トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

ルイ16世について想うこと その③

2018-01-26 21:40:12 | 読書/欧米史

その①その②の続き
 バスチーユ襲撃があった日、ルイ16世が日記に「何事もなし」と記していたエヒソードは世界史好きの間には知られている。マリー・アントワネットとの結婚の翌日も同じ一文を書いているが、公私ともに重要な日にも関わらず、この文句は何とも意味深いものを感じる。
 実はバスチーユ襲撃前に国民議会から続々と使者がやって来て、パリの不穏な空気を伝えていたのだが、報告を受けても国王は適切な決断を下さなかった。ツヴァイクはバスチーユ襲撃日の王を辛辣にこう描く。
例によって、無精で粘液質の、何ごとにも好奇心を示さないこの男は(明日にはきっと時機を失せずに何もかも聞けるだろう、と)十時には床につき、いかなる世界史的事件によってもゆさぶられることのない、鈍感な、昏々たる眠りにはいるのだった」(207頁)

 革命への対応についても、ツヴァイクは皮肉混じりに批判する。「国王ルイ16世に禍したのは彼が革命を理解できなかったということではなく、その反対、つまり、この凡才が革命を理解しようと涙ぐましい努力をしたということなのである」(208頁)。例としてルイ16世の歴史好きを指摘、彼が王太子時代からの愛読書がデイヴィッド・ヒュームの『イングランド史』だったことを挙げている。殊に革命により処刑されたチャールズ1世の非命には深い印象を受けていたそうだ。
 社会情勢が険悪化すると彼はこの箇所を反復熟読、これを反面教師にし、どうすれば一身の安全を保てるかを沈思した。その結果、大勢に逆らわず、譲歩によって危険を回避するのが良策だ、と信じるに至った。譲歩すれば革命は沈静化する、と安易に期待したのだ。これを以ってツヴァイクはこう述べる。

しかしまったく種類のちがう革命から類推してフランス革命を理解しようとしたこの態度こそ、彼の禍を招いたものにほかならなかったのだ。というのは、支配者たる者は、世界史的な瞬間に、干からびた処方箋やいつも通用するは限らない先例に従って判断をくだしてはならないからである。天才の予言者的な眼光のみが、現在にあって、救いをもたらす正しい手段をさとることができ、英雄的に前進する行為のみが、混沌として迫ってくる荒々しい原始的なものの力をおさえることができる」(208-9頁)
 
 バスチーユ襲撃の翌日、パリは極度の緊張状態となり、暴徒たちが街に繰り出しては気勢を上げる。市常任委員会と国民議会はこれに対し、国王がパリを訪問、今回の事変についてパリ市を処罰せぬことを公約する必要がある、とルイ16世にこもごも力説した。その結果、国王は王妃が反対したにも拘らずこれに同意、バスチーユ襲撃から3日後の17日、パリを訪問する。この時ばかりは最後まで諌止するアントワネットの訴えに耳をかさなかった。
 パリを訪問したルイ16世は、捧呈された赤青白の三色章の帽子をにこやこに受け取り、直ちに被った。彼はバスチーユ司令官虐殺者を処罰することもなく、革命の三色章を着用することにより、テロや暴動を容認、合法化したも同然だった。

 三色章を付ける国王に群衆は歓呼する。だが外国大使らは、国王万歳よりも国民万歳のほうが圧倒的に強かったのを注意深く見ていた。民衆が歓呼を浴びせているのは実は国王ではなく、支配者をこうも屈従させるに至った自分たちの力に歓声をあげていたのである。つまり、人民の勝利であり、国王の屈辱だったのだ。当時駐フランス公使を務めていたトーマス・ジェファーソンは、本国政府に次の報告をしている。
こういうのを名誉ある罰金とでもいうのか。どんな君主も払ったことがないし、どんな人民も貰ったことがない

「7月14日にルイ16世は、バスチーユを失った。次いで17日には自分の尊厳まで投げ捨てて敵の前で深く身をかがめたために、王冠が頭からころげ落ちてしまったのである」(213頁)と書くツヴァイク。彼は先に、「ルイ16世の悲劇は、教科書でも調べるように歴史を調べて、自分には理解できないことを理解しようとし、王者らしい態度をびくびくしながら捨てて、革命から身を守ろうとしたことにある」(209頁)と断じているのだ。

 歴史作家による上記の意見は、歴史から学ぶということがいかに難しいか、よく表れていると思う。チャールズ1世はルイ16世よりも150年ほど前に処刑された英国王だが、国情の違いや当人の資質もあり、英国史の知識は役立つどころか禍を招くことになったのだ。歴史に学べ等と云うスローガンの何と虚しいことか。
 同じく国王を処刑したにも拘らず、立憲君主制が現代まで続く英国と完全な共和制になった仏国との違いも興味深い。
その④に続く

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32 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
佐藤賢一「小説フランス革命」 (madi)
2018-01-27 12:46:36
佐藤賢一「小説フランス革命」はロベスピエール処刑までですが、でてくる登場人物の内面にはかなりはいりこんでういます。

ツヴァイクはジョゼフ・フーシェ(ナポレオン以降にひとですが)に同情的な伝記を書いていますが、塩野七生は辛辣な評価をしています。
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Re:佐藤賢一「小説フランス革命」 (mugi)
2018-01-27 22:14:53
>madi さん、

「小説フランス革命」は気になりますが、作者は佐藤賢一だし、性描写過剰なイメージがあるため未だに読んでいません。これまた未読ですが、ツヴァイクのフーシェ伝は傑作だそうですね。
 そして塩野さんがフーシェには辛辣な評価をしていたことは初耳です。同じマキアヴェリストでも、チェーザレと違いブサメンだったから?
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塩野七世のフーシェ評 (madi)
2018-01-28 10:40:53
「イタリアからの手紙」新潮文庫のトリエステのところにはいっています。生き方に品格が感じられない、とばっさりです。伝記をかくならフーシェの棺桶が馬車の事故で転落するエピソードからはじまるだろう、と書かれてます。
 プーチン評が塩野先生がないのですが、こっちはまだ品格ありとするのかなあ。

小説フランス革命は性描写はそう過激ではありませんよ。
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Re:塩野七世のフーシェ評 (mugi)
2018-01-28 22:02:46
>madi さん、

「イタリアからの手紙」を見たら、ちゃんとトリエステの章にありましたね。すっかり忘れていました。塩野さんはツヴァイクの伝記は読んでいないと言っていますが、「世渡りの才能だけが優れていた」男の葬儀は何とも…。

 そういえばプーチン評は未だにありませんね。ロシアにはあまり関心がないのやら。そして小説フランス革命はさほど性描写はそう過激ではなかったのですか。そう言われると、読んでみたくなりました。
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日記 (スポンジ頭)
2018-01-29 22:47:21
 こんばんは。

 この日記は狩猟記録なのです。だから結婚式やバスティーユの事が書いてなくてもおかしくはありません。その代わり狩猟に関する話は事細かに記されています。例の手術の有無の話もおそらくこの狩猟記録を元にして「なかった」と言う説が立てられているのです。そして、国王は夕方頃バスティーユ陥落を国民議会から知らされていたのです。

 リアンクール公が国王の寝室にやって来て話をした、と言う件、これは息子が父親から聞いた話なのだそうですが、リアンクール公の慧眼を賞賛する目的か、国王を貶める目的かのどちらかで流布された話なのだそうです。

 バスティーユ陥落情報を国王が知った時期及びとリアンクール公の話は、中公文庫の世界の歴史に記載されています。
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Re:日記 (mugi)
2018-01-30 21:52:46
>こんばんは、スポンジ頭さん。

  例の日記は狩猟記録専用だったのですか??狩猟については事細かに記していたのは知っていましたが、狩猟記録ならば結婚式やバスティーユの件は「なかった」としか書きようがありませんね。ルイ16世の私生活を記した日記は他にはなかったのか、或いは処分されたのやら。

 さらに国王は夕方頃バスティーユ陥落を知らされていたとは!ツヴァイクの作品だと、いかにもリアンクール公が眠りについた国王を不作法にも叩き起こした印象を受けます。単なる暴動ではないか、と言う王に対し、「革命でございます」と答えるリアンクール公は慧眼に思えますが、これも創作だった?
 
 こうしてみるとツヴァイクの伝記は鵜呑みにはできませんね。中公文庫の世界の歴史、面白そうです。
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読了しました (スポンジ頭)
2018-09-30 11:43:52
 「フランス革命序説」、読了しました。

 リアンクール公の話ですが、やはり後世の創作としか思えません。と言うのも、「フランス革命序説」によると、バスティーユ襲撃自体突発的なものです。しかも彼らは王政打倒などとは当時考えていません。立憲君主制です。第一、ルイ十六世の治世の当初も食糧問題から「小麦粉戦争」と言う暴動が発生して軍隊で鎮圧し、「首謀者二名」を絞首刑にしています。暴動と思うのが自然でしょう。ツヴァイクの話にこの暴動は記されておらず治世の最初は全く平穏だったように思えますが、そうではないのですね。

 また「フランス革命序説」によると、あのバスティーユ襲撃の時点では軍隊が寝返る可能性があり、暴徒鎮圧などできる状況ではなかった、バスティーユ襲撃を認めるかヴェルサイユから脱出するかの二択だったとの事です。何しろ王妃の取り巻きで軍司令官だったブザンヴァルが民衆のリンチで首を吊るされそうになり、ネッケルに助けられている有様です。だから、パリに出向くのもそこまでの悪手ではないと考えられます。

 ベルばらではオスカルが「フランス万歳」と言って死亡しますが、あの時点では民衆側も国王の軍隊に殺されるのではないか、と激しく緊張していたそうです。世界が変わってしまった、と言うのは後の評価、ですからオスカルにあの言葉を言わせるのも後世の視点です。もちろん、ドラマ的には非常に正しい構成です。

 どうしても、歴史の分析には後世の視点が無意識に入ってしまいますよね。この辺りは難しいところです。
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Re:読了しました (mugi)
2018-09-30 21:28:08
>スポンジ頭さん、

「フランス革命序説」とはバルナーヴの著書でしょうか?「1789年―フランス革命序論」という書もありますが。
https://www.amazon.co.jp/1789%E5%B9%B4%E2%80%95%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%BA%8F%E8%AB%96-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5-%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%AB/dp/4003347617

 ルイ16世治世の当初に「小麦粉戦争」と言う暴動が発生していたとは知りませんでした。検索したら、1775年4月フランスのパリ周辺地方で起った民衆反乱、とあります。
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E7%B2%89%E6%88%A6%E4%BA%89-66214

 佐藤賢一氏の『小説フランス革命』11巻目を読了した所です。小説でもバスティーユ襲撃は突発的なものとして描かれているし、ミラボーに煽られたデムーランが檄を飛ばすという設定になっています。でも真の動機は恋人リュシルと結婚したいが故だった。
 結果的にはバスティーユ襲撃は成功しましたが、デムーランも民衆も国王の軍隊に殺されると恐れていたのです。佐藤氏は参考文献のひとつに「1789年―フランス革命序論」を挙げていました。

「1789年―フランス革命序論」へのアマゾンのレビューによれば、結果的に革命から最大の利益を得たのはブルジョワである、と著者が言っていたそうです。
 名は忘れましたが、歴史小説とは過去の設定で現代人を描くもの、と言った人がいます。歴史の分析も後世の視点と無縁なものは殆どないかもしれません。
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失礼しました (スポンジ頭)
2018-09-30 23:32:34
 すいません。変な思い込みで本のタイトルを間違いました。私が言っているのは「1789年―フランス革命序論」の事です。この本の中で、バスティーユ襲撃辺りで民兵を組織したドゥ・セーズと言う人物が国王の軍隊に自分たちは皆殺しになると思っていたと書き残しているのです。この人物、後に国王裁判で国王側の弁護を行います。革命側の人物が弁護を引き受けるのも面白いところです。ルイ十六世の遺言状でも感謝されていて、この人は天寿を全うしました。

 ただ、バスティーユ陥落後、国王側は革命側にチマチマ手続き上の嫌がらせをしていて、これが国王自身の考えなのか、周囲の考えなのかどちらなのだろうと思うところです。

> 佐藤賢一氏の『小説フランス革命』11巻目を読了した所です。

 とうとう次は革命第一段階の仕上げ、国王処刑ですね。これで済むと思ったら、恐怖政治の幕開けとなると言うオチです。それにしても、佐藤氏が参考資料にした「1789年―フランス革命序論」でも、国王は錠前づくりと狩猟と大食以外に興味を持たず、政治的な感覚も鈍い人物とされ(当時の歴史家の一般的な認識だったようです)、フランスのサイトを見ても近年まで研究に値しない人物扱い、と書かれていました。某巨大掲示板でも、「そこまで無能ではないのでは?」と言う条件付きで再評価が始まったのはつい最近とありました。それが今では啓蒙専制君主の一員となっている訳です。
 しかし、革命によって打倒された前政権の最高権力者が「研究に値しない人物」扱い、と言うのもある意味凄いです。ルイ十六世の理系的側面って結構最近言われだしたのでしょうね。

>「1789年―フランス革命序論」へのアマゾンのレビューによれば、結果的に革命から最大の利益を得たのはブルジョワである、と著者が言っていたそうです。

 結局、きちんと所有権が確立され、特権階級が富と実力を持ったブルジョアを抑えつけることができなくなりましたから。ただ、ロベスピエールが政権を一時期持ったことにより、今で言う生存権の確立もなされました。ブルジョアが一番の受益者ですが、ブルジョアだけが革命を指導していたのではなく、貴族・ブルジョア・都市民衆・農民が合わさった革命、と言うのがその認識です。

 そして、今年公開されるフランス革命の映画で日本でも上映されると言う「Un Peuple et son roi 」。バスティーユ陥落から国王処刑までを描いた群像劇のようです。
https://www.youtube.com/watch?v=rexq82lZ-hg

 ただ、ここに登場する国王はスマートで顔つきが険しくこの前のフランス革命映画とイメージが異なるので、どのような人物像にされているのか興味があります。
https://www.imdb.com/title/tt7073522/mediaviewer/rm3287644416
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Re:失礼しました (mugi)
2018-10-01 21:37:07
>スポンジ頭さん、

 やはり「1789年―フランス革命序論」でしたか。革命初期に活躍したバルナーヴが「フランス革命序説」を記していますが、彼も処刑されました。もしロベスピエールが書くなら、どんな記述になったでしょうね。

 私が読んでいる『小説フランス革命』はハードカヴァー版で全12巻です。残り1冊ですが、11巻前半でエベール派が処刑、最後はダントンやデムーランもギロチンにかけられます。小説ではロベスピエールはデムーランの妻を愛していたという設定で、彼女を救えなかったことに号泣するシーンで11巻は終わります。
 小説でもバスティーユ陥落後、国王側は革命側にチマチマ手続き上の嫌がらせをする箇所があります。革命家同士を争わせ、内部分裂させ復権を狙うのです。それにしても、国王を弁護したドゥ・セーズが天寿を全うしたとは意外でした。

「フランス革命序論」著者は19世紀後半の生まれだそうですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB
 著者が死去したのは1959年ですが、「国王は錠前づくりと狩猟と大食以外に興味を持たず、政治的な感覚も鈍い人物」という認識なのはともかく、近年まで研究に値しない人物扱いというのは驚きました。いくらバスティーユ襲撃から3年半であっけなく処刑されたにしても酷すぎる。近年評価が変わってきたのは結構です。

「Un Peuple et son roi」の動画を見ましたが、面白そうですね。仰る通り国王の顔つきが険しすぎて、それまでのイメージとは違い過ぎるような……あの顔つきではミスキャストにも感じますが、実際に見ないと分りませんね。
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