃、イランを訪れた西欧人の記録にはゾロアスター教徒が苦難の生活を強いられていたことが見える。
アクバルの父フマーユーンは皇帝としては凡庸であり、敵に大敗しサファヴィー朝に身を寄せたこともある。そこでシーア派に帰依することを条件に兵を借り受け、領土を奪還する。シーア派の信仰に熱心だったのかは疑問だが、イラン文化に造詣が深い教養人であるのは確かだ。父の亡命中に生まれ、教師のアブドゥルラティフも教条主義ムスリムではなかったため、アクバルはかなり柔軟な宗教観を持つようになったのだろう。
その②に続く
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イスラム化が進み、祖国での迫害を逃れインドに移住したゾロアスター教徒のことは、「合法移民と不法移民」の記事にしたし、「インドのユダヤ人」でもパールシーについて触れた。移住後13世紀頃までは次第に居住区を拡大、生活基盤も安定するものの、インドにもイスラム勢力が盛んに侵攻するようになる。14-15世紀になると、居住地のグジャラート州がムスリムの侵攻に直面し、パールシーの共同体も破壊され、せっかく築いた社会的地位も下降する始末。
アクバルも1572-73年にかけ、グジャラート征服を果たしている。もちろん戦なので虐殺、破壊、掠奪はあったにせよ、これまでのムスリム支配者とは異なった。
パールシーは1578年に早くも代表者を首都ファテープル・シークリーに送り出し、アクバル皇帝の御前討論会に参加させ、ムガル宮廷との関係を強化している。アクバルは同年から翌年には積極的にパールシーの大神官マーフヤール・ラーナー(1536-91)、同じく医師メフルヴァイト(1520-86?)との接触を図り、神官の演じる幻術や後者の医術にすっかり魅了されたという。その後、アクバルは自らスドラとクスティーというゾロアスター教徒独自の白シャツに帯をつける衣装を着用し、宮廷で拝火儀式の執行を命じる。ついには自分の暦においてゾロアスター教暦の月名を採用するに至る。そして1581年、諸宗教融和のため新宗教ディーネ・エラーヒー(神の宗教の意)を開教するが、これは儀礼面でゾロアスター教に酷似していたそうだ。
布教もしない少数民族の宗教なのに、アクバルは何故ここまでゾロアスター教を優遇したのか?見ていて楽しいだけのマジックや優れた医療技術ばかりが原因ではない。これにはムガル朝の特殊な事情が背景にある。王朝の血筋こそムガル(モンゴル)よりトルコ系だが、戦のみが強い草原の遊牧民集団ではなく、既に洗練された文化を有しており、特にペルシア文化を愛好していた。宮廷の公用語もペルシア語、インドの土着諸語を上回る文化語として扱う。本格的な近世ペルシア語辞典もイラン本国に先駆け17世紀のインドで編纂される。
ペルシア文化尊重の流れで、16世紀後半から17世紀のインドではゾロアスター教徒は古代ペルシア文化の生き証人として優遇される。日本人が今でも古代中国の文明を憧憬の目で見るように、当時のインドではイスラム以前でも歓迎された。そのため、この時代にイランからインドに移住したゾロアスター教の神官もいる。宗教間の融和運動と神秘主義の興隆は血生臭い宗教対立に明け暮れる西欧と対照的で、信じる信仰が異なる者でも共存可能な社会だったのだ。
一方、ペルシア文化の本国イランはサファヴィー朝時代、シーア派を国教としたため純化運動が進み、スンニ派さえ迫害を受ける有様、ましてや異教時代の生残りであるゾロアスター教徒の境遇が一段と低下する。サファヴィー朝の頃、イランを訪れた西欧人の記録にはゾロアスター教徒が苦難の生活を強いられていたことが見える。
アクバルの父フマーユーンは皇帝としては凡庸であり、敵に大敗しサファヴィー朝に身を寄せたこともある。そこでシーア派に帰依することを条件に兵を借り受け、領土を奪還する。シーア派の信仰に熱心だったのかは疑問だが、イラン文化に造詣が深い教養人であるのは確かだ。父の亡命中に生まれ、教師のアブドゥルラティフも教条主義ムスリムではなかったため、アクバルはかなり柔軟な宗教観を持つようになったのだろう。
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