政治家「又市征治」という男

元政治記者の私が最も興味を持った政治家、それが又市征治だった。その知られざる人物像に迫る。

野党共闘の実現

2007年07月16日 | Weblog
 又市征治の平和への思いは強い。
 しかし、又市が社民党の幹事長に就任した平成15年から、社民党は衆議院でも参議院でも議席数は一ケタという少数政党になっていた。
 又市は労働組合で培った経験から、闘い方を良く知っていた。
 ただでさえ小さな勢力が巨大与党に立ち向かおうとするとき、バラバラに闘ったのでは、すぐに突き崩される。力を合わせて立ち向かわなければならない。
 平成15年末に社民党幹事長に就任してから、ますます又市は野党共闘に力を注いでいった。課題別にではあるが、与党の横暴に対し、野党が一致してこれに当たろうと又市は奔走した。

 これは言うのは簡単だが、実際には多くの障害があった。
 当時の民主党の代表は岡田克也。「政策ロボ」とあだ名されるほどの政策通だが、自分の理念ばかりを先行させ、喧嘩の仕方を知らない「優等生」タイプの堅物である。自民党出身である岡田が理念を先行させれば、結局は自民党に引きずり込まれる。平成16年の年金制度改革では、自民、公明との三党協議に巻き込まれた挙句、衆議院では民主党は年金法案に賛成したほどである。自民にとっては扱いやすい相手だった。
 一方の共産党は相変わらずの「唯我独尊」路線で、他党と同じテーブルに着こうとはしない。
 普通ならば野党共闘など、あり得ない話だった。

 しかし又市はあきらめなかった。止めなくてはならないことが多くあったのだ。
 平成16年6月、イラクに派遣されていた自衛隊が多国籍軍に編入された。サマワの宿営地に、たびたび迫撃砲弾やロケット砲弾が撃ち込まれ、派遣部隊の隊員は危険にさらされていた。10月にはイラク暫定政府がイラク全土に非常事態宣言を発令し、イラク全土が「戦闘地域」となっていた。翌11月には、日本人男性が惨殺されたが当時、小泉純一郎はアメリカの要求に従い、12月までとなっていたイラクへの派遣期間を1年間延長しようとしていた。

 民主党はこの間、態度を二転三転させていた。イラクからの撤退を主張したかと思えば、今は撤退する時期ではないと言い出す。ところが、すぐ後にまた即時撤退を要求するなど、支離滅裂な迷走を続けていた。民主党もまた政権を意識するあまり、アメリカの顔色を窺うようになっていたのだ。
 しかし世論は圧倒的に「撤退」を支持していた。又市は民主党にこう迫った。

 「イラク特措法そのものを廃止する法案を出すべきだ。世論を喚起するためにも共産も含め3党で廃止法案を出そうじゃないか。」

 イラク特措法では、派遣の基本計画の変更は国会にかける必要があるが、報告だけで良く、承認を得る必要はなかった。その特措法そのものを廃止してしまえば自衛隊のイラク派遣は根拠を失う。民主党は迷ったが、世論の「撤退」の声を逃がしたくなかった。
 一方で又市は、共産党へも働きかけた。共産党は民主党と一緒にやることを渋ったが、又市は逆にこう突き放した。

 「分かった。では2党だけでやってもいい。せいぜい取り残されないようにするがいい。」

 共産は痛いところを突かれた。共産と同じく、一貫してイラク派遣に反対してきた社民が、民主の態度も決めさせた。そこに乗り遅れれば、共産は取り残されてしまう。共産はあわてて追いすがり、仲間に入れてもらう形になった。

 ついに又市は、3野党による幹事長・国対委員長会談を実現させた。民主の川端、共産の市田、そして社民の又市らが一同に会し、イラク特措法の廃止法案を3党共同で提出することを発表した。さらに極めて異例なことに、この問題についての議論を避ける小泉内閣に対して、野党の側から臨時国会の会期延長を求めた。

 この動きに対して小泉は逃げまわった。
 野党が結束して法案まで出してきた。その法案に世論の大多数が賛成している。もう「自衛隊のいるところが非戦闘地域」などという詭弁は通用しなかった。
 小泉は、国会の会期延長を拒否し、野党の法案についても審議を拒み続けた。そして会期末を待って、ようやく派遣期間の延長を閣議決定した。臨時国会が終わってから翌年の通常国会までは約1ヵ月半。その間ひたすら逃げ、この話が風化するのを待って国会に報告しようという姑息な魂胆だった。
 
 又市征治が描き、奔走して実現させた野党共闘は、あの小泉をそこまで追い込んだのだ。
(敬称略)

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