トーキング・マイノリティ

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洲之内徹と現代画廊展

2013-12-23 20:41:32 | 展示会鑑賞

 先日、宮城県美術館の特別展『洲之内徹と現代画廊―昭和を生きた目と精神―』を見てきた。宮城県美術館に「洲之内コレクション」が収蔵されているのは知っていたが、期待した以上に出品は良い作品が多かった。美術館のHPには今回の特別展をこう解説している

2013(平成25)年は、洲之内徹(1913-1987)が生まれてちょうど100年目にあたります。愛媛県松山市に生まれた洲之内は、小説家、田村泰次郎から引き継いだ現代画廊で、個性あふれる数多くの作家を紹介しました。また『芸術新潮』誌上に14年の間「気まぐれ美術館」を連載し、その独特の語り口は多くの熱心な読者を獲得し好評を博しました。
 洲之内が最後まで手放さなかった「洲之内コレクション」は宮城県美術館に収蔵されています。本展では、このうちの半数をこえる作品のほか、彼の著作の中で語られた作品、現代画廊の初期や洲之内が引き継いだ後の作家の作品など、総数約190点と関係資料によって、洲之内徹と美術との関わりをあらためて見直します。このことは昭和を生きた一人の人間の足跡を通じ、戦後の新しい近代美術史像が生成される過程のひとこまを垣間見るとともに、なぜ人はかくも美術に愛着をもつのかという問いに思いをはせることになるでしょう。

「洲之内コレクション」は知っていても、洲之内個人のことは今回の特別展で初めて知った。それ以前は富豪の美術コレクターといったイメージが漠然とあったが、画廊主や画商で小説家でもあったとは知らなかった。青年時代は東京美術学校在学中の左翼活動により検挙され、退学処分を受けている。帰郷しても活動を続けるも、その後は“転向”。軍の宣伝工作員となり中国に渡り、対共工作と情報収集に携わったという異色の経歴を持つ。洲之内の言葉を引用した解説が幾つか展示されており、小説家らしく感性と視点はさすが鋭い。

 上の画像は展示№125「ポアソニエール」(海老原喜之助)。この絵は県美術館で前にも見ていたが、改めて青の鮮やかさに魅せられた。洲之内はこう感想を述べている。
「このような絵が1人の生きた人間の手で作られたというだけで、勇気が湧いてくる…やはり人間の眼と手の素晴らしさを感じざるを得ない…」



 作品№56「猫」(長谷川潾二郎)が上の画像。この絵も前に見ているが、解説でこの猫には片側のヒゲがないことを今回初めて気付いた。長谷川は飼い猫をモデルにしたそうだが、猫が同じポーズをとるのを待って描いたため、ついに猫は老衰死してしまい、ヒゲを描けなかったという信じ難いエピソードがある。



 上は同じく長谷川のもので作品№53「バラ」。洲之内はこのバラを見て、長谷川の絵を大変気に入ったというが、私個人も一般に知られる「猫」よりも「バラ」の方がいい。



 今回の特別展で初めて坂下広吉(1945~)という画家を知った。上の画像は作品№63「真昼の星」、坂下氏のHPからの借用。画面を5つに区切りそれぞれの場面に人々を描くという画法もユニークだが、洲之内はその個性を買っていたらしい。



 出品にはフランスの抽象画もあったが、私の興味を引いたのは作品№95「男と女」だった。上の絵を描いたマドハット・カケイは1954年キルクーク(イラク)生まれのクルド人イラン・イラク戦争で召集されるも脱走、スウェーデンに亡命したという。カケイの名も初耳で、この絵はあまり好みではないが、中東の亡命画家とは何やら考えさせられる。

絵で何かを感じるのに修業はいらないが、絵を「見る」には修業がいる」と、洲之内言っていたという。やはり画商の眼は美術館鑑賞で満足するだけの素人とは違うのだ。なぜ人はかくも美術に愛着をもつのかと、いう問いには彼の言葉が全て物語っている。どうりで美術を見た人の心が癒され、勇気が湧くはずだ。
芸術というものは生存の恐ろしさに怯え、意気喪失した人間に救済として与えられる仮象だと私は考える…美以外に人間をペシミズムの泥沼から救ってくれるものはない…

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