トーキング・マイノリティ

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もうひとりの海賊女王 その①

2008-10-01 21:23:21 | 読書/欧米史
 欧州史で海賊女王と呼ばれた女なら、大抵はエリザベス1世を思い浮かべるだろう。たが、同時代に英国の隣国アイルランドにも海賊女王と謳われた女傑がいたことを、私も最近知ったばかりだ。その名は、グラニュエール(またはグレイス)・オマリ。エリザベス1世が軍艦に全く乗らなかったのに対し、グラニュエールは文字通り船に乗り込み海戦を指揮した。

 グラニュエール・オマリとは同時代の英国支配者から、「大いなる略奪者にして反乱者、海上の窃盗と殺人のリーダー」と怖れられ、アイルランドの詩や物語で讃えられた女丈夫。並外れた軍事的、政治的手腕を武器に数十年に亘りアイルランド西岸地域を支配した女だった。ハリウッド風活劇により、海賊といえば斬ったはったの無法者のイメージが強いが、それは映像映えする一面のみを誇張したためである。中世のヴァイキングと同じく、略奪しつつ、幅広く海上交易を行う武装商船団が実態に近い。エリザベス1世がスペインとの関係で海賊女王となったように、グラニュエールの人生もまた英国支配が影響している。

 アイルランドは古くからケルト人が住みつき、紀元5世紀頃、キリスト教の布教が行われ、各地に修道院が建てられる。ローマ滅亡後、欧州で高度な文化水準を維持する唯一の地域となったが、8世紀以降ヴァイキングの侵攻を受け荒廃する。キリスト教は維持されるも、それ以降アイルランドは数多い氏族集団が争う首長制社会の集合が続き、全島が統一されることはなかった。

 対照的に国内統一が早かった隣の英国は、中世初期からアイルランドに殖民や征服を試みるようになる。16世紀になると、欧州諸国に先駆け近代国家の体裁を整えた英国は、自国の統治体制を支配下アイルランドに求めるに至る。当然、それを拒むアイルランド支配層としばしば紛争が起きた。
 1534-36年、アイルランド首長たちによる反乱が起きるも鎮圧され、アイルランド議会がヘンリー8世(エリザベス1世の父)をアイルランド王として認める承認をする。これにより一連のイギリス化政策が取られた。その主要点は首長や豪族の土地を国王に返還させ、その上で爵位と封土を授与することと、英国法を守ることだった。これに対し、アイルランド人は抵抗、時には武力反乱に訴える。

 1530年、グラニュエールはアイルランド西岸コナハト地方のクルー湾一体を支配していたウールの豪族ドゥダラ(黒い樫の意)・オマリと妻マーガレットの一人娘として生まれた。アイルランド人はもっぱら農耕と牧畜で暮らしていたが、オマリ一族は古くから海賊業と漁業により生活していた。16世紀、一族はこの地方の海を支配し、スコットランド、スペイン、ブルターニュなどの漁民たちに対する許可権を持ち、海賊行為も行い、スコットランド傭兵の輸送を引き受けたりした。

 グラニュエールが15歳の時、父の取り決めで地元のオフラハティ氏族の族長と結婚し、オーエン、マロウの2人の息子を得た。だが、夫が近隣氏族との戦いで死亡したため、オフラハティの男たちを率いクレア島に居を構え、父の船と2百人の手勢で海賊行為に乗り出す。クレア島は住民百人足らず、人目に付かず、湾を航行する船の行き来が一望できたので、理想的な海賊行為の基地だった。船隊は機動的なガレー船で構成されており、うち1隻は「帆と30本の櫂で進み、船上には百人の優秀な射手が彼女を守った」と記録にある。男たちは彼女の元で喜んで働き、彼女も部下を誇りとし、「船いっぱいの黄金よりも、コンロイ一族やマッカナリー一族の方がよい」と言ったという。

 英国、スペイン、フランスなどからアイルランド西岸部に沿って定期的に往復する商船は、葡萄酒、トレドの鉄、ダマスク織、絹、人造宝石などを満載していたので、格好の餌食となった。ゴールウェイの豪商たちは英国王室にこの被害を報告するも、当時の英国としては何も手が打てなかった。

 やがて英国とスペインの関係悪化となり、英国はグラニュエールの支配圏に勢力を伸ばそうとする。彼女は船隊に良い避難港を入手するため、クルー湾北岸にあるロックフリート城主リチャード・バーグと結婚した。動機は伴侶より城だった。伝承によれば、グラニュエールはリチャードとの間に「1年間は確実に」結婚し、その後はお互いが望めば離婚できるとの契約を交わす。これは古代アイルランドの伝統的な法に従った契約であった。
その②に続く

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