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ルイ16世について想うこと その④

2018-01-27 21:40:21 | 読書/欧米史

その①その②その③の続き
 革命によりルイ16世の権威は損なわれたものの、フランス国民は国王への敬意をまだ失ってはいなかった。国王の権威や信頼が決定的に崩壊したのはヴァレンヌ逃亡が原因だった。フランス国王たる者が海外へ逃亡を図ったのみならず、外国の軍隊を率い進軍するつもりだったことが発覚しただけで、反革命行為と見なされて当然だろう。
 ヴァレンヌ逃亡に大いに尽力したのこそ、アントワネットの生涯の愛人フェルセンだったが、彼はルイ16世が1792年2月に語ったことを記録している。
私は機会を失った、それは7月14日だった。私は脱出すべきだった。私は逃げたいと思った。だが、どうにもならなかった(略)ついに機会を失ってしまった。残念だ

 1791年6月20日のヴァレンヌ逃亡から、ルイ16世が処刑されたのは僅か1年半ちかく後の1793年1月21日。しかし、彼が最後に真の王者に相応しい態度を見せたのは驚嘆させられる。一貫してルイ16世に厳しいツヴァイクさえ、こう述べている程。
いつもは耐えがたいその無感動が、決定的なこの瞬間にはルイ16世に一種の道徳的偉大さを与えるのである」「家族と別れるにあたって、情けないほどの弱虫、王らしからぬ王が、その一生に見せたことのない力と尊厳を実証したのである」(363頁)

 3年前にベルばらを再読した時にネット検索したら、「大人になってから読み直したら、むしろオスカル死後の方が面白かった」という意見を見かけたが私も同感だ。処刑前夜、ルイ16世がルイ=シャルルに語った台詞は泣ける。
ぼうや、よくおきき。とうさまは神のご意志で断頭台にのぼる。だからとうさまが死んでもけっして復しゅうをしようなどとは考えないと約束しておくれ。わかりましたね。それがとうさまの最後のお願いだ。さあ…とうさまの最後のお願いを守ってくれると手をあげて誓いなさい

 涙ながらに手をあげて父の願いを誓う7歳の息子の姿は痛ましい。尤もベルばらには描かれていなかったが、父の死から2年半後に僅か10歳で病死したのだから、この誓いも無駄に終わった。
 断頭台に登った時の最後は正に“漢”だった。ルイ16世が参考にしていたチャールズ1世が自分自身のことしか言わなかったのとは好対照。
わたしの国民たちよ。わたしは罪なくして死んでゆく。しかしわたしを殺そうとする者たちをわたしはゆるそう。わたしの血が祖国フランスの幸福の礎(いしずえ)とならんことを‼

 マリー・アントワネットはよく“悲劇の王妃”と云われるが、“悲劇の王”とルイ16世を呼ぶのはまず聞いたことがない。歴史を記すのは殆どが男性なので、やはり同性への見方は厳しいのだろうか?ベルばらにあるフェルセンとの最後の会見で、国王が言った言葉は考えさせられる。
わたしは知っている…亡命した貴族たちがわたしのことを決断力のない腰ぬけだとせめているのを。安全な場所から人を非難するのはたやすいことだ。いままでだれもわたしとおなじ立場にたたされた者はいなかった。いまやわたしは世界中から見すてられてしまった…

 ツヴァイクが何度も非難したように、やはりこの人物は国王や統治者には相応しくなかったのだ。確かにフランス革命という世界史史上稀な出来事に遭遇したのは悲運だったが、予測できないことが起きるのが政治の世界なのだ。平時であっても支配者たる者は、安全な場所からの非難に常にさらされる。批難に耳を傾けることも時に必要でも、聞きすぎるのは無用である。ルイ16世の嘆きは善良な小市民の感覚にちかい。
 もちろん同情の余地ならあまりにもあり過ぎる。元から国王にはなりたくなかったのに、生まれた家と夭折した兄のため、フランス国王に就かざるを得なかった。もし兄が生きていれば王になることもなかったし、革命が起きても外国に無事に亡命できただろう。

 善人だったのは間違いないルイ16世。その善良さが墓穴を掘ってしまったのは悲劇としか言いようがない。池田理代子氏もインタビューでは結婚するなら理想の夫と話していた。何しろ金持ちで優しいし、愛など何時かは醒める、と。この現金さには私も禿同と言いたくなる。
 現代の立憲君主制の国に生まれていれば、庶民的な王様として人気を集めたかもしれない。古い歌謡曲で恐縮だが、天知茂の「昭和ブルース」の歌詞「生まれた時が悪いのか、俺が悪いのか」を思い出してしまった。
■参考:「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク著、関楠生訳、河出書房新社)
「ヴェルサイユ宮廷の女性たち」(加瀬俊一著、文藝春秋)

◆関連記事:「マリー・アントワネットの子供たち

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98 コメント

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雑感 (スポンジ頭)
2018-01-27 22:09:16
 ヴァレンヌ事件ですが、実際はモンメディと言う場所に行こうとしていたのです。外国逃亡じゃなかったんですよ。外国に行くのは国王としてあり得ないと。

 ツヴァイクはメアリー・スチュアートの伝記を書いた際、彼女に非常に肩入れしているのが分かるのですが、彼女はスコットランド国に愛着を持っていなかったのです。責任感なら遥かにルイ十六世の方がありますよ。正直メアリー・スチュアートには同情しかねます。エリザベス女王の方がずっと交換が持てます。

 ツヴァイクは国王を非難しますが、歴史の渦中にある人物を、後世歴史を知っている人間が非難するのは限度があると思います。
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Re:雑感 (mugi)
2018-01-28 22:01:10
>スポンジ頭さん、

 wikiにもこんな記載がされています。
「ルイ16世も国外への逃亡という不名誉を恐れ、計画の変更を求めて、ルートをフランス領内のみを通過するものに変えた」「最終的な目的地は、フランス側の国境の町であるモンメディ (Montmédy) の要塞に決まった」。地図を見ると本当に国境の町でした。

 本当は外国亡命ではなかったにせよ、「夜逃げ」では印象は最悪です。実際に国外に逃亡した王侯貴族も多かったし、オーストリア女の実家を当てに逃亡したと思われるのは当然でしょうね。この出来事は「衝撃をもって喧伝された」ため、国王の海外逃亡と喧伝した革命側の新聞は多かったと思います。

 ツヴァイクのメアリー・スチュアート伝も未読ですが、読んだ人の話によれば、「エリザベスがメアリーを虐めたのは、精神的、肉体的な抑圧からくるヒステリー症状だ」と貶していたとか。そしてメアリーが、スコットランド国に愛着を持っていなかったことは知りませんでした。母親がフランス大貴族だし、子供時代からフランスで暮らしていたため、野蛮なスコットランドには愛着が持てなかったのやら。
 貴方は違うようですが、それでもメアリーは男性に好まれますね。会田雄次氏も「私は女王のくせに本当の恋愛に生きようとしたメアリーが好きです」と言っていた。やはり恋多き美女に男性は弱いようで。

 ツヴァイクの性格か、書かれた時代の風潮の為かは不明ですが、歴史を後世から裁く傾向が強いように感じられます。
返信する
wrong time wrong place (スポンジ頭)
2018-02-11 08:59:39
 おはようございます。 

>本当は外国亡命ではなかったにせよ、「夜逃げ」では印象は最悪です。

 そうです。だから夜逃げするなら夜逃げらしくさっさと逃亡して欲しかった。ピクニックをやっている場合ではないでしょうに。プロヴァンスなんか逃亡に成功してますから、この危機感のなさは何かと。このやり方の拙さは頭を抱えたくなります。帰宅するまで遠足、と言う言葉がありますけれど、国王たちにこの言葉を送りたい。自分でももっとうまくやれると思った程です。それに、個人感情としてプロヴァンスが生き残った事が不快かつ残念でなりません。

>「いつもは耐えがたいその無感動が、決定的なこの瞬間にはルイ16世に一種の道徳的偉大さを与えるのである」「家族と別れるにあたって、情けないほどの弱虫、王らしからぬ王が、その一生に見せたことのない力と尊厳を実証したのである」

 こちらも、鈍感だから立派に見えた式の記述ですね(苦笑)。テュイルリー宮殿に押し寄せた暴民に対して国王が耐え抜いた時と同じ言い方。これも今回初めて知ったのですが、国王はフリジア帽を被るとか、酒を飲め、とか言う条件は受け入れたものの、根本的な条件、解任されたジロンド派大臣の復帰とか、拒否した法案の受け入れなどは徹底的に拒否し、一人で交渉して三時間粘ったところで、市長が現れやっと一段落ついた、と言うオチなのだそうです。こんな手合に対して一人で三時間も渡り合う勇気などありません。議会も怯えて状況を放置していたのですね。大体鈍感な人間が「余は恐怖を凌駕している」と言って交渉に臨むものでしょうか。

 要するにツヴァイクは賞賛したくないが実際賞賛せざるを得ない場合、捩れた言い方をしているように見えます。

  >ツヴァイクが何度も非難したように、やはりこの人物は国王や統治者には相応しくなかったのだ。
  >もちろん同情の余地ならあまりにもあり過ぎる。

 同情と批判は両立しますが、ツヴァイクはこと国王に関しては本当に情け容赦がないですね。ツヴァイクの作品を読むと、理由は何であれ逆らう人間が好きに見えるのですけれど、国王は流された感があるから駄目なのですかね。
 実際国王の場合、善意と優柔不断の相互作用で自分自身だけでなく、大勢の人間を無残な結末に叩き込んでますから、フランス革命のような激動期の君主に向かないのは確かです。外国のサイトを見たら、最後にテュイルリー宮殿が暴徒に襲われた8月10日の事件で国王が採った対応を非難して「何が無実のうちに死ぬ、だ」と言っている人もいましたし、事故の裁判に例えれば、過失が問われる対応、と言う意見もありました。確かになあ、と思わざるを得ませんでした。

 但し私の場合、とてもツヴァイクレベルで批判する気にはなれません。決して鈍感な人間ではないし、視察先の病院で入院者の悲惨な状況を見て涙も流すのに、何故、あんな無感動、無感覚な人物として造形をしたのか理解できません。

>もし兄が生きていれば王になることもなかったし、

 これも今回知りましたが、国王の長男の名前は亡くなった兄の名前を受け継いだものです。国王は両親のお気に入りで活発な兄の影をずっと背負い込んでいたのですね。個人的には海軍大臣、王弟ベリー公、ルイ・オーギュスト、と言うのを見たかった。実は国王、海上分野に極めて強く、この分野では優柔不断が発生しないので(だから食事と睡眠と狩猟と錠前製作にしか興味を持たないと言う扱いは誹謗レベルだと)。

 また、外国のサイトで国王を指して「wrong time wrong place」と言っていましたが、その通りと思います。絶対王政の時代でも、祖父の時代なら天寿を全うし、国家を繁栄させることが出来たかもしれません。

 >ツヴァイクのメアリー・スチュアート伝も未読ですが、読んだ人の話によれば、「エリザベスがメアリーを虐めたのは、精神的、肉体的な抑圧からくるヒステリー症状だ」と貶していたとか。

 ここでもエリザベスの「女性としての肉体的欠陥」を出してました。ツヴァイクはこの手の「心理学的分析」が非常に気に入っているようです。要するに、エリザベスが子供を出産できるような肉体を持っていたら、あれほど敵意を持たなかったはずだ、と主張しているのですね。何でもメアリーがエリザベスにこの手の手紙を出したとかで、ツヴァイクははっきりと内容を書いていませんでしたが、どのようなものか仄めかしていました。エリザベスの場合は幼少からの苦難の連続で、イングランド王位請求権をメアリーが放棄していないから故の防御作用だと思うのですが。

>そしてメアリーが、スコットランド国に愛着を持っていなかったことは知りませんでした。母親がフランス大貴族だし、子供時代からフランスで暮らしていたため、野蛮なスコットランドには愛着が持てなかったのやら。

 ツヴァイクが書いていたのですよ。「もっといい王冠があれば躊躇なく取り替えていただろう」と。このメアリーの考え方には驚きましたが、国家レベルで政略結婚を繰り返してきた欧州と、その土地で基本的にずっと領地経営をしてきた日本人の感覚とは異なるのですね。

 たしかに、スコットランド貴族は野蛮で利害関係でお互い集合離散を繰り返して殺し合い、読みながら同時代の日本の戦国時代の方がましだと思った程です。殺し合いの結果、最後はメアリーと対立した領主たちも残ってなかった、とツヴァイクは語っていました。

 ツヴァイクはメアリーが三番目に結婚した相手に対して書いたという「小箱の手紙」と言うのを出してきて、詩のレベルが非常に高いから本物だと主張し、その詩に書かれている相手への情熱を称揚していました。この辺り、フェルセンとマリー・アントワネットが最後にテュイルリー宮殿で会った晩の内容を主張するのと同じ発想だと感じました。この人は、許されない状況で燃え上がる愛とか情熱とか非常にお気に入りなのですね。ちなみに、この手紙集、英語のウィキを見たら、真贋論争が今でもある、とのことでした。
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Re:wrong time wrong place (mugi)
2018-02-11 22:19:56
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 あの逃亡事件での危機感の無さには本当に驚きます。まさに遠足そのものだし、快適な馬車と食事を求めているのは、世の中知らずの王侯ゆえと思いましたが、プロヴァンスは成功している。この違いはいったい何でしょうね。
 そしてテュイルリー宮殿に暴民が押し寄せた時、一人で交渉して三時間も粘ったエヒソードは初めて知りました。これでは「情けないほどの弱虫、王らしからぬ王」とは正反対です。肝が据わっていなければやれないし、それもツヴァイクならば鈍感、無感動ゆえにとでも言いそうですね。さらに国王は海上分野に極めて強かったことも初めて知りました。

 私もツヴァイクレベルで批判する気には到底なれません。ただ、外国人の見方は違うようで、8月10日事件の対応を非難、「何が無実のうちに死ぬ、だ」と言っている人もいたのですね。過失が問われる対応だったのは確かでしたが。「wrong time wrong place」は言い得て妙ですが、生まれてくる時間や場所を選べないのが人間です。

 メアリー伝もツヴァイクの主観が露骨に表れているようですね。仰る通りメアリーはイングランド王位請求権を放棄しておらず、ヘンリー八世の私生児に過ぎないエリザベスより自分の方がイングランド女王に相応しい等の陰口を言っていたならば、警戒されて当然でしょう。実際にエリザベス暗殺を謀ったバビントン事件もあり、ウォルシンガムが功を奏した形です。
 それにしても、「もっといい王冠があれば躊躇なく取り替えていただろう」には驚きます。これに違和感を覚える日本人の方が、世界では少数派なのやら。

 メアリーは数か国語を話せた教養ある女性だったし、彼女の三番目の夫ボスウェルもかなりインテリでした。ならば詩のレベルが非常に高いのは当然でも、真贋論争があるものでしたか。
 スコットランド史には全く浅学ですが、イングランドに比べても貴族同士の権力闘争は内ゲバに近いように見えます。何故イングランドのように支配層がまとまらなかったか、不思議でなりません。エリザベスと違いメアリーの周囲に、セシルやウォルシンガムのような優れた臣下がいなかったのは不幸でした。尤もメアリーの場合、有能な臣下を使いこなせたのかは疑問です。
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スポンジ頭 (裁判)
2018-03-18 13:01:55
>しかし、彼が最後に真の王者に相応しい態度を見せたのは驚嘆させられる。

 裁判の最中は堂々と受け答えをしていて、筋金入りの革命家、マラーでさえ感嘆している記録が残っています。ツヴァイクは優柔不断で腰砕けになる部分しか殆ど記載していませんが、こうなると本当はどんな人物だったのか、と言いたくなります。ギロチン台上でも立派な態度を保っていましたし、テュイルリーが最初に襲われたときにもあのような手合相手に毅然とした態度で交渉していたのは前に記載していた通り。

 優柔不断とは選択肢が複数ある場合に生じますが、逃げ道がない場合は一気に化けるタイプでしょうかね。王妃が裁判で採った態度はよく紹介されますが、国王の場合はあまり見ませんね。

 あと、国王の裁判に付いた弁護人は三明ですが、そのうちの一人は弁護人になったのが祟り、後に自分自身や秘書二名と共にギロチンで一家皆殺しとなっています。無茶苦茶な時代です。
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Re:裁判 (mugi)
2018-03-18 22:02:48
>スポンジ頭さん、

 ツヴァイクはアントワネットの裁判の様子は詳しく描いているのに、国王の場合は省略して最後だけを記述していましたね。テュイルリー襲撃時での交渉も記載なし。これだと読者は、優柔不断で真の王者に相応しくないという印象しか受けません。これこそがツヴァイクの狙いだったのでしょうけど、見事に成功しました。

 そして国王の弁護士の1人は、彼自身や秘書2人と共にギロチンで一家皆殺しとなっていたとは知りませんでした。本当に酷い時代でした。
『世界の歴史21/アメリカとフランスの革命』(中央公論)を最近読んでいますが、私の学生時代の世界史の教科書ではアメリカは「独立戦争」だったのに、「独立革命」と呼ばれるようになってきたのですね。アメリカ独立革命では英国への忠義派に対する処刑など行われなかったのに、その影響を受けたはずのフランス革命ではギロチンがフル稼働です。この違いは何故でしょうね。
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読んでみようかと (スポンジ頭)
2018-04-28 11:20:09
 ギロチン大会になったフランス革命ですが、この本を読めば原因の一端が分かるかも知れません。読んでみようかと思っています。

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)
https://bookmeter.com/books/522719

 そして、私が購入した国王再評価本のジャン=クリスチャン・プティフィス氏著作、「ルイ十六世」はハードカバーで分量が多いので外出先で読めず、つまみ読みをしているのですが、革命の虐殺話を少し読んだだけで吐き気がしました。国王お気に入りの従者の一人は九月虐殺で死んでいるのですが、死に際に「国王万歳」と言ったと言うのが悲しいところです。ちなみに、バスティーユ襲撃でも襲撃側の掛け声が「国王万歳」だったとかで、悪い冗談としか思えません。

 マダム・エチケットこと、ノワイユ伯爵夫人も夫婦でギロチンとなりました。王妃に免職されてから反王妃派になったそうですが、身近な人物を敵にしてしまったのはまずかったと思います。

 それにしても、手当たり次第にギロチンに掛けられていく感じですね。
返信する
Re:読んでみようかと (mugi)
2018-04-28 22:25:36
>スポンジ頭さん、

 岩波ジュニア新書からフランス革命史が出ていたのですか。中高生向きに書かれた入門書でも、レビューからはやはり岩波らしい印象を受けました。ひらり庵氏のレビューでは、「フランス革命を「悲惨にして偉大」「人間の魂の叫び」と定義」していたそうで、私的には何だか興醒めさせられました。この類の学者が学生運動を煽ったのかも。
https://bookmeter.com/reviews/64000724

 著者を検索したら、wikiにも載っていました。1932年10月生まれでは納得ですね。革命と云うだけで入れ込む世代だから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%85%E5%A1%9A%E5%BF%A0%E8%BA%AC

 国王お気に入りの従者ならともかく、バスティーユ襲撃での襲撃側の掛け声が「国王万歳」だったことは初めて知りました。本当に歴史ではブラックジョークに不足しません。
 さらにノワイユ伯爵夫人も夫婦でギロチンとなったことも、今回知りました。時期は王妃より後でしょうか?王妃に免職されてから反王妃派になったことは、ツヴァイクの本で知っていましたが、反王妃派でも処刑されたとは悲惨ですね。それがフランス革命という「劇薬」でした。
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ノワイユ伯爵夫人他 (スポンジ頭)
2018-04-29 11:27:23
 ノワイユ伯爵夫人は王妃処刑後の次年、1794年6月27日に処刑されています。反革命の罪状だったようです。あと一月でテルミドールのクーデターが発生し、ロベスピエールたちが処刑されて恐怖政治の終了を迎えますから残念な事です。息子の一人は開明派貴族だったのですが、革命が急進化したので亡命しました。反革命で処刑とは、文革やロシア革命を連想させるパターンです。
 革命家の中には世界中に革命を輸出し、日本も共和国にしようとする向きもあった、との事ですが、そんなもの「大きなお世話」です。

 このテルミドールのクーデターにロベスピエールと対立していたフーシェが関わっており(ツヴァイクの小説だとまるで彼が一人で暗躍して話を纏めたようになっている)、生き残った彼はナポレオンの下で軍用物資の横流しなどをやって富を蓄え、貴族に成り上がり「オトラント公爵」と言う称号を名乗ります。革命時には戦費捻出のため他人の財産を掻き集め、反革命の罪でリヨンの人間を大勢処刑していた人物が成り上がるのをリヨンの人間が見れば苦い思いがあった事でしょう。 そして、ブルボン朝復帰時代に再婚(ブルボン朝復帰直前に最初の妻を亡くしている)しますが、その結婚式にルイ十八世を招待し、ルイ十八世は結婚の証人として一番目に結婚証書に署名する、と言う事態となります。自分が死刑に賛成した人物の弟を結婚式に招待し、また弟も招待に応じる、と言う辺りが不気味です(プロヴァンスにとって兄は邪魔者でしかありませんから心理的負担はなかったでしょうが)。その後、失脚してフランスを追放されますが、子孫はスウェーデン貴族だとかでこちらも驚きました。
 
 ちなみにヴァレンヌ事件で同行したトゥルゼル公爵夫人は後に投獄されますが、なぜか九月虐殺の数日前に何者かによって連れ出されていたので助かりました。ロベスピエール失脚後も逮捕されたり、ナポレオン時代にも監視されたそうですが、王妃に忠実に仕えた人物が生き残るのも時代の不思議さです。大勢の貴族が亡命する状況でも最後まで付き従っていたのは立派です。
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Re:ノワイユ伯爵夫人他 (mugi)
2018-04-29 21:30:43
>スポンジ頭さん、

 ノワイユ伯爵夫人の処刑は1794年6月でしたか。王妃より8カ月後ですが、テルミドールのクーデターがそのひと月という所に、「劇薬」のまわりの早さが表れていますね。反革命のレッテルを貼り、政敵や不平分子を抹殺するやり口は、その後の中露の革命の先駆けとなりました。

>>革命家の中には世界中に革命を輸出し、日本も共和国にしようとする向きもあった、との事ですが、そんなもの「大きなお世話」です。

 未だに革命実現の夢を見ている者は、ネットでも見かけます。匿名ゆえの冗談が大半かもしれませんが、日本の場合は革命の理想よりも反日が最大の目的でしょう。この類は日本人にもいるはず。

 フーシェは何と貴族となり、「オトラント公爵」と名乗ったのですか。さらに結婚式にルイ18世を招待し、彼も応じたという神経が凄まじい。欧州の王侯貴族の強かさを改めて知りました。あまつさえ、フーシェの子孫はスウェーデン貴族になっていたのだから、言葉もありません。wikiにあるフーシェの晩年も興味深いものがあります。
「晩年は家族と友人に囲まれた平穏な生活を営み、人が変わったように教会の参拝を欠かさなかったという。フーシェは死ぬまで敵対者の個人情報を手中に収め、保身に成功した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7

 トゥルゼル公爵夫人が無事に生き延びていたのは驚きました。ランバル公妃は無残な最期を遂げましたが、彼女は王妃の同性愛相手と思われていたことがあるのでしょう。トゥルゼル公爵夫人を連れ出した人物のことが気になりますが、おそらく王党派だったのやら。
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