その①、その②の続き
アマゾンレビューでは軒並み五つ星と高く評価されるK氏の『トルコのもう一つの顔』だが、星が三つのレビュー「せっかくの学術的内容が、トルコ政府憎しの筆者の主観で勿体ないことに」(2013年7月16日)で、san氏はこう著者を批判している。
「クルドについては多少知っていても、ラズだのザザだのアレウィー教徒だの、全く知らなかった。自分にとっては未知の少数民族やその言語の存在を知ることができた。その意味ではとても面白かった。
でも、なんというか、筆者の政治的主張がとても鬱陶しく感じられた。書評やレビューの多くで、この筆者が政治的に中立で、かつ冷静だと書かれているが私にはまったく反対に思われる。
筆者自信も本書の中で、自分は政治的に中立だと何度も書いているのだが、いったいどこが??という印象。どこをどう読んでも必要以上にトルコ政府や政府側の人間への憎悪剥き出し。
加えてこの筆者の基本的な性格によると思われる偏屈なまでのアウトロー気質。このふたつが合わさってかなり邪魔臭い内容に。筆者は本当に偏屈なので、攻撃の対象はトルコ政府だけではない。筆者が攻撃しないのは、現地の片田舎で健気に頑張っている少数民族の若者や老人だけ。それ以外はおよそありとあらゆるものに悪態をついていて、読んでいてうんざりするし、なんだか嫌〜な気分になってくるのだ。
(中略)
しかしぼやけながらも初めて知る内容なので面白くて、続編の「漂流するトルコ」も一気に読んだ。やはり感想は同じ。優秀な編集者にとっては全く言うことを聞かず扱いづらすぎて、普通の編集者が野放しにして書かせた結果がこの本なんだろうなと思った。
尤も筆者は、大手の出版社がこの本の出版に乗り出さなかったことについても不快感まるだし。人間としては好きになれそうにない。たいへん鬱陶しい」
私にはさほどトルコ政府や政府側への「憎悪剥き出し」は感じられなかったが、読書感想は十人十色なのだ。さらにsan氏のレビューにはmanipulate氏からのコメントがあり、後者はさらに著者を厳しく批判している。
「著者のブログを拝見する限り、このレビューに同意せざるを得ない。自分の事を批評する人間に対して「レッテル貼りだ」と激しく反応する割には、相手に対しては常に「人格攻撃の罵詈雑言だ」とレッテルを貼り、なんだかんだと新語を作って嘲り、さらし者にし、さらに著者独自の日本語感覚で「この文は意味を成さない非論理的構文だ」と揚げ足をとりまくって非表示にし、自分の取り巻きだけで周りを固めている様には目を背けたくなる。
結局の所、欧州の領域国民国家や世俗主義=ライシテを自明の理とする立場からイスラームを論じても、何も実のある結論は出ない。著者は長年の生活によってフランス的な思考で物事を切り取ることが習慣になっている。そのこと自体は悪いことではないが、西洋かぶれ、フランスかぶれと言われても仕方が無い。長年続けてきた少数民族言語の研究自体は立派なものだが、だから他人に何を言ってもよいということではない。
自分の筋さえ通せれば他人の筋なんぞどうでもよいと考える著者のこの本はもう古い。乗り越えなくてはいけない」
前作が中公新書から出版されているのに対し、続編『漂流するトルコ』は違う出版社から出ていたことは不思議だった。続編への書評ブログ記事もあり、ブログ主は2013-1-30時点でイスタンブール滞在中。記事の中で私の関心を引いた個所を引用したい。
「本書を読んで驚いたのだが、著者の性格づけが大きく変わっている。前作では何でも見てやろうという好奇心いっぱいの青年だったが、本書では癇癪を起こしやすい老人である。前作では相手の立場を考慮して、弱い立場の少数民族の地元民や政府関係者にはみんなイニシャルをつけていた。今回は著者と駆け引きをする政府関係者や、著者が関わったトルコ人で途中でケンカ別れした人を、みんなフルネームで書きながら糾弾している。
前作と本書のちがいは、出版社に負うところが大きいだろう。前作は中公新書の中央公論新社であった。本書は旅行人である。零細な出版社だから、著者は編集上の指導を受けずに好き勝手に書けた。この孤高の言語学者は、前作「トルコもう一つの顔」で中公新書編集部が、激高した描写箇所を書き直すように関係者のプライバシーに配慮するようにと指導した意義を理解していないようだ。著者と旅行人を結びつけたのは、辺境紀行作家高野秀行である……」
K氏は例によって高野秀行氏を何度も罵倒する記事を書いているが、誇大妄想と被害妄想の著しいK氏の一方的な主張は鵜呑みにはできない。
その④に続く
昨日のイブで詩織さんお住まいの東京ではさぞ賑わったことでしょう。私も東京のイブのパレードを何時か見てみたいものです。
古野まほろという作家はネットニュースで初めて知りました。この作家には経歴詐称の疑いも出ているようですが、仮に東大卒が本当だったとしても、彼の小説は読む気はありません。ネットがない時代なら暴言は分らなかったでしょう。
私の周囲には東京大学に入学・卒業した人がいないため、東大生の事情はよく分かりませんが、相当なエリート意識を持つ若者たちの楽園なのは想像がつきます。そんな東京大学生にホレられたことがあったとは、貴女もなかなかです。尤も東大生=恋愛下手というイメージが強いのですが、それは決して的外れではありませんよね?
それにしても、詩織さんはエルメスがお好きですね。私などはチチカカの民芸風バックを好むほうなので、直に会ったら詩織さんにダサい田舎者とバカにされるでしょう(笑)。
初めまして。コメントを有難うございました。
その②で書きましたが、先にyanagi053さんのコメントでK氏が黛まどかさんを腐した記事を書いていたことを知りました。試に「小島剛一 黛まどか」で検索したら、何度も悪口雑言記事を書いていたのですね。黛さんのエッセイは東京新聞にも掲載されたようですが、これに執拗に噛みついている。
俗に男の嫉妬は醜悪と言われますが、K氏は見事にそれを実証しています。多少でも社会常識のある健常人ならば、売れない物書きの見苦しい僻みにしか見えませんよ。それほど黛さんを貶すなら、アンタが俳句を作ってみろ、と言いたい。尤もあの老人に俳句は出来ないでしょう。感性と想像力が欠けているから、せいぜい自画自賛の体験談を書くのが関の山。
学者は世間知らずなので、メディアに持ち上げられると増長、尊大になり、自分を取り上げてくれた編集者を見下すようになる者もいるそうです。もちろんメディアも利用価値がある間は先生、先生と持ち上げますが、使えないと見るや手の平返しはザラ。メディアに噛みつくようでは、後でしっぺ返しされるかも。
K氏を高齢だがASの可能性も、と言ったyanagi053さんですが、認知症の可能性もあります。いかに暇でもあの異常な攻撃性は認知症に似ている。ブライドの高い者には己が病気であること自体受け入れ難いし、例え優しくそれとなく忠告してあげる人が周りにいても、面罵して退けると思います。
あれでは不幸な余生を送っていると公言しているようなものですが、それは誰のせいでもない、全て自分自身の生き方です。そうなる運命だったのでしょう。
やっぱり湧いて出たな。「見るに堪えない」と言いつつ、ネット・ゴキブリの書込みが気になって仕方ないネット・ダボハゼの腰巾着。著書・歪曲引用犯というならば、訴訟でも起こしたら?
「アンケート」からHNを変えたか?11月23日にも名無しが件の罵詈雑言依存症のリンクを貼ったことがある。それにしても、書込みが今日の15:09:01とはねぇ……71歳の御大自身が語学そっちのけのネット依存症だから、雑魚信者も同類か。
前回の名無しと同じくコメントは削除した。この先何度書込んでも削除する。大体、私はあの爺さんの記事は殆ど見ていないよ。眼が腐るから。