政治家「又市征治」という男

元政治記者の私が最も興味を持った政治家、それが又市征治だった。その知られざる人物像に迫る。

又市征治と野中広務

2007年06月30日 | Weblog
 平成12年、又市征治はまた自民党幹事長に直談判に行った。今度の相手は野中広務だった。
 もちろん、このとき又市は議員ではない。肩書きは連合富山会長代理、地方の一労組役員に過ぎなかった。

 又市は野中に、4年前と同じ言葉をぶつけた。

 「自民党公認の知事という時代ではない。自民党のためだけでなく、幅広い県民のために働くという姿勢を訴えるため無所属となり、幅広い支持を集めるべきではないか。」

 野中の反応は早かった。

 「その通りだ。」

 又市は、自分の考えを率直に、そして堂々と野中にぶつけた。野中はうなずきながら又市の話を聞いた。

 「又市さん、よく分かった。すぐに手を打とう。」

 野中は思いがけないほどあっけなく結論を出した。
 もともと野中は、町議・町長・府議・副知事などを歴任した苦労人で、地方自治には非常に通じていた。野中は、知事たる者が一党の利益のためだけに働くのは住民にとって不幸だ、という持論を持っていた。

 野中の行動は早かった。そのときの自民党富山県連の会長はすでに綿貫民輔ではなく、長勢甚遠に替わっていた。野中との格の違いは歴然だった。
 県連内部には「中沖知事が公認でないなら、別の公認候補を立てる」という強硬論もあったようだが、当の中沖本人が幅広く支持されたいという思いだったようである。

 こうして又市らは政策協定を結び、福祉予算の一定割合の確保、とりわけ高齢者や妊産婦、子どもたち、そして障がい者のための県独自の医療費の助成制度などを勝ち取っていった。

 こういう手法を「オール与党」と批判する政党もあるが、「オール・オア・ナッシング」ではなく、敵の懐に飛び込んでいき、一つでも二つでも目的を達成するという点は大いに評価できると思う。ただ、又市のように明確な目的や、しっかりとした「骨」や「柱」がなくては取り込まれる危険性がある。そこを勘違いして安易に自民党に与している政党、自民党に歩み寄りがちな大政党も、又市に学ぶべきであろう。

 何しろ、又市は「福祉拡充」という目的達成のために、ときの自民党幹事長に2度も直談判を行い、2度とも説き伏せたのだ。議員でもなく、金を積んだわけでもない一人の人間の執念が政治を動かしたのだ。
 
 それを受け入れた加藤や野中の懐の深さも大したものだが、自民党本部に乗り込んで彼らを突き動かした又市征治という男も大変なものである。
(敬称略)

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又市征治と加藤紘一

2007年06月29日 | Weblog
 平成8年、自民党公認だった知事を無所属にしようと、自民党本部に乗り込んだ又市征治あてに数日後、電話が入った。

 「又市さん、申し訳ない。」

 声の主は、当時の自民党幹事長、加藤紘一だった。
 加藤は加藤なりに又市の話を飲み込み、自民党県連に中沖知事の公認を外したいという意向を伝えていた。しかし自民党富山県連は、加藤の言うことに耳を貸さなかったのである。
 自民党内での幹事長の権限は絶大である。その幹事長の言うことを門前払いするというのは、通常ありえない話である。

 当時、自民党富山県連は綿貫民輔(現・国民新党代表)が会長を務めていた。綿貫は年齢面でも党幹事長としての経歴でも加藤の先輩だった。「知事の自民党公認を外すなど言語道断」と、「格上」の綿貫の言葉に、さすがの加藤もそれ以上何も言えなかったのだ。

 「又市さん、本当にすまない。」

 わざわざ直接電話をくれ、何度も謝る加藤に又市はかえって恐縮した。結果には悔しいが、加藤の真摯な姿勢には清々しいものがあった。
 又市は礼を述べた。

 「いや加藤さん、残念ですが仕方ありません。本当にいろいろとありがとうございました。」

 結局、中沖は自民党公認のまま県知事を続けることになった。
 しかし、又市の話には中沖自身も心を動かしていたようだ。中沖も、より多くの県民に支持されたかったし、県議会の第二勢力を維持してきた社会党・社民党、そして何より、又市征治という男を敵に回し続けることは避けたいと思ったに違いない。
 この話以後、中沖は連合富山の福祉政策の要求に耳を傾けるようになっていた。それでも、又市は納得も満足もしていなかった。

 4年後の平成12年、又市は再び自民党本部に乗り込むことになる。やはり又市は、あきらめていなかったのである。
(敬称略)

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福祉への執念

2007年06月28日 | Weblog
 平成8年当時、まだ地方の一労組の役員に過ぎない又市征治が、ときの自民党幹事長である加藤紘一に直談判に及んだ目的は、富山県知事・中沖豊の自民党公認を外させることにあった。
 又市は加藤に正論をぶつけた。

 「今どき自民党公認の知事など、全国でも2名だけだ。自民党のためだけでなく、幅広い県民のために働くという姿勢を訴えるため無所属となり、幅広い支持を集めるべきではないか。」

 加藤は「なるほど、それは確かにそうだ。それであなたはどうしたいのか。」

 又市は腹を割った。「連合富山として中沖氏の推薦を検討したい。」

 その言葉に驚く加藤に、又市はこう続けた。「ただし中沖氏には、我々と政策協定を結んでもらう。」

 これまで自民党公認知事の下で、県に対する福祉拡充の要求は跳ね返され続けてきた。
 又市はその県民福祉の向上のために、知事を無所属にし、自分たちも推薦しながら、政策協定を結び、こちら側の政策を知事にのませようとしたのだ。
 しかし自民党本部に乗り込むほどという、又市の福祉へのこだわりは並大抵のことではない。やはり戦時中、軍のトラックにはねられ、脚を失いながら、まともな補償すらなかった父・久治のことがあったのではないだろうか。

 久治は生前、自民党の党員だった。久治は、自分と同じように戦争中の負傷がもとで障がいを負った人々と互いに励ましあいながら、補償や支援策の拡充を求めて動いていた。そこで久治は、権力を持つ自民党に入り、そこで献身的に尽くしながら権力者に訴えていくことで、障がい者支援、国民に対する補償など福祉の拡充を求めようとした。しかしその方法は間違いだった。久治たちの訴えに自民党は極めて冷淡だった。自民党はもともと財界の利益や利権の代弁者に過ぎない。久治たちの力は弱すぎた。金も力もない久治らの訴えに、権力者たちは耳を貸すはずもなかった。

 又市は父のやり方とは違っていた。連合富山は当時約8万人、力もそれなりにある。自民党本部に乗り込んでくるほどの又市には、「これを蹴るようであれば、対立候補を出すことも辞さない」という気迫がみなぎっていた。保守王国である富山で選挙には自民が勝つだろうが、大義名分は「福祉拡充」を目ざす又市らの側にある。

 加藤は考えた末、「分かった。(自民党の)富山県連に話してみよう。」と又市に答えた。
(敬称略)

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自民党本部への「直談判」

2007年06月27日 | Weblog
 又市征治は、昭和62年に成立した「連合」(日本労働組合総連合会)でも活躍する。連合富山の副会長、会長代理、県連合総研理事長なども務めている。

 連合富山は、制度や政策に関する要求書を出していた。主に又市が起案していたその要求書には、県民への福祉制度の拡充が中心だったという。

 そのときの富山県知事は昭和55年から中沖豊という人物が務めていた。
 中沖は自民党公認の知事だった。県議会でも圧倒的多数を占める自民党議員を背景に、富山県は「自民の、自民による、自民のための政治」が行われていた。今でも、富山県は全有権者数に占める自民党員数の割合が全国トップという、超「保守王国」である。

 しかも、中沖と又市は県庁時代からの「仇敵」同士だった。
 中沖はもともと旧自治省の官僚だった。中沖の故郷でもある富山県に出向し、県の総務部長を務めた時期もあった。ところがその時期というのは、県職員の組合で又市が華々しく活躍していたときである。総務部長と組合側は激しく対立した。そのときの県側のトップが中沖であり、攻め手側の急先鋒が又市だった。

 それからしばらくして中沖が初めて知事選に立ったとき、中沖は「又市は、まだいるのか。」と何度も尋ねたと言う。中沖にとって、それほど又市という人物は印象的で手ごわい存在だったのである。

 その又市は、住民の福祉を軽視する自民党県政を正すため、中沖5選がかかる平成8年の知事選を前に、驚くべき行動に出る。

 その日、又市は平河町に立っていた。今から「直談判」を行うためである。
 又市は、自民党の本部に乗り込んだのだ。その「直談判」の相手は、当時の自民党幹事長、加藤紘一だった。
(敬称略)

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又市征治への人物評

2007年06月26日 | Weblog
 又市征治は、30歳で自治労富山県本部の書記長になってから、書記長を11年、副委員長を12年、委員長を5年務めている。こうして長い期間、労働組合の幹部を務めていると、いわゆる「労働貴族」になる人もいるという。では又市はどうか。

 又市が委員長を務めていたとき、ある対談の企画が持ちかけられた。又市の対談の相手は、政治記者から田中角栄元総理の秘書となった、政治評論家の早坂茂三だった。
 早坂は対談の後、又市という人物をこう評している。

 「労働組合の指導者と偉そうに言いながら初心を忘れ、労働貴族に成り上がったり…する連中をげんなりするほど見てきた僕だが、又市さんは一味も二味も違った。久しぶりに、すがすがしい男に会ったなあというのが素直な印象ですね。・・・富山県の労働運動で指折りの指導者である又市さんの原点は、はじめにイデオロギーありきではなく、仕事に密着した正義感だ。さらにいいところは55歳になっても胸の炎が燃え続けていることだね。みごとだなあ。」
(平成12年5月7日「富山新聞」)

 大絶賛である。

 早坂はこの対談の4年後にこの世を去っている。「政治家は『悪党』に限る」と著書も残している早坂だが、政治家としての「又市征治」をどう評価するか、もう一度対談してもらいたかった。

 蛇足だが、この対談を企画した富山新聞こそ、又市が小学生、中学生、高校時代を通じて配達していた新聞だ。もちろん新聞社の人々は、一配達員だった又市の過去など知るよしもなかっただろうが。
(敬称略)

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「望む」から「押し出す」へ

2007年06月25日 | Weblog
 自分の代わりに旅立った弟が言っていた「兄さんはここでやらなきゃいけないことがある。」という言葉。弟は、又市征治のやっていることが、社会にとってどれほど大切なものかを知っていた。

 又市は労働運動に全力を傾けたが、又市の運動はそれだけでは終わらなかった。

 労働運動は仲間である組合員を守るため、そして組合員の生活を守るためにある。そのためには政治闘争も必要だと考えた又市は、多くの議員を支えることにも力を注いだ。
 議会が自民党議員で埋めつくされるような自治体では、公然と「労働組合潰し」を言い出す者も現れる。組合がなければ、誰かが攻撃されたときに組合員を守ることができなくなる。議会の中でその緩衝剤の役割を担う議員が必要だった。

 また、例えばの話だが、給料が2%上がったとしても、税や保険料などが5%負担増になったのでは、結局は生活水準を下げなければならない。このような税や国民負担の制度を決めるのは国会である。負担増を止めようとする国会議員も送り出さなければならない。

 又市は22歳のとき、新聞に「国民の大多数は労働者だから、やはり労働者の生活を守ってくれる人、福祉に取り組んでくれる人を望む。」と書いたが、この頃には「望む」だけではなく「押し出す」ことに全力を傾けていったのである。

 組合員とその家族、その生活を守るためだけではない。又市の闘いは全て「国民の大多数である労働者」を守るためのものだった。
(敬称略)

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兄の急死、弟の反抗

2007年06月24日 | Weblog
 又市征治が、労働運動に腕をふるい始めていた頃、突然の悲報が飛び込む。兄の急死の知らせだった。
 兄、久義は戦後まもなく、暮らしを助けるために旧制中学を中退し、脚を失った父に代わって、群馬県高崎市で売薬業を続けてきた。富山を後にしてから30年近く、働き詰めの毎日だった久義が妻と2人の子を残してこの世を去ったのは、まだ42歳のときだった。

 高崎には残された兄の家族がある。売薬の仕事もある。誰かが彼らを支え、仕事を担わなければならなかった。又市はいったん群馬行きを決意する。しかし、それは県庁を辞め、組合の活動も辞めることを意味していた。

 そのとき、5歳下の弟がこう言い出した。

 「俺が行くよ。」

 母の死から24年間、当時まだ2歳だった弟を、かばい続け、守り続けてきたのが又市だった。

 話は逸れるが、又市が7歳のとき実の母親が亡くなり、その姉が又市家に来るまで、別の継母がいた時期があった。
 その継母はキセルで煙草をふかしながら、子どもらに仕事を押し付けるような人だった。父は障がい者の自分のところに来てくれた継母に負い目を感じていたのか何も言えなかったという。
 継母は、4歳の幼い弟にも用を言いつけ、失敗したときは容赦なく青竹で殴りつけた。
 又市は泣き叫ぶ弟のそばに駆け寄り、弟を抱き抱えて継母に背を向け、振り下ろされる青竹を背中で受け続けた。「親に逆らうか!」と逆上し、さらに殴りつける継母に、当時わずか9歳の又市も黙っていられない。「お前なんか親じゃない!出て行け!」と何度も叫んだ。それでも容赦なく振り下ろされる青竹に、二人の背中にはミミズ腫れが絶えなかった。「虐待」以外の何者でもなかった。
 そのうち継母はさんざん文句を言いながら、自分の都合で勝手に家を出て行ったという。

 話を戻すが、幼い頃の意識というものはなかなか変わるものではない。又市にとって弟は、いくつになっても守るべき存在だった。しかし弟は弟で、本当はかなりの豪傑だった。又市と同じく、中学で生徒会長、高校では応援団長を勤める。しかも空手と柔道の有段者であり、例えて言うならば武蔵棒弁慶のような人物である。
 それでも又市は許さなかった。「俺が行くよ。」と言われて「そうか。よろしく。」とは言えなかった。見知らぬ土地での苦労を、弟に背負わせたくなかったのである。長兄の苦労を見てきた次兄の責任として、弟に苦労を譲るわけにはいかなかった。

 「仕事もだが、兄貴の家族も支えなきゃならないんだぞ。お前には無理だ。」

 しかし、これまで兄たちに逆らったことのなかった、明るくにこやかな弟が、このときだけは頑固なまでに反抗した。
 
 「俺に任せてくれ。兄さんはここでやらなきゃいけないことがあるんだ。兄さんはここで必要な人間なんだ。俺に行かせてくれ。・・・今度だけは絶対に譲らない。」

 又市は、弟の初めての反抗に驚いた。そして、ありがたかい申し出には違いなかった。
 だが、お互いに頑固である。「駄目だ。俺が行く。」「いや駄目だ、俺に行かせてくれ。」押し問答の繰り返しだった。それでも次第に又市は、兄の遺族や自分のことを気遣ってくれる弟の思いの強さを感じ、言葉少なにこう言った。

 「分かった。・・・頼む。・・・すまん。」

 弟はいつもの屈託のない笑顔を見せながら、富山を後にしたという。
(敬称略)

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1万人集会

2007年06月23日 | Weblog
 30歳で自治労富山県本部の書記長に就任した又市征治には、一つの計画があった。
 又市は「1万人集会」をやろうと言い出した。富山県庁の前に、県内全域から組合員1万人を集めようと考えていたのだ。

 これは決して突飛な思いつきなどではなかった。
 警察の介入による弾圧、不当逮捕などを経験し、跳ね返してきた又市だったが、県側の圧力を前に誰も証言台に立とうとしなかったことを見ても、やはり一人ひとりの人間には弱さがあることを痛感していた。
 一人一人の強さには限界がある。だからこそ団結を固めなければならないと又市は確信していた。

 組合員の誰かに対して、もし不当な行為が行われれば、これだけの人間が一緒に立ち上がるのだということを組合員に伝えたかった。そして、相手にもそれが伝われば、不当な行為を未然に防ぐことできる。結果として組合員を守ることにつながるはずである。
 
 最初は又市の発案を誰もが無理だと言った。1万人を集めることがどれほど困難か、そんなことは言われなくても分かっていた。それでも又市は主張を曲げなかった。

 「無理かどうかはやってみなければ分からないし、それを達成するだけの組織と運動を作らなければ、本当に仲間を守ることはできない。」

 又市は全県をまわって集会の意義を訴え、粘り強く話し合った。何度も何度も話し合った。
 その行動と熱意に、周囲の雰囲気も少しずつ変わっていった。

 集会当日、富山県庁前の公園は、続々と集まってきた1万人の組合員で埋めつくされた。
 県の上層部はもちろん各市町村長たちも度肝を抜かれ、組合員もまたその数の多さに驚いたという。それだけの仲間の存在を知った一人ひとりが、どれほど心強く思っただろうか。集会は大成功だった。
 この1万人集会は会場を体育館に移しながらも、30年以上経つ今も続けられている。
(敬称略)

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励ましてくれた仲間

2007年06月22日 | Weblog
 「でっち上げ」による逮捕という憂き目に遭った又市征治だったが、厳しい取調べにも又市ら3名は折れなかった。事実無根、やっていないものはやっていない、ただそれだけだった。

 取調べが終わり留置場に戻ると、外から聞きなれた労働歌が聞こえてきたという。3名を励まそうと、組合の仲間たちが外で歌ってくれたのだった。
 自分たちを心配し励ましてくれる仲間の存在は、どれほど又市らの心の支えになっただろうか。

 やがて裁判となり、又市らは当然、無実を主張した。ところが又市が庁内にいたことを証言してくれる人間はなかなか現れなかった。でっち上げの張本人である県の上層部は、最大の標的である又市を抑え込むため、他の職員に圧力をかけていたのである。

 それでも、ようやく一人の先輩が証言を申し出てくれた。県側に逆らって証言に立つということは出世コースから外れることを意味していた。それでも先輩は勇気を出して証言台に立ってくれたのだ。

 又市らはその後、無罪判決を勝ち取る。写真はその勝利集会のときのものだ。
 富山県警は、教育長らの話やそのときの状況などから判断し、この逮捕には無理があるということを知りながら、県から何度も頼み込まれてしぶしぶ又市らを逮捕したという経緯まで語った。

 この無責任で心ない冤罪の証明には、4年もの歳月が費やされた。
 虚しさを感じることもあっただろうが、又市はひるまなかった。この怒りをばねに以前にも増して敢然と活動を続けていった。

 又市には、自分たちを信じて励まし続けてくれた仲間への感謝の気持ちと、一人ひとりへの攻撃は仲間全体に対する攻撃であるとの思いから、こうした攻撃を他の仲間たちに味わわせないためにも、もっと強い組織と運動を作ろうと動き出していたのだ。

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でっち上げ

2007年06月21日 | Weblog
 昭和40年代、富山県をはじめ多くの自治体では、主事補・技師補など学歴による差別的な制度があった。又市征治がこのことに大変な不満を抱いていたのは先にも述べたが、こうした制度の撤廃を求める運動に又市は熱心に取り組んだ。知事室前での座り込みさえ、又市は何度も行ったという。
 3年がかりの運動の末、富山県はついにこの制度の撤廃を決める。この富山県での闘いは、同じような制度を抱えていた都道府県に次々と波及していった。

 もともと頭は切れるし弁も立つ又市は、県庁内でも目立つ存在だった。
 その上、仕事も人一倍こなしながら、エリートコースを棒にふって処分を受け続け、それでも快活で闘志あふれる運動を展開し、着実に成果をあげていった又市は注目の存在だった。もちろん組合員にとっては頼もしい存在だっただろうが、県の上層部にしてみれば、この男ほど目障りな存在はなかった。

 ある時期、組合は教育長らに交渉を求めた。しかし教育長らは逃げまわって交渉に応じない。ある日、教育長らの居場所を知った青年部2名はそこへ行き、会わせてほしいと言って交渉に応じてくれと言った。教育長らは場所を移したいと申し出て、車に同乗して移動した。

 本来ならば、何のことはない話であった。

 ところが、教育長らは警察に告発した。「又市ら3名が不当に建造物に侵入し、私たちに暴力をふるい、無理やり車に押し込めて私たちは連れ去られた」と言い出したのである。
 しかし現場に行ったのは2名だけで、そこに又市はいなかった。その時間帯、又市は県庁の中で仕事をしていたのだ。「でっち上げ」である。
 県の上層部が、又市ら若くて目立つ組合員に目をつけ、彼らを叩くことによって組合を黙らせようと謀ったのだ。又市征治、27歳のときだった。

 ある日の早朝、又市家に警官が訪れた。その手には逮捕状があった。
 又市は、逮捕状をひとしきり読むとそれを破り捨てた。急ごしらえの逮捕状は間違いだらけだったのだ。又市はその間違いを指摘し、警官にこう告げたという。

 「出直して来い。俺は逃げも隠れもしない。ここで待っている。」

 この逮捕劇について言えば、県の上層部は入念だった。又市らの逮捕を、新聞やテレビ、ラジオに宣伝してまわったのだ。当時この記事は比較的大きく取り上げられたという。

 常道から言って、権力による弾圧は、まず相手の社会的な立場を奪うところから始める。
 悲しむべきは、正義と真実に迫り、権力を監視するという本来の任務を忘れ、表面的に与えられた情報を鵜呑みにし、結果としてその謀略の片棒を担ぐマスメディアが今なお存在するということである。

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