トーキング・マイノリティ

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日本で受けないキリスト教

2006-03-30 21:17:11 | 読書/インド史
 私のブログに『キリスト教とカルト』という記事のトラックバックが送られた。ブログ名は「心の幸福と宗教の世界」という、私のような信仰心の極めて薄い者からすれば、見ただけで引いてしまうような内容だった。だが、「日本でキリスト教の布教がうまくいかないのは何故」との管理人の疑問は面白い。

 管理人は日本でキリスト教が敬遠される理由を「キリスト教は迷信を信じている」 との“誤解”に求めているが、それならキリストに限らず、全ての宗教が迷信から成立している。聖書、コーラン、ヴェーダ(ヒンドゥーの教典)、仏教経典… 全て人間の創造なのだから。どの宗教もカルト的側面を有している。また、転生輪廻を本気で信じている日本人は稀だろう。もし、信じていたら殺虫剤など使え ない。たとえ蚊や蠅でも先祖の生まれ変わりの可能性もあるのだから。
 アメリカのノンフィクション作家P.R.ハーツは著書『神道』で、敗戦後日 本人のほとんどがキリスト教に帰依しなかった理由を焼夷弾や原爆を落としたのがキリスト教徒であるのを忘れてないからだ、と書いていた。だが、私は疑問を 感じる。敵の宗教だから受け入れなかったばかりとは思えない。

 トルコ史研究家の大島直政 氏はセム族一神教が日本人に受け入れられないのは、道徳観の違いを挙げている。日本人にとって道徳とは常に抽象的でなければならないという伝統思考があ る。例えば「和を以って尊しとなす」「忠孝を励むべきこと」と為政者が民衆に諭しても、「和」や「忠孝」について規定も定義もしなかった。学者を集めて和 とは何か、忠孝とはどうあるべきか、と議論も行わなかった。道徳や親子関係は「自然なもの」であり、法で規定するのを忌み嫌うのが日本人なのだ。
  しかし、セム族一神教では細々と神の「法」が規定されており、人情よりあくまで「法」が優先される。「神との契約」からすれば、「法」を破るのは大罪だ。 欧米でさえも離婚や中絶、ピルは許されるかどうかは、イエスの教えに反するか否かより、神に対する契約違反かという論点で議論されているほど。日本人は一 神教と根本的に合わない精神構造を持っているようだ、と大島氏は言う。仏教は御仏との契約、など求めない宗教だ。

 19世紀、シク戦争を経てパンジャーブは完全にイギリスに征服されるが、シク教徒の 半数以上が戦後キリスト教に帰依したという。シク教は元々一神教的傾向があったが、同じく支配されたヒンドゥーはさほど改宗しなかったのは対照的だ。ヒン ドゥーはイギリス以前にイスラムのムガル帝国下でも改宗者はそれほど出なかった。シク教も優れた宗教者により、キリスト教徒になった信者を再改宗させる。
 インドの高校教科書『近代インドの歴史』に植民地下のインドで、宣教師たちの働きについて書かれた箇所があるので抜粋したい。

 「イ ンドに渡った宣教師たちはキリスト教のみが真の宗教であり、他の全ての宗教は偽りであると熱狂的に信じ込んでいた。彼らはインドを西欧化する計画を支持し たが、それが最終的にはインドのキリスト教化をもたらすという期待からだった。西欧の知識という光明は、インド民衆に自分たちの宗教に対する信仰を失わ せ、喜んでキリスト教を受け入れるであろうと彼らは考えた。そこで彼らは近代的な学校やカレッジ、病院をインドに設立した。合理主義的な急進派の科学的姿 勢は、ヒンドゥー教やイスラムの神話のみならず、キリスト教の神話の基盤も揺るがせたのだが、宣教師たちはしばしば期せずして彼らの同盟者になったしまった。H.H.ドットウェルが指摘したように、「自分たちの神の真正さについて疑問を持つように教え込まれた結果、彼ら(西欧化したインド人たち)は聖書の真正さやその叙述の妥当性についても問うようになった」のだ」

 日本でキリスト教がカルト視されるのは、統一教会のような悪名高いカルトの存在も大きい。明治時代に布教で来日したドイツ人宣教師は布教がはかばかしくないのに業を煮やし、「神道も仏教も滅び行く」 とこき下ろしたが、未だに健在だ。ちなみに現代でもヒンドゥーへのキリスト教の布教もうまくいってない。理由はキリスト教徒のみが天国行きで異教徒は地獄 落ちとの教義と、輪廻転生観が最大のネックらしい。ヒンドゥー指導者も改宗したら先祖や家族との縁は断ち切られると説いて、改宗防止にかなり成功を収めて いる。

■参考:「イスラムからの発想」大島直政 著、「近代インドの歴史」ビパン・チャンドラ著

◆関連記事:「宗教の衣をまとった帝国主義」「無神論者

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6 コメント

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Unknown (Mars)
2006-04-03 21:26:38
こんばんは、mugiさん。



突然の質問で申し訳ないですが、mugiさんは、以下の設問に、幾つ当てはまりますか?



・あなたは、正統な理由があれば、人を殺すことも罪でないと思いますか?

・あなたは、自分の為であれば、他人を犠牲にすることは間違いでないと思いますか?

・あなたは、信じるものが正義と信じるに足るものであれば、他人の意見を聞く必要ないと思いますか?



私であれば、最初だけ当てはまります。正統な理由(他人を殺害したものに罰を与える場合や、国や愛する者を守る為、敵対する者を殺すこと)があればやむなし、だと思います。が、後の二つには納得できないところが必ず出てきます。



この設問の意味が、どういう意味であるかは、mugiさんであれば、理解できると思います。



キリスト教に限らず、イスラーム今日でも、共通すると思います。



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ヘビーですね・・・ (mugi)
2006-04-04 21:18:18
こんばんは、Marsさん。



かなりヘビーな質問ですね(笑)。

①は私もやむなし、と思いますね。不殺生はやはり実現不可能な理想です。

②他人を犠牲にするのは不道徳ですが、それでも生きていく以上絶対行なわないとは確約できかねます。

③自分が正義と信じるにせよ、他人の意見を聞くのはやぶさかではありません。ただ、私も自分の考えはまず曲げないでしょう。



一神教に限らず、多神教でも狂信者なら、共通するところがあると思います。
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へそ曲がり (Mars)
2006-04-04 23:16:00
こんばんは、mugiさん。



変な質問で申し訳ないです。が、この設問の意味は、直接、宗教に当てはまりますよね。特に、二つ目の質問ですが、人は他人を踏み台にして生きることに、間違いないと思います。しかしながら、他人を生贄にすることに、多少の抵抗感を受けるのは、日本人では少なくないと思います(以前、紹介いただいて拝見したサイトでもありました、ヤマタノオロチを成敗する感覚が、キリスト教を受け付けない、日本人の感情を表している、というのに納得いたします)。mugiさんは、以前、日本では宦官がはやらなかった原因について、考察されていましたが、私は、こういう意識があるからこそ、だとも思えます(絶対の権力者に対し、自らを守る為に、生贄を奉げることに、抵抗感を抱くことに)。



しかし、こういう考えを持つことは、宗教では、信心が浅いといわざるをいえませんね。日本では「YES MAN」は決して、いい意味ではないですが。宗教では、そうもいきませんね。時に、「死か、服従か」ですからね。

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絶対服従 (mugi)
2006-04-05 22:10:03
こんばんは、Marsさん。



生きていく上では他人を蹴落とす事は避けられない。例えば就職や恋愛にしても同じですね。自分がある集団に就職したら、他人が落とされているし、恋愛にしても影で泣きを見る人がいるわけです。

日本は遊牧の伝統はなかったし、ほぼ単一民族国家なので異民族を生贄にするという習慣が身に付かなかったと思います。

ただ、同じ犠牲にするならやはり異民族、異教徒を生贄にするでしょう。



『ローマ人の物語ⅩⅢ』に聖パウロの言葉が載ってます。これでは単なる「YES MAN」を通り越して、絶対服従ですね。

「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。何故なら、我々の信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認めないが、それゆえに現実の世界に存在する諸々の権威も、神の支持があったからこそ権威になっているのである。だからそれに従うことは、結局はこれら現世の権威の上に君臨する、至高の神に従うことになるのである」
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Unknown (一知半解男)
2008-06-03 22:28:42
mugiさん、こんばんは。
拙記事にTBありがとうございました。

貴ブログの愛読者でしたが、この記事には目を通していなかったので、興味深く読ませていただきました。

私も、TB返させていただきますので宜しくお願いします。
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「日本教」徒的解釈 (mugi)
2008-06-04 21:48:16
>一知半解男さん、こんばんは。
コメント&TB有難うございました。

私がこの記事を書いたのは↑でも挙げた様に、『心の幸福と宗教の世界』というブログからTBされたからです。
個人のブログでどのような記事を書くのも自由ですが、このブログ名を見ただけで、どこかカルトのニオイを感じました。実際に記事を見たら、キリスト教についての基礎も分かっていない始末。例えば・・・

「仏や神が自分の意志に沿わない人間を憎んで罰するということは、ありえません。涙を流しながら罰するのよ」

これぞ「日本教」徒的解釈の典型で、笑ってしまいました。多神教の神ならまだ人間臭いですが、一神教の絶対神なら自分の意志に沿わない人間なら一片の情けもなく滅ぼします。ギリシア神話の神々も、気に入らぬ人間に対する罰はきついですよ。
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