その①、その②、その③の続き
K氏が罵詈雑言を浴びせているのは、匿名の“ネット・ゴキブリ”だけではない。今回の記事を書くにあたり検索したが、分っただけで石牟礼道子、黛まどか、池内恵、常岡浩介諸氏を攻撃している。さらに調べれば他の言論人への罵詈雑言が見られただろうが、この類の記事は実に見るに堪えない。しかも全て呼び捨て。はじめは「さん」「氏」等と敬称付でも早々に呼び捨てなのだ。私もそれに倣い、K氏ではなく以降は単にKと書くことにした。
先ず小島剛一と入力したら、自動的に池内恵氏の名前が出てきた。「小島剛一 池内恵」では後者を罵倒した記事が幾つもヒットするが、何故これほど噛みつくのか不可解だった。ゲンナリしながら記事に目を通したら、池内氏のfacebookが発端だったようだ。2016年2月4日付で池内氏はこんな書込みをしている。
「あ、この本絶版じゃなかったんだ。名著というか怪著というか、私と同世代で中東研究をやった人は必ず読んでいると思う。読んで心の奥底にしまっている本。記憶に残る一冊といえばこれだ。記憶から抑圧している本でもあるかもしれない。その後この本が有効でなくなったように見えた時代が来たのだが、昨年から再びこの本の意味がわかるような時代が来てしまったのであった。
なお、続編も出ている。ググってください。著者のあのどこまでも近代合理主義者な感じがまったく衰えずに老境に達しつつあるらしき様が伺えて感慨無量なのであった。たぶん日本には住めない人なんだと思う(今どこに住んで何をしているか、続編に書いてありますが、なるほどと思います)。分かる人には分かる話。
私よりもずっと上の世代の、映画『ミッドナイト・エクスプレス』を見た人にもちょっと分かる、という話でもある。でもあの映画なんかよりずっと徹底して西洋近代主義者・個人主義者な著者が、若き日にトルコと正面からぶつかって生まれたのがこの本。懐かしい、と思う人は1990年代に中東をかじった人。
「トルコのもう一つの顔」が最近どんどん顕在化しているからね・・・なお、この本は、来週の関西某大学での集中講義で、シラバスには書いていないけど裏必読文献だよ。どこかで必ず出てくるよ。これ読んでおくと得するよ」
同日、池内氏は再びfacebookに書き込んでいる。
「今日の仕事を一つ終えて見たら、『トルコのもう一つの顔』がアマゾンで100位近くにまで上がっていた。いやすごい本よ。そしてこれが続編。サブタイトルに「続『トルコのもう一つの顔』」とついていて、何が「続」なのか分かる人にし分からないが分かる人にとっては涙が溢れる20年ぶりの再会、待望の書なのだった。
『トルコのもう一つの顔』の出版の際の、日本の出版社に理解されなかったエピソードとか、仮名で書いてあったトルコ官憲の名前や氏素性などが明かされていたり、色々衝撃の事実がある。そして著者はやはり再びトルコ諜報機関と相まみえるのであった。時空間を超えてカフカ的な堂々巡りを繰り返す。
著者の非妥協的な理路整然さは、病膏肓に入る水準に入っている。前作ではヨーロッパの隠された多様性にも、トルコの二面性にも初々しくそして激しく反応する若き日の著者だが、この本ではそれが老境に入りかけて、個人主義・人間主義・合理主義の極地に達している。マイペースでトルコ諜報機関を十分に引きつけて泳がせて翻弄するそぶりすら見せる。それに反応してか、トルコ側も再びさらに頑なになるのであった。
エピソードIIIがあれば読みたいが、どうなってしまうか怖い。「トルコのもう一つの顔III 最終決戦」トルコ官憲より著者の素顔が実はもっとすごかったりするかも。「森有正」の現代版というべきか。しかしおぼっちゃまなあちらよりはずっと本物な気がする」
2016/02/29付記事や2016/03/02付記事ではまだ「池内恵さん」となっているが、2016/03/10付では呼び捨て。facebookでの池内氏の文体は著作とはかなり違っており、かなり砕けた印象がある。
「時空間を超えてカフカ的な」「「森有正」の現代版というべきか」の箇所は私でもオーバーで不適切と感じたが、Kの取り巻き以外の読者なら、それほど怒るような内容?と思った方も少なくなかっただろう。そして2016/03/21付の記事「誤用学者の誤算」での次の放言には、「しばしポカン」となった。
「池内恵は、「中東とイスラーム社会を自分よりも深く広く知っている人」を恐れています。アラブ諸語、ペルシャ語、トルコ語、アゼリー語、ザザ語、ラズ語などを話して現地の人と親しく交わったことが無いから、それが出来るという評判の人たちを、それをして来た上で自信に満ちて発言する人たちを、恐れるのです。そういう人たちとうっかり同席してしまうと、ごく短時間で、自分が贋物だということが一目瞭然になってしまいますから」
その⑤に続く
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