政治家「又市征治」という男

元政治記者の私が最も興味を持った政治家、それが又市征治だった。その知られざる人物像に迫る。

政治家「又市征治」という男

2007年07月29日 | Weblog
 又市征治が描く「護憲議員連盟」構想への条件はどうか。
 自民党総裁選のとき自民党の党員・党友に対して共同通信社が調査を行った。その際「憲法9条を変えるべきではない」と答えた自民党員が26%にものぼった。加藤紘一らのような改憲慎重派の議員もいる。国民新党の中にも確かにいる。民主党や公明党の中にも護憲派議員は多い。

 こうした議員と連携していくことは不可能ではないし、又市は実際にこの選挙戦を通じて彼らと連携を深めている。平成22年までの間に、少なくとも総選挙が1回、参院選が2回はあるが、その中で「反自民・反改憲」派との連携をどう強化していくかに賭かっている。それができるのは又市以外には見当たらない。

 安倍自民党は参院選のマニフェストのトップに、予想通り「改憲」を掲げた。その中身については全く触れられていないが、国民の暮らしや将来への不安よりも、自分の趣味を優先し、自分好みの国づくりを進めようとする安倍に、最も厳しく対決しているのも、政治家「又市征治」という男だった。
(敬称略)

《第一部完》

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超党派の「護憲議連」構想

2007年07月28日 | Weblog
 平成19年の国会は荒れに荒れた。
 野党共闘から離脱した共産党を除く3野党は、2月に党首・幹事長会談を開き、再び結束を確認した。
 閣僚の相次ぐ失言と暴言、次々と明らかになる「政治とカネ」の問題、閣僚の任命権者である安倍晋三の遅い決断は、現職閣僚の自殺という悲劇を生んだ。さらに安倍は、野党からの追及から逃げるかのように極端に強引な国会運営を行っていく。強行採決以外に法案成立の方法はないのではないか、と思えるほど与党は強行を繰り返していった。

 さらに問題は浮上し、沸騰する。「宙に浮いた」「消えた」と言われた年金記録問題で国民の怒りは頂点に達した。年金の給付が削られ、さらに年金にも課税されるようになった。それだけでなく、今度は誰のものか分からない記録が5千万件以上もあるという。
 「暮らしていけない」という国民の悲鳴に、住民税の増税が追い討ちをかけた。
 それでも与党は多くの法案審議を打ち切り、強行採決を繰り返し、しまいには安倍内閣や与党の問題で時間が足りなくなったというのに一方的に会期延長を決め、さらに強行採決を積み重ねた。

 このように強行された中に、日本国憲法の改正手続に関する法律、いわゆる国民投票法があった。この成立によって安倍政権は「任期中の新憲法制定」を目指し、平成22年秋の憲法改正発議を目ざしていた。
 この法案の審議にあたって、自民・公明両党は民主党との連携を模索し続けた。3年後の改憲案発議の際、民主党の協力がなくては発議に必要な、衆参両院での3分の2という議席数は確保できない。手続法の段階から自公民3党の協力態勢を作っておくに越したことはない。

 しかし、自民党の新憲法草案はあまりにも近代以後の立憲主義の概念とかけ離れている。又市征治をはじめ社民党議員はそこを突いた。

 「憲法とは国民を守るために権力を縛るものだ。自民党案にその憲法観があるか。」
 「中立公正な法案などではない。自民党の草案を押し通すためのシステム作りだ。」

 民主党も枝野幸男をはじめ弁護士出身の議員が多く抱えている。多少なりとも法理論を学んだ人間ならば、自民党の憲法観が、国民を縛り、権力を強化する内容であることは分かる。又市らの説得に、民主党の多くの議員も「立憲主義さえ理解してない自民党と、憲法改正は語れない。」と与党との対決姿勢を強めていった。
 国民新党は「憲法改正には賛成の立場だが、国民に幅広く理解を求め、合意形成を図るべきなのに与党の国会運営は強引過ぎる。」と非難した。

 憲法問題で民主党を与党に歩み寄らせないというのも、野党共闘で絶えず又市が呼び掛けてきたことや、法案審議の過程で社民党が、与野党間の憲法観の違いを明確にしてきたことの成果だった。参院選でも社民党は、勝敗の鍵を握る一人区で野党間の選挙協力を進めながら、候補者を通じて民主党・国民新党との間に「現行憲法を尊重し擁護すること」という政策協定を結んでいった。
 又市は彼らに、言うなれば「護憲の楔(くさび)」を打ち込んでいたのだ。

 憲法を守るという一点で連携できる議員を国会に送り出し、参院選後には超党派の「護憲」議員連盟を作る。

 これが又市征治の構想だった。

 社民党や共産党だけでは憲法を守り抜くことはできない。自民でも民主でも公明でも国民新でも、「いま憲法を変えるべきではない」「自民党新憲法草案のような国家主義色の強い改憲には賛成できない」という議員と幅広く連携していく必要がある。現実主義者である又市らしい発想である。とことん野党共闘を追求し、そのまとめ役となってきたのは、このための布石でもあったのかもしれない。
 あの辛口で知られる評論家の佐高信が、又市を「護憲の要石」と高く評価しているのも頷ける。
(敬称略)

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「護憲」協定

2007年07月27日 | Weblog
 平成18年9月、任期中の改憲を掲げて登場した安倍政権は、教育基本法改定案、「共謀罪」創設法案、国民投票法(改憲手続法)案、防衛「省」昇格法案など、小泉政権時代に継続審議となった法案の「在庫一掃」を推し進めようとしていた。

 これに対し、又市征治は、秋の臨時国会の冒頭から4野党共闘の引き締めに取りかかった。
 自民党と同根である民主党や国民新党は、教基法改定や国民投票法案、防衛省昇格、さらに改憲も、基本的に賛成の立場である。放って置けば、民主・国民新は自民・公明になびきかねないと誰もが見ていた。しかし、野党はなかなか崩れなかった。

 教育問題に関するタウンミーティングにおいて「やらせ」「サクラ動員」「不正な謝礼」などの問題が発覚したにもかかわらず、与党は教育基本法案の衆議院での審議を一方的に打ち切り、単独で採決を行った。こうした強引な国会運営に、野党は反発し、結束を強化した。

 それが崩れたのは、沖縄県知事選で野党統一候補が敗れた直後だった。民主党は野党共闘を覆し、あっさりと審議に復帰してしまう。
 自民党国対委員長の二階敏弘が民主党に対し、「聞きたいことが6点ある」と審議復帰を求めた。二階の言葉は、民主党の弱みを6つ握っているという意味であった。その「弱み」が何かは定かではないが、それ以後、民主党は与党の言いなりだった。共産党も審議拒否を好まず、淡々と審議時間を稼がせた。民主、共産から崩れた野党共闘を尻目に、与党は教育基本法案をはじめ、次々と法案を成立させていった。

 民主党は、もともと野党間で廃案にするとまで確認していた防衛「省」昇格法案に、賛成にまわる始末だった。次から次へと態度を変える民主党に、社民の又市や共産の市田、国民新党の亀井(久)らは、怒りを隠さなかった。

 又市は痛烈に民主党を批判したが、それでも共闘をあきらめようとはしなかった。批判だけで手を切るのは分かりやすいし簡単だ。しかし、それでは民主をますます自民・公明に近づけることにつながる。そうなれば「自民・公明・民主3党大連立による改憲」という自民党の思惑が現実味を帯びてくる。又市は、それだけは避けたかった。

 一方、民主党の小沢も、来るべき参院選の勝利のためには、社民・国民新との連携は欠かせないと考えていた。巨大与党に対抗するには、何としても参院選で与野党逆転を果たさなければならなかった。もし今度も惨敗すれば、「政権交替」という一点だけでつながってきた民主党そのものが崩壊の危機を迎えることになる。小沢の尻にも火が点いていたのである。

 又市は、小沢に積極的な選挙協力を投げかけた。社民と民主、候補者の3者で政策協定を結び、政策の刷り合わせを行うことを図った。

 12月末、全国で初めての無所属統一候補の擁立は、又市の地元・富山で、又市と小沢が同席する中で発表された。

 又市の社民党が、民主党やその無所属候補との間で結んだ政策協定には、明確に「護憲」が盛り込まれていた。又市は民主党に「護憲」への譲歩を引き出したのである。
 その後、各地で社民党は、秋田・愛媛などでの無所属統一候補や、他の一人区での候補に「護憲」を誓わせながら支持を決めていった。

 「与野党逆転だけでは意味がない。民主党に与党との対決路線を明確にさせながら、これからの国政選挙でいかに護憲の議員を増やしていくかが勝負だ。」

 これが又市征治の思いだった。
(敬称略)

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小泉の逃げ、安倍の登場

2007年07月25日 | Weblog
 平成18年6月に又市征治が仕掛けた4野党共闘は「小泉包囲網」と呼ばれた。4党は緊急アピールを採択し、ただちに与野党党首会談を与党側に申し入れた。米軍再編と、その費用の3兆円が日本側の負担になるということについて、政府は何の説明もせず国会から逃げ出した。又市は包囲網を作り、これを追い詰めようとしたのだ。

 当時の首相、小泉純一郎は困り果てたようである。
 小泉はアメリカ訪問を控えていた。もし与野党会談に応じてボロを出せば、ブッシュ大統領も良い顔をしないだろう。もともと説明したくないから、数々の法案を積み残したまま国会も会期中に終わらせたのだ。

 小泉はひたすら逃げまわる道を選び、与野党会談を拒み続けたのだ。理由は「訪米の準備で忙しく…」というものだった。一国の総理が外国を訪れるのに、自分で何日もかけて旅支度をするなどありえない。とにかく逃げまわったのである。

 結局、小泉は「卒業旅行」と呼ばれた外遊を繰り返し、9月に総理総裁を降りた。結局、最後は逃げまわってばかりだった小泉が退陣し、自民党の新総裁に選ばれた安倍晋三が総理大臣に就任する。
 安倍は、その任期中(5年以内)の憲法改正を掲げていた。又市は、他の野党と連携しての全面対決を決意していた。
(敬称略)

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野党共闘の中心に

2007年07月22日 | Weblog
 民主党からは小沢一郎・鳩山由紀夫、共産党からは志位和夫・市田忠義、社民党からは福島瑞穂・又市征治、そして国民新党からは綿貫民輔・亀井久興。正にそうそうたる顔ぶれだった。

 そこでは様々な議論がなされたが、やはり米軍再編問題についての話になろうとしたそのとき、又市はこう切り出した。

 「この中には米軍再編や基地機能強化に賛成の人々がいる。そのことは私も重々承知している。だが、3兆円という莫大な負担の問題について、政府与党は何か説明をしただろうか。その財源も含め、誰か納得しているのだろうか。ここは野党で一致して追及していくべきではないか。」

 この又市の提起に異論をはさむ者はいなかった。
 
 又市が起案した合意文書案は緊急アピールとして採択され、4野党による党首・幹事長会談は成功裏に終わった。さらにこの会談は、単なるアピールでは終わらなかった。

 これを元にすぐに4野党は、そろって与党に申し入れを行った。今度は「与野党の党首会談」である。これも又市がアピール内に盛り込んだものであり、与野党の対立姿勢を明確にする意味で譲れないものであった。
 国会は既に閉会している。政府与党を追及するには、与党を会談の場に引きずり出して追及するのが一番である。

 「ただ野党が集まって気勢をあげた、では意味がない。政府与党を追い詰めるためには、もう一度、国民の前に引きずり出さなければならない。」

 又市は、そこまで考えていたのだ。しかもこれは既に4野党の合意だ。世に与えるインパクトは大きかった。

 これを主導したのは紛れもなく又市征治という男だ。社民党幹事長とは言え「1年生議員」が、小沢・綿貫という、当選十数回、自民党幹事長や閣僚を歴任してきた老獪な政治家たちを主導したのである。
 又市征治は、正に野党共闘の中心となっていた。
(敬称略)

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党首・幹事長会談へ

2007年07月22日 | Weblog
 野党共闘を裏切り、与党に歩み寄る民主党に筋を通させるためにも、4野党の党首を集めようと考えた又市征治だったが、これは簡単な話ではない。

 代表・委員長・党首、いろんな呼び名があるが、要するに政党のトップである。そのトップどうしが話をし、合意したとなれば、その合意の重みは大きく、お互いに一定の拘束力すら持つ。その意味が重すぎるがゆえに、これまで全野党を集めた党首会談というのは4年前の夏から行われていなかった。

 さらに民主の小沢、国民新の綿貫は保守色が強く、理念的には共産、社民との間には大きな溝があった。とりわけ共産は元々、自分たち以外の政党を敵視しながらこれまでやってきた閉鎖性がある。その委員長が、呼ばれたからといって簡単には出てこない。民主や国民新にしても、共産と同席してもメリットはないし、民主は野党共闘を裏切ったばかりである。社民の福島もこの手の話にはあまり積極的ではなかった。そう簡単な話ではないというのは、そういうわけである。

 しかし又市征治という男は、これを1日でやってのけたのである。

 平成18年6月22日、又市は社民党内で野党党首会談を提起した。党としての決定ということで、まず福島の消極姿勢に釘を差したのである。
 その後、又市はすぐに民主の鳩山と会う。鳩山は「小泉首相の訪米前に、民主党が呼び掛ける形で党首会談を実現し、小泉首相を追い詰めよう。」という言葉で乗せた。もちろん代表の小沢にも趣旨を説明し、根回しをした。民主に対しては一応、野党第一党だということで持ち上げてかかったのである。

 民主党からは、すぐに呼びかけの文書が発せられた。
 その文書が共産、国民新に届く頃には、又市は既に両党の説得を終えていた。
 共産には米軍再編と基地機能強化の問題に重点を置いて説明し、国民新には郵政民営化の見直しを、と持ちかけた。

 たった1日のうちに4野党党首会談が決定したのである。しかも、党首だけでなく幹事長クラスも同席の会談である。これは平成14年の前回野党党首会談でも実現しなかったことである。実務者である幹事長を入れることによって、この合意文書に、より強い拘束力を持たせようと又市は考えたのだ。そしてその文案づくりには、各党と調整を行ってきた又市自身が当たった。

 2日後、党首会談に先立って又市と鳩山がその文案について事前に協議を行った。鳩山はそこにある1項目について、顔を曇らせた。

 「又市さん、この米軍再編問題は、うちもだが綿貫さんのところ(国民新党)も乗れないんじゃないだろうか。」

 又市は笑って「心配ない」とだけ答えたという。

 そして、各党の党首・幹事長がその会場に集まってきた。いよいよ会談が始まろうとしていたのである。
(敬称略)

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野党合意と裏切り

2007年07月19日 | Weblog
 平成18年6月8日、民主・共産・社民・国民新の4野党は、幹事長・国対委員長会談を開いた。これは表向き、民主党の鳩山由紀夫が呼び掛けた形になっていたが、実質的には又市征治が仕掛けたものだった。
 その席上、又市はこう切り出した。

 「小泉首相の任期は9月まで。つまり秋の臨時国会は別の内閣だ。内閣が替わる以上、小泉内閣が提出しながら今国会で成立しなかった法案は全て継続審議ではなく、廃案にすべきだ。」

 これには、民主の鳩山・渡部が難色を示した。民主は与党案への対案を出していた。

 「民主の対案も廃案にするのか。」

 民主党は対案路線の危うさに懲りていなかった。又市は即答した。

 「当然だ。」

 「与党がどうしても通したい法案であれば、次期内閣がまた新たな法案を出してくるだろう。民主党はそのとき、どうしても対案を出したいならば改めて出せば良い」

 又市の主張は筋が通っていた。共産・国民新は「その通りだ」と支持し、民主も納得した。

 この幹事長会談では、教育基本法改定案、「共謀罪」創設法案、国民投票法案、防衛「省」昇格法案などを廃案に追い込むことが確認された。ふらふらする民主党に一本の骨を通そうとする又市の狙いは成功したかに見えた。
 ところが国会最終日、民主党はこの野党合意を裏切る。議院運営委員会で、中川正春、三井辨雄ら民主党理事が与党と談合し、全て「閉会中審査」すなわち継続審議にしてしまったのである。これには鳩山も一枚かんでいたらしい。というのは、鳩山は民主の「日本国教育基本法案」の提案者である。対案も廃案にすることに難色を示したのもそのためだったのだろう。

 この民主の裏切りに、共産・社民・国民新の3党が怒ったのは言うまでもない。市田・又市・亀井(久)の3幹事長は相次いで鳩山に抗議した。

 「いや、現場が勝手に決めてしまって・・・」
 「いや、うまく伝わらなかったのかもしれない・・・」

 鳩山の言い訳に、又市は怒る以上にあきれていた。

 「平気で合意事項を踏みにじっておいて政治家と言えるのか。これが野党第一党の姿か。これでは政党でも何でもない。」

 しかし、あきれてばかりもいられない。

 「幹事長でダメならば、党首クラスを引きずり出すまでだ。」

 又市はすぐに次の仕掛けに取り掛かっていた。
(敬称略)

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民主党の危うさ

2007年07月18日 | Weblog
 野党共闘が低調だった間も、何とか野党の攻勢は続いていた。
 その頃ちょうど、ライブドア事件、耐震強度偽装問題、米国産牛肉問題、防衛施設庁談合事件の、いわゆる「4点セット」があったからだ。野党の厳しい追及に、政府与党は劣勢に立たされていた。

 しかし野党第一党である民主党に、思わぬ落とし穴が待っていた。民主党の永田寿康による「偽メール事件」である。この民主党の自滅によって「4点セット」はうやむやになり、与党が攻勢に転じる。民主党は永田が議員辞職、国対委員長の野田佳彦、そして代表の前原が辞任に追い込まれる。

 その後、代表に就任したのが小沢一郎だった。ようやく本当の喧嘩の仕方を知っている人物が現れたのだ。又市征治は、小沢に警戒感を持ちながらも、わたり合う相手として不足はないと歓迎した。

 この通常国会、政府与党からは、教育基本法改定案、「共謀罪」創設法案、国民投票法案、防衛「省」昇格法案などが出されていた。こうした法案について民主党は対案を出していた。

 実は、この「対案路線」ほど与党にとってありがたいものはない。与党は、野党の対案の重箱の隅を突ついて批判をしていれば審議時間が過ぎていく。野党は対案を出している手前、審議拒否などの抵抗もできない。ある程度、時間が過ぎれば「審議は尽くした」と言って採決すれば、数で勝る与党が勝つのは目に見えている。与党が「批判せずに対案を出せ」と野党に迫るのは、こうした計算があるのだ。

 6月、与党はさらに踏み込んで、その対案路線を利用しようとした。「共謀罪」創設法案について民主党案に賛成、つまり「丸呑み」を言い出したのだ。民主党国対委員長の渡部恒三は手を叩いて喜んだ。「うちの案が認められた。」若手議員らも渡部と一緒に素直に喜んだ。

 もちろん、これはそれほど単純な話ではなかった。与党は「とにかく民主案を通しておいて、後でいくらでも改正しよう。」という魂胆だったのだ。民主党幹事長の鳩山由紀夫は、対応に苦慮していた。賛否をめぐって民主党内が混乱していたのである。これも、与党の思惑通りだった。
 そのとき又市は、鳩山、次いで小沢の双方にこう働きかけた。

 「いま与党に協力すれば『偽メール』のときのように、与党を追及できなくなる。それでいいのか。」

 野党が与党に一点でも加担すれば、対抗軸はあいまいになる。他の法案でも与党側に引き込まれていく恐れも出てくるだろう。小沢は又市の意見を支持し、右往左往する民主党内を一喝した。又市の説得は成功したのだ。
 民主党は「丸呑み」を拒否し、「共謀罪」創設法案は阻止されたが、この「丸呑み」のようにちょっとした与党の工作にも混乱してしまうという民主党の危うさが際立ったことも事実だった。

 「他の法案もある。また米軍再編問題もある。国会最終盤に向けて民主党を何とかしなければ。」

 そのとき既に又市は次の手を考えていたのである。
(敬称略)

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追伸 よく考えてみると、今日7月18日は又市征治の誕生日だった。心からお祝いを申し上げたいと思う。

共闘の停滞

2007年07月17日 | Weblog
 又市征治が奔走して実現した野党共闘は、自衛隊イラク派遣延長問題で、小泉内閣を追い詰めた。このことは野党側にとって大きな自信となった。

 この平成16年の共闘について、又市には一つの思いがあった。
 実はこの年の7月、3名の政治家がアメリカを訪問していた。
 1人は自民党副総裁(当時)の山崎拓、次が自民党国対委員長(当時)の中川秀直、3人目は民主党代表の岡田克也だった。
 政治家はアメリカへ行くとおしゃべりになる。山崎は「自民・公明・民主の3党大連立による憲法改正」を唱えた。中川は「自民・民主の連立による憲法改正」を打ち出した。そして岡田は「憲法を変えて、集団的自衛権を行使できるようにする」と発言した。
 現自民党幹事長である中川秀直の「公明党外し」論は興味深いところだが、それはともかくとして憲法問題で鍵を握るのは民主党だった。そして、その民主党までもが「憲法を変えて集団的自衛権行使を」と唱え出したことに、又市は危機感を抱いていた。

 「民主党を、与党側に歩み寄らせてはならない」

 翌17年、いわゆる「郵政解散」後の総選挙で民主党は大敗を喫する。岡田は代表を辞任した。

 新代表には前原誠司が選ばれたが、この前原も、与党とまともに対抗できない人物だった。就任後に執行部がそろって挨拶のため各政党を訪れたとき、小泉から「自民党にいてもおかしくない顔ぶれ」と評されるほどであり、前原自身が「民主は自民と8割同じ」と言い出す始末だった。

 あまりに与党寄りの前原に対し、又市はこう言った。

 「野党の使命は、政権を厳しくチェックし、与党との対決を通じて法案の問題点を国民に知ってもらい、与党の暴走を防ぐことだ。その使命を果たすべきではないか。」

 又市に対する前原の言葉は、答えになっていなかった。

 「私たちは、野党ではなく政権準備党だから。」
 
 前原の目は与党ばかりに向けられていた。この時期、又市の思いをよそに野党共闘は停滞していった。その隙を狙ったように政府与党は、次々と問題法案を国会に出してきた。
(敬称略)

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野党共闘の実現

2007年07月16日 | Weblog
 又市征治の平和への思いは強い。
 しかし、又市が社民党の幹事長に就任した平成15年から、社民党は衆議院でも参議院でも議席数は一ケタという少数政党になっていた。
 又市は労働組合で培った経験から、闘い方を良く知っていた。
 ただでさえ小さな勢力が巨大与党に立ち向かおうとするとき、バラバラに闘ったのでは、すぐに突き崩される。力を合わせて立ち向かわなければならない。
 平成15年末に社民党幹事長に就任してから、ますます又市は野党共闘に力を注いでいった。課題別にではあるが、与党の横暴に対し、野党が一致してこれに当たろうと又市は奔走した。

 これは言うのは簡単だが、実際には多くの障害があった。
 当時の民主党の代表は岡田克也。「政策ロボ」とあだ名されるほどの政策通だが、自分の理念ばかりを先行させ、喧嘩の仕方を知らない「優等生」タイプの堅物である。自民党出身である岡田が理念を先行させれば、結局は自民党に引きずり込まれる。平成16年の年金制度改革では、自民、公明との三党協議に巻き込まれた挙句、衆議院では民主党は年金法案に賛成したほどである。自民にとっては扱いやすい相手だった。
 一方の共産党は相変わらずの「唯我独尊」路線で、他党と同じテーブルに着こうとはしない。
 普通ならば野党共闘など、あり得ない話だった。

 しかし又市はあきらめなかった。止めなくてはならないことが多くあったのだ。
 平成16年6月、イラクに派遣されていた自衛隊が多国籍軍に編入された。サマワの宿営地に、たびたび迫撃砲弾やロケット砲弾が撃ち込まれ、派遣部隊の隊員は危険にさらされていた。10月にはイラク暫定政府がイラク全土に非常事態宣言を発令し、イラク全土が「戦闘地域」となっていた。翌11月には、日本人男性が惨殺されたが当時、小泉純一郎はアメリカの要求に従い、12月までとなっていたイラクへの派遣期間を1年間延長しようとしていた。

 民主党はこの間、態度を二転三転させていた。イラクからの撤退を主張したかと思えば、今は撤退する時期ではないと言い出す。ところが、すぐ後にまた即時撤退を要求するなど、支離滅裂な迷走を続けていた。民主党もまた政権を意識するあまり、アメリカの顔色を窺うようになっていたのだ。
 しかし世論は圧倒的に「撤退」を支持していた。又市は民主党にこう迫った。

 「イラク特措法そのものを廃止する法案を出すべきだ。世論を喚起するためにも共産も含め3党で廃止法案を出そうじゃないか。」

 イラク特措法では、派遣の基本計画の変更は国会にかける必要があるが、報告だけで良く、承認を得る必要はなかった。その特措法そのものを廃止してしまえば自衛隊のイラク派遣は根拠を失う。民主党は迷ったが、世論の「撤退」の声を逃がしたくなかった。
 一方で又市は、共産党へも働きかけた。共産党は民主党と一緒にやることを渋ったが、又市は逆にこう突き放した。

 「分かった。では2党だけでやってもいい。せいぜい取り残されないようにするがいい。」

 共産は痛いところを突かれた。共産と同じく、一貫してイラク派遣に反対してきた社民が、民主の態度も決めさせた。そこに乗り遅れれば、共産は取り残されてしまう。共産はあわてて追いすがり、仲間に入れてもらう形になった。

 ついに又市は、3野党による幹事長・国対委員長会談を実現させた。民主の川端、共産の市田、そして社民の又市らが一同に会し、イラク特措法の廃止法案を3党共同で提出することを発表した。さらに極めて異例なことに、この問題についての議論を避ける小泉内閣に対して、野党の側から臨時国会の会期延長を求めた。

 この動きに対して小泉は逃げまわった。
 野党が結束して法案まで出してきた。その法案に世論の大多数が賛成している。もう「自衛隊のいるところが非戦闘地域」などという詭弁は通用しなかった。
 小泉は、国会の会期延長を拒否し、野党の法案についても審議を拒み続けた。そして会期末を待って、ようやく派遣期間の延長を閣議決定した。臨時国会が終わってから翌年の通常国会までは約1ヵ月半。その間ひたすら逃げ、この話が風化するのを待って国会に報告しようという姑息な魂胆だった。
 
 又市征治が描き、奔走して実現させた野党共闘は、あの小泉をそこまで追い込んだのだ。
(敬称略)

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