その一の続き
イスラム過激派のテロでは日本人犠牲者も出ているが、原爆開発や投下に関与したユダヤ人と異なり、パレスチナの人々には別に恨みはなく、圧倒的なイスラエル軍による攻撃で大勢の民間人が死傷するのは痛ましいと感じていた。イスラエル側にも死傷者はいるが、パレスチナ市民に比べれば物の数ではない。
しかし、今回のイスラエル・パレスチナ紛争には、私にはこれまでとは違う感情がある。そのきっかけはコロナなのだ。
昨年3月12日付の記事にも書いたが、パレスチナで支援活動を行っていた日本女性がパレスチナ人親子から「コロナ、コロナ」とからかわれた挙句、髪をつかまれるなどの暴行を受けた事件が起きている。2020年3月3日付朝日新聞電子版でも報じているが、この事件には失望させられた。
中近東は欧州に劣らずアジア人蔑視が激しいのは、現地に渡航した人や滞在者には知られている。だが、パレスチナを支援するNGOで働いている日本女性も標的になったということは、常日頃の人種差別意識が鮮明になったといえる。アラブ人蔑視が心底根付いているユダヤ人とどこが違うのか?日本による支援など表面上は感謝しても、やはり内心はジズヤ(人頭税)程度に見ていたのだ。
日本のメディアは未だに杉原千畝を称えているが、イスラエルではすでに忘れ去られた人物らしい。イスラエル中部ベイトシェメシュ近郊では85年、杉原の功績をたたえて約400本の木が植樹され、記念碑も設置された。しかし2019年には植樹された木々が伐採され、記念碑も撤去されたことが日経新聞電子版に載っている(2019年5月3日付)。
とかく日本人は例え異民族にも善行を施せば、相手は恩義を感じると思い込みがちだが、アラブやユダヤに限らず、そんな日本人の甘えた思い込みは世界では通じないことが改めて伺えよう。残念ながら、これが世界の現実だ。情けが仇という諺もある。
ただ、日本人の思い込みは、メディアやそれに盛んに登場する有識者とやらの言説に大きく起因している。左翼工作員の可能性もあるが、ネットで必ず使われるイスラエル非難の決まり文句は、「パレスチナの子供が殺されている!」「子供や女性まで巻き込む残酷なテロ国家だ!」
これら毎度の決まり文句には失笑する。そもそも子供や女性を巻き込まない戦争など、極例を除いてあったのか?まして相手は大昔から「聖絶」を行っていたユダヤ民族だ。旧約聖書には非戦闘員を始末しなかった部下に、モーセが激おこ状態となる個所がある。男を知らぬ娘なら生かしたにせよ、性奴隷目的なのは書くまでもない。
イスラムの“聖戦”も異教徒のみならず同教徒にも無情な戦いをしており、日本人だって76年前は、子供や女性まで容赦なく空襲でせん滅されている。戦争とは非戦闘員も巻き込むものと見るべきなのだ。
イスラム思想研究者・飯山 陽氏のコラム【解説】イスラエル・パレスチナ紛争 メディアが伝えない4つの事実」は、以下の見出しだった。
(1)イスラエルを武力攻撃しているのはイスラム過激派テロ組織
(2)「貧困ビジネス」で財をなすハマス
(3)ハマスとメディアは「グル」である
(4)イスラエル・パレスチナ紛争は「宗教戦争」ではなく「領土問題」だ
飯山氏の心はイスラエルと共にあるのかは不明だが、完全なイスラエル寄りと見なす人もいるだろう。尤もメディアに登場するのはイスラムシンパばかりなので、氏の様な解説は実に興味深い。飯山氏はさらに「日本人が知らないイスラエル・パレスチナ紛争の「実相」」というコラムで、子供や女性を平然と人間の盾にするハマスを糾弾している。
飯山氏のコラムでは、AP通信の記者としてイスラエルを取材してきたマッティ・フリードマンの名が出ているが、「名門NYタイムズ「恥ずべき黒歴史」が映す本性/大虐殺を握り潰し、テロ組織の宣伝工作に加担」という記事にもフリードマンの名が見える。記事の執筆者名はマーク・R・レヴィンだから、彼もまたユダヤ系か?
21世紀でも異教徒をサルやブタ呼ばわりするムスリムがおり、これぞ人種差別の極みだが、連中には差別しているという意識は皆無のはず。そのくせサルやブタが居住する「戦争の家」には平気で移民するが、異教徒はムスリムに奉仕すべきであるという選民思想の表れでもある。
今回のイスラエル・パレスチナ紛争でも、メディアはパレスチナ人の子供の犠牲を強調しているが、ウイグルやチベットにおける子供や女性の犠牲に言及するコメンテーターなどいるのか?ウイグル説法などの下劣極まる新語を作る男を、識者扱いするのが日本のメディアだ。世界の関心がパレスチナに集まりウイグルが報じられなくなったことに、連中はさぞ喜んでいるだろう。
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「日本人医者によるガザ報告」
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「この人はLGBTだから…」
日本政府 対 朝鮮総連に潜伏するの北朝鮮人民軍工作員
の構図だから。まあ、言葉の使い方として、「イスラエルと共にある」はどうかと思うが。
同氏が旗幟鮮明にしたいのなら
>全員ではないにせよ、日本人クリスチャンやキリスト教研究者は総じてイスラエルシンパなのだ。イスラエル擁護するのは自由だが、戦時中にユダヤ人を虐殺したドイツと同盟した日本を糾弾し続けるクリスチャンもいる。日本人クリスチャンには反日種族が多く、日本非難をせずにはいられないのだ。
その非難を増幅するような、「皇嗣は男系男子に限る」を明確に打ち出すこと。「日本人クリスチャンやキリスト教研究者」は絶対に反発するが、再三再四のらくろがこちらで述べたとおり、「ではマタイ伝1章とルカ伝3章を君らは否定し、新約聖書から削除したまえ」と言えばいい。これで「日本人クリスチャンやキリスト教研究者」は絶対に賛意を顕せなくなる。それも極めて感情的、ご都合主義的にだ。彼らは「無理を通して道理を引っ込める」
なお、ルカ伝3章は、日本語訳では「〇〇の子、●●の子、……、アダムは神の子」となっているが、試しにネットに掲示されている英語版では「son of 〇〇,son of ●●,……」とはっきり書かれていたことを付記しておく。
やはり中山泰秀防衛副大臣の発言は、公人としては突っ込まれる内容だったし、結局は削除しています。少し考えてみれば“炎上”するのは予測できたはずだし、案の定ネット上にも特亜工作員がワラワラ現れました。パレスチナ代表の抗議など、特亜工作員の比べれば大したことはありません。
イスラエルとハマスの関係は、日本政府 対 朝鮮総連に潜伏する北朝鮮人民軍工作員の構図という指摘は面白いですね。南も劣らずユダヤとグルだし、拙ブログにもユダヤ批判に噛みついてきたヤツが現れたほど。
「皇嗣は男系男子に限る」の根拠として、「日本人クリスチャンやキリスト教研究者」に新約聖書を持ち出すやり方は面白いですね。
尤も連中は「無理を通して道理を引っ込める」のが毎度なので、新約聖書の一節を挙げても、「いや、あの時代はそうだったが、現代は時代遅れ」と平気でうそぶくと思います。
現にここにも、「まさに光の御使いに変装したサタンに心を奪われてヨシュア記を書いたのではないでしょうか?」と書き込んだカトリックがいました。中世欧州ならば確実に異端で火あぶりですが、異教徒には嘘も方便とばかりデタラメも平気。申命記など古い、と言っていた耶蘇もいた。サヨク同様「日本人クリスチャンやキリスト教研究者」、ご都合主義の権化です。
領土問題は太古の生物の縄張り争いと本質的に同じなので比較的問題ないのです。経済合理性の問題なので、殺し合いで共倒れするより落とし所を見つけようとするので。
しかし、宗教などのイデオロギー(理想)で争うと落とし所が無くなり悲惨になります。(そもそも、イデオロギーで愚民を煽って生贄にする権力闘争でしかない。)
>とかく日本人は例え異民族にも善行を施せば、相手は恩義を感じると思い込みがちだが、
日本人も誤解していますが、これは善行を行うことで自分が仲間である時のメリット(自分の価値)を相手に証明し、仲間として共存共栄するためのものです。
相手が十分に賢いなら同様の思考になって、恩義からではなく仲間であることを維持し自分の利益を最大化するために、お返しがきます。
正しい意味での「情けは人の為ならず」が説く意味です。
日本のように長期的に安定した社会ではこれが成立します。「善行」によって証明される自分の価値が信用となって積み立てられ共有されるので。
しかし、朝鮮やユダヤのように他の社会に寄生して自らは安定した社会を作れない人々には早すぎる高度なものではあるのですが。
日本人は全体として甘くありません。本質的には合理的で冷徹です。でなれば、繁栄していません。
仲間に対しては、仲間から得られる長期的利益のために短期的な損害は甘受することがあります。これが、甘さに見えます。
しかし、損害ばかりで長期的にも利益が得られない「敵」だと判断した瞬間、冷徹に排除(殲滅)しようとします。
近年の韓国に対するように。(短期的な損益しか考えない韓国は、どうしてこうなったのか訳が分からないと思います。)
ただ、もっと腹立たしいのはこの種の出来事を隠そうとする日本のパレスチナ支援活動家。志葉玲なる左翼ジャーナリストなどブログで、「彼女達が怪我をしたわけでもなく」「より深刻な人権侵害も黙殺」とほざいていました。日本人が海外で差別されても日本の反差別団体はガン無視の見本です。
イスラエル・パレスチナ紛争は「宗教戦争」ではなく「領土問題」だ、と飯山氏は断言していますが、この点には疑問です。共に「聖地」としており、「宗教戦争」&「領土問題」に陥っているような。イデオロギーで愚民を煽って生贄にするのはイスラエル・パレスチナも同じです。
「情けは人の為ならず」は国内では通じても、民族や習慣が違えば難しいかもしれません。長期的に安定した社会を築いている国は意外に多くないし、朝鮮やユダヤのようなケースも少なくない。連中からすれば「損して得取れ」など、愚行以外の何物でもないでしょう。
>>日本人は全体として甘くありません。本質的には合理的で冷徹です。
他国に行ってしてやられる例も多いため、これには疑問に感じましたが、続く「でなれば、繁栄していません」でようやく納得しました。
尤も近年の韓国に対しても、まだまだ温いように思えますが、基本は小儒教主義なので、韓国はこの先もどうしてこうなったのか訳が分からないでしょう。本国だけでなく、在日すら訳が分からない様子。
習慣はその社会における合理性に基づき、そうした同じ習慣・価値観を持つ集団が民族なので、問題は「長期的に安定した」社会かどうかだけです。
無限繰り返し型「囚人のジレンマ」ゲームにおける最適戦略は「しっぺ返し」(最初は信用して協調し、裏切られたら裏切る、相手が改心したらまた協調する)です。
日本などの(無限だと思える)長期的に安定した社会においては、基本的にこの戦略がとられます。(結果、裏切り者は村八分にされ、裏切らない者が増え、繁栄します。)
一方、有限繰り返し型「囚人のジレンマ」ゲームにおいては「最初から裏切る」が最適戦略です。
いつかはゲームが終わり清算しなければならないので、先に裏切った方が利得が高いことになり、帰納的に最初から裏切るのが最適になります。
不安定な社会においては、先に裏切って短期的な利益を確定するような習慣・価値観が合理的になります。定住しない移民も同じです(先に裏切って報復される前に別に移住すればいいから)。
では、前者の住人と後者の住人が出会った場合にどうなるか。
最初は前者の住人が一方的に裏切られて損をします。しかし、「しっぺ返し」戦略により、次はありません。前者の住人同士は協調し合って利益を得るので、しばらくすると前者の住人が栄えるようになります。
前者の住人にとって「法」とは協調を強化するための合意事項です。一方、後者の住人にとって「法」とは裏切りを抑制するための枷です。(日本は条約を守ろうとするが、韓国は破ろうとする所以。)
ただし、現実はゲームではないので単純ではありません。「囚人のジレンマ」においても「ノイズ」として反映されます。これは、相手の行動(協調or裏切り)が時々間違って伝わるというものです。すなわち「冤罪」が発生します。
この「ノイズ」があると、単純な「しっぺ返し」戦略だと冤罪が蓄積して最終的に裏切りばかりになってしまいます。
そのため、裏切られても(それを覚えておいて)何度か許すなどの戦略が効果的になります。「仏の顔も三度まで」という言葉もあるように、日本社会の住人はこうした戦略を持ちます。これが、「温さ」に見えるのです。
こんな感じで、倫理はなくても合理性だけあれば協調する「善人」が繁栄するはずなのです。そうすることで社会が安定して正のフィードバックがかかります。日本社会(などの先進国の社会)のように。
ところが、イデオロギーや倫理で洗脳されると合理性を失います。
本来は、イデオロギーは「隣人を愛せ」などのような協調の方向なのです。そうでなければ、そのイデオロギーを持つ社会は繁栄しないので。ただし、協調という目的は失われ、行動パターンだけになります。
そのため、環境の変化(例えば「隣人」の定義が全ての人ではなく自民族だけになる等)で、行動パターンが協調の方向から外れると破滅に向かいます。合理性を失っているので、止まりません。
一度「繁栄した」という実績を持つイデオロギーの場合、破滅に向かう過程でそのイデオロギーが不徹底だから悪化しているとして、逆にイデオロギーを強化して(原理主義化して)加速します。
日本社会の住人の多くは「信仰」を持ちません。「信仰」は、協調のための行動パターンの洗脳です。
それは、不安定な社会を安定化させるためには有益かもしれません。合理性のない愚民の集団には有益かもしれません。
しかし、既に安定しており合理性を持つ日本社会には必要ないのです。「法」などの公的価値観で十分で、心(私的価値観)に深く干渉して洗脳する「信仰」はいらないのです。(日本社会でも、不安定な戦国時代や大戦末期などは例外。)
「信仰の自由」の目的は、心を他者に強制されないようにすることです。なら、他者に強制する「信仰」そのものを無くせばいいのです。自分だけの「信仰」があればいい。(日本人が受け入れた一部の仏教はそんな感じ。)
# こんなこと、キリスト教圏の欧米先進国の人は言えないよね。ヒジャブの強制禁止など、ちょっと分かってきてはいるが。
今回の論説、なかなか考えさせられました。はじめ「日本人は甘くない」という意見に少し違和感がありましたが、「長期的に安定した」社会ならではの習慣・価値観なのですね。
ただ、長期的に安定しない社会は海外では珍しくないし、その社会に居住する民族からみれば、やはり日本人は甘いと思うでしょう。一日本人からすれば、やはり一方的に裏切られて損をするのは歯がゆいものです。
日本人クリスチャン及び研究者は、日本社会の住人の多くが「信仰」を持たないことが全く理解できないようです。日本人には愛が不足している等の戯言はともかく、高等教育を受けたはずの研究者さえ、キリスト教への理解が足りないことに求めているようです。理解すれば「信仰」すると思っているのは、世間知らずよりも未熟としか見えない。
何故か塩野七生さんは紹介していませんでしたが、マキアヴェリは実は民衆統治に宗教は欠かせないと言っていたのです。当時のイタリアは不安定な社会だったし、合理性のない愚民の集団には協調のための行動パターンの洗脳が有益でした。
>>「信仰の自由」の目的は、心を他者に強制されないようにすることです。
この指摘は目からウロコです。多くの日本人は目的はマイノリティへの配慮と思っているはず。尤も「信仰の自由」の悪用もやれますね。同調を求める異教の「信仰」そのものを無くせばよく、自分だけの「信仰」があればいい、と考えているイスラム・キリスト教徒は少なくない。
欧米先進国におけるヒジャブの強制禁止の動きは羨ましい。日本では多様性尊重とばかり、そんな動きは見られず、挙句はヒジャブファッションを持てはやす動きさえ一部見られます。これでは感化されやすい日本女性が影響されるかも。