政治家「又市征治」という男

元政治記者の私が最も興味を持った政治家、それが又市征治だった。その知られざる人物像に迫る。

平和への思い

2007年07月11日 | Weblog
 前にも書いたが、又市征治の幼少期は苦難と貧困の日々だった。又市の父は戦争中、軍のトラックによる事故で脚を奪われ、さらに翌年の空襲で家は焼失した。苦労を一身に背負い、必死で家族を支えてきた母は又市が7歳のときに病死した。又市の妻は長崎の原爆で父を亡くし、そのために幼くして二度、養女に出されている。

 「自分たちのような思いを、絶対に子どもや孫の世代に味わわせたくない。」

 又市はその一念で、長く護憲運動、平和運動に取り組んできた。憲法記念日によく見かける意見広告運動も、ずいぶん前から地元で、又市が中心となって地元で取り組んでいた運動が、各地に広がったものだという。
 国会議員となり、後に党幹事長になってからも、国会の内外を問わずこの運動に取り組んできたのは言うまでもない。ただし「護憲」「平和」を掲げるにしても並みの議員とは違うのが、又市征治という男である。

 又市は平成16年5月、社民党訪中団の団長として中国へ向かった。社民党と中国共産党とは長い付き合いであることは言うまでもないが、又市は「仲良しこよし」のために行った訳ではない。正に「主張する外交」のために行ったのだ。

 又市は憲法9条を守るためには、ただ「守れ」ではなく、周辺諸国との関係を良好なものにし、「攻められたらどうする」というような不安や、そう国民に思わせる条件を取り除くことが重要だと考えていた。
 社民党には以前から「北東アジア総合安全保障構想」というビジョンがある。平たく言えば、お互いに攻撃しないという約束を多国間で行い、あくまで話し合いでの問題解決を図るという内容である。
 又市はこの構想を「六者会合(六カ国協議)」に取り入れようと、議長国である中国に対し、またも直談判に及んだのである。

 応対したのは、中国共産党の外交政策を司る王家瑞、同党の最高幹部級の呉官正など、そうそうたる顔ぶれだった。
 もちろん、一労組役員だった時代に自民党幹事長に直談判に出るような又市である。相手が誰であろうと気後れはない。又市は自らの主張を堂々と述べ、3日がかりで交渉を重ねた。3日目、呉官正が次のように言った。

 「私たちは、あなたの主張を全面的に支持する。」

 又市は中国を説き伏せたのだ。

 翌17年8月末、六者会合の議長を務める武大偉が社民党本部を訪れ、こう言った。

 「今度の会合に6カ国の共同声明を出す予定だが、そのときに又市幹事長が言っておられた構想を実現するための項目を盛り込む予定だ。その報告と感謝を申し上げるために来た。」

 この日、武大偉が訪れたのは自民党と社民党だけ、他の政党は蚊帳の外だった。

 しかし武大偉が会いたがっていた又市はそのとき、総選挙の応援で地方を飛び回っていたため会談は実現しなかった。武大偉はそのことをとても残念がった。

 総選挙が終わった翌週、共同声明に次の項目が盛り込まれた。

 「六者は、北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束した。」
 「直接の当事者は、適当な話合いの場で、朝鮮半島における恒久的な平和体制について協議する。」
 「六者は、北東アジア地域における安全保障面の協力を促進するための方策について探求していくことに合意した。」

 この共同声明の「合意」は、あくまで「六者」である。又市は中国を説得しただけでなく、日本も韓国も北朝鮮もロシアも、そしてアメリカまでも動かしたのである。
 又市は、外交面でも卓抜した政治家なのだ。

 「憲法9条を守ろう」と言うだけの議員ならば、今も多くいるが、その主張は、緊張が残る東アジア地域では非現実的だという批判を受けることがある。
 又市は、その根本的な問題である「緊張」を緩和するために自ら他国と交渉し、その条件整備を進め、実効ある成果を挙げてきた。
 又市を見ていると「護憲」や「平和」は決して非現実的なものではないと思えてくるし、又市らの主張を批判する人々が、「緊張」という問題の解決を、初めからあきらめてしまっている、情けない存在に思えてくる。

 又市のような気概を持つ議員や外交官が増えれば、外交力で平和を維持することも決して困難ではないだろう。
(敬称略)

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