トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

イランの歴史教科書 その③

2019-11-02 21:35:30 | 読書/中東史
その①その②の続き
 いかにもシーア派が国教の国の歴史教科書らしい、と思ったのがムハンマドが従弟で娘婿でもあるアリーを自らの後継者に推薦したという箇所。(121頁)。しかし実際に初代カリフになったのは長老のアブー・バクル。アリーは35歳に満たなかったため、年功序列の慣行で後継者になれなかったと書かれている。
 通説ではムハンマドは後継者を明確に決めずに死去したとされるが、これはスンナ派の公式見解だったのか。それでも高貴な血筋ゆえにアリーは第4代カリフに就くが、シーア派の解釈では初代から3代までのカリフは簒奪者とされている。

 現代イランの正式な国家名はイラン・イスラム共和国であり、イラン革命(1979年)以降はこの名称になった。革命勃発時、宗教指導者がリーダーとなって革命運動を行ったことに世界は驚いたが、イランではガージャール朝からウラマー(イスラム法学者)が率先して政治活動をしていたのだ。1891年のタバコ・ボイコット運動や20世紀初頭のイラン立憲革命も事情は同じである。
 ウラマーたちは時のシャーに従わぬよう、ファトワー(勧告)を発する。外来の征服民族の末裔であるシャーよりも、聖職者の権威の方が遥かに高いのがイランらしい。欧州に留学したり西洋式の近代学校で学んだ知識人が政治活動の中心だったトルコとは実に対照的だと感じた。

 本書末尾では当然イラン革命や革命指導者ホメイニを取り上げ、ホメイニの名の後には決まって、「神よ彼に慈悲を垂れ給え」という文句が付される。アーシューラー(宗教行事)時におけるホメイニの演説の一部も載っていたが、演説というよりも檄を飛ばすといった印象だ。7世紀のカルバラーの戦いと絡めてのイスラエル非難は興味深い。

 終章近くになると、やたら「殉教」の文句が目立ってくる。イラン革命でパフラヴィー朝政権との闘争で命を落した人々やイラン・イラク戦争で戦死した人々は全て殉教者扱いとなるのだ。本書ではイラン・イラク戦争のことを「8年にわたる聖防衛戦争」と表記され、戦時下における国民の役割を特筆している。
 革命直後ということもありイラン国民の士気は極めて高く、イランの若者たちの間には聖戦遂行の動機と殉教精神が高まったという。ホメイニは若者たちの殉教精神を偉大なる神の恩寵の御印と考え、自ら進んで殉教者となることは若者に課せられた義務と語っていた。かつての某国ならば、殉教ではなく特攻と呼ばれていたものだ。

 本書を読了して感じたのは、難しいの一言だった。私自身の知識不足も大いにあるが、イラン史で名を遺した人物への解説が殆どなかったのは不手際としか言いようがない。似たような名前も多く、混乱した読者はいたはず。同じ歴史教科書でも『近代インドの歴史』では独立運動家の宗派やカーストまで明記されていて、なじみの薄い方でも分かり易かったはず。
 最終部には「世界の教科書シリーズ」の宣伝が載っているが、2018年4月時点で46巻までが出ている。その中でも韓国の歴史教科書が全11冊と跳びぬけて多い。小中高の教科書が邦訳されているのは韓国のみで、明石書店がどんな意図を持つ出版社なのか伺えよう。

 第1章では歴史を学ぶことの重要な意義として13の理由を挙げている。以下はそこからの引用で、このような理念も書けない日本の歴史教科書より健全だ。
1.人間観察の地平の拡大
2.文化遺産の保護
3.人類の教化と指導
4.人間的興味・関心の充足
5.先人たちの努力を知ること
6.自己認識
7.祖国への関心とその護持
8.自分が属する自己文明の認識
9.歴史上の識者・偉人を知ること
10.お互いに敬意を払い理解を深めること
11.人間をより良く知ること
12.未来の予想
13.他の国民や文明を知ること

よろしかったら、クリックお願いします
  にほんブログ村 歴史ブログへ



最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (牛蒡剣)
2019-11-02 22:56:10
案外いい教科書では?と思いました。もっと宗教的
教条的な教科書を想像してました。思いのほか
国民国家を意識してるなあと。

その3の最後の歴史を学ぶ意義
実に素晴らしい。これは日本の高校の教科書にそっくり載せてほしいくらいです。
5.先人たちの努力を知ること
6.自己認識
7.祖国への関心とその護持
この辺に反発する人が多いんだろうなあと。

逆説的に国民国家を解体するには国民の歴史の
解体が一番効果的なんだなと感じました。
Unknown (Oleander)
2019-11-03 11:35:01
イランの歴史教科書だったら、ササン朝以前は「無明時代」と切り捨てているのかなと思っていたので意外ですね。
しかし、「野蛮で弱いくせにシーア派の土地から盗んだ石油で金だけは持っているアラブ諸国に包囲されている」と感じているイランからすれば、ペルシャ帝国の栄光の歴史は国家として必要なんでしょう。
イランも行ってみたい国の一つですが現状では革命防衛隊にテロ資金を提供することになりそうなので、ちょっとその気になれません。
牛蒡剣さんへ (mugi)
2019-11-03 22:19:10
「イランのシーア派 イスラーム学教科書」という教科書もあり、これも同じ出版社から邦訳されています。こちらは未読なので分かりませんが、本書は思ったよりも宗教色が薄かったのは意外でした。イランも多民族国家でアラブ系住民もいますが、イラン・イラク戦争時には侵攻してきたイラクと戦いました。このことは本に記載されています。

 歴史を学ぶ意義で特に5-7辺りは日教組が嫌がるでしょう。8.自分が属する自己文明の認識も耐え難いはず。教科書事情では日本よりマシと思いました。
Oleanderさんへ (mugi)
2019-11-03 22:21:07
 やはりイランにとってアケメネス朝やサーサーン朝などの「無明時代」は、民族の栄光の時代なのです。本書にもこれら時代の文化遺産の写真が載っていましたが、改めて水準の高さが分かります。

 イスラム化した以降も昔の文化を捨てることはなかったと、青少年に教育しているのです。それは間違っていないし、野蛮なアラブに文明を施してやったという「中華思想」が根底にあると見ています。
Unknown (鳳山)
2019-11-04 11:44:45
ちょっと専門知識がないと理解するのは難しそうですね。私のように広く浅くだと手におえなさそうです。

私が読んだ中東関係の歴史書ではアリーはムアーウィアとの後継者争いに敗れイラクで暗殺されたと書かれていましたが、シーア派の見解はまた違うんでしょうね。

鳳山さんへ (mugi)
2019-11-04 22:09:11
 イラン史に関心のある一般人向けの本なら、なじみの薄い用語への注釈を入れるべきだと思いました。シーア派特有の教義や階級制についても言及してほしかった。

 この本でもアリーは暗殺されたと書かれていますが、どうも影にムアーウィアがいたようなニュアンスでしたね。
ペルシャ語 (motton)
2019-11-07 16:35:46
サウジアラビアなどの中東の専制的部族国家よりイランははるかに民族主義的な国民国家だと思います。もう少し民主的になればいいんですが。

ところで、イランの公用語はペルシャ語(印欧系)ですが、イスラム教で"神の言葉"とされるアラビア語を原理主義的に推す勢力はないのでしょうか。
(トルコやインドネシアのように世俗的なら併用で問題ないんですけど。)
Re:ペルシャ語 (mugi)
2019-11-08 21:32:48
>motton さん、

 中東諸国で民族主義的な国民国家といえば、イランの他にイスラエルとトルコくらいですよね。いずれも非アラブという共通点があります。イランはウラマーの影響力が強いので、今のところ民主的になるのは難しいでしょう。

 不思議なことにイランではアラビア語を原理主義的に推す勢力のことは聞きません。或いは私が知らないのかもしれませんが。現代ペルシア語にはアラビア語がかなり入っていますが、元から民族主義が強かったため、イスラム化してもアラブ化はしなかったのです。