又市征治が奔走して実現した野党共闘は、自衛隊イラク派遣延長問題で、小泉内閣を追い詰めた。このことは野党側にとって大きな自信となった。
この平成16年の共闘について、又市には一つの思いがあった。
実はこの年の7月、3名の政治家がアメリカを訪問していた。
1人は自民党副総裁(当時)の山崎拓、次が自民党国対委員長(当時)の中川秀直、3人目は民主党代表の岡田克也だった。
政治家はアメリカへ行くとおしゃべりになる。山崎は「自民・公明・民主の3党大連立による憲法改正」を唱えた。中川は「自民・民主の連立による憲法改正」を打ち出した。そして岡田は「憲法を変えて、集団的自衛権を行使できるようにする」と発言した。
現自民党幹事長である中川秀直の「公明党外し」論は興味深いところだが、それはともかくとして憲法問題で鍵を握るのは民主党だった。そして、その民主党までもが「憲法を変えて集団的自衛権行使を」と唱え出したことに、又市は危機感を抱いていた。
「民主党を、与党側に歩み寄らせてはならない」
翌17年、いわゆる「郵政解散」後の総選挙で民主党は大敗を喫する。岡田は代表を辞任した。
新代表には前原誠司が選ばれたが、この前原も、与党とまともに対抗できない人物だった。就任後に執行部がそろって挨拶のため各政党を訪れたとき、小泉から「自民党にいてもおかしくない顔ぶれ」と評されるほどであり、前原自身が「民主は自民と8割同じ」と言い出す始末だった。
あまりに与党寄りの前原に対し、又市はこう言った。
「野党の使命は、政権を厳しくチェックし、与党との対決を通じて法案の問題点を国民に知ってもらい、与党の暴走を防ぐことだ。その使命を果たすべきではないか。」
又市に対する前原の言葉は、答えになっていなかった。
「私たちは、野党ではなく政権準備党だから。」
前原の目は与党ばかりに向けられていた。この時期、又市の思いをよそに野党共闘は停滞していった。その隙を狙ったように政府与党は、次々と問題法案を国会に出してきた。
(敬称略)
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この平成16年の共闘について、又市には一つの思いがあった。
実はこの年の7月、3名の政治家がアメリカを訪問していた。
1人は自民党副総裁(当時)の山崎拓、次が自民党国対委員長(当時)の中川秀直、3人目は民主党代表の岡田克也だった。
政治家はアメリカへ行くとおしゃべりになる。山崎は「自民・公明・民主の3党大連立による憲法改正」を唱えた。中川は「自民・民主の連立による憲法改正」を打ち出した。そして岡田は「憲法を変えて、集団的自衛権を行使できるようにする」と発言した。
現自民党幹事長である中川秀直の「公明党外し」論は興味深いところだが、それはともかくとして憲法問題で鍵を握るのは民主党だった。そして、その民主党までもが「憲法を変えて集団的自衛権行使を」と唱え出したことに、又市は危機感を抱いていた。
「民主党を、与党側に歩み寄らせてはならない」
翌17年、いわゆる「郵政解散」後の総選挙で民主党は大敗を喫する。岡田は代表を辞任した。
新代表には前原誠司が選ばれたが、この前原も、与党とまともに対抗できない人物だった。就任後に執行部がそろって挨拶のため各政党を訪れたとき、小泉から「自民党にいてもおかしくない顔ぶれ」と評されるほどであり、前原自身が「民主は自民と8割同じ」と言い出す始末だった。
あまりに与党寄りの前原に対し、又市はこう言った。
「野党の使命は、政権を厳しくチェックし、与党との対決を通じて法案の問題点を国民に知ってもらい、与党の暴走を防ぐことだ。その使命を果たすべきではないか。」
又市に対する前原の言葉は、答えになっていなかった。
「私たちは、野党ではなく政権準備党だから。」
前原の目は与党ばかりに向けられていた。この時期、又市の思いをよそに野党共闘は停滞していった。その隙を狙ったように政府与党は、次々と問題法案を国会に出してきた。
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