雅藍(がお)っぽさまるだし2。

芝居やゲームやWWEや映画やライブを糧に人生を何とか過ごしてる、そんな雅藍(がお)さんの日々をまるだし。

ことばを恐れることなく、向き合うことについて。

2007年08月08日 | それでもナントカ生きてます(日記)
ジェニー・ホルツァーという現代アーティストを知ってますか?

日本では馴染みが薄いアーティストではあるのですが、
10数年前の「再生YMO」唯一のアルバムとなった「テクノドン」で、
ジャケット等に書かれた意味深なテキストの元ネタが、
この人の引用なので、テキスト自体を見たことがある人はいるかもしれません。

彼女自身が書き上げた、時に格言的な一文だったり、
あるいは扇動するような過激な文章だったり、
そんな数々の言葉を、街中にある電光掲示板やレシート、
日常よく見かける場所に提示することで、我々にテキストが持つ本当の意味と、
テキスト自体の持つ力を静かにぶつけてくる、
ある意味非常にセンシティブな扇動者が、このジェニー・ホルツァーです。

当時大学生だった私は、この「テクノドン」に書かれていたテキストに
なんともいえない衝撃を受けて、元ネタを探してたどり着いたのがこの人を
解説した「ことばの森で」という本でした。


昨日、本棚に10年間眠っていたこの「ことばの森で」を引っ張り出して、
再び「ことば」というものが持つ意味を考え始めてしまいました。


「ことば」は勿論、それ自体にも個々の意味を持つわけですが、
そのことばが「発した」環境や状況によって、その意味は一気に、
それこそ無限といってもおかしくないくらいの多様性を持ち始めます。
「ことば」はまさに「個」であり「集」なのではないでしょうか。

例えば普通にニュースやタウン情報等が流れる電光掲示板が、
「PROTECT ME FROM WHAT I WANT(私の欲望から私を守ってください)」
というメッセージを流したら、アナタはどのように反応するでしょうか?

そして例えば、同じメッセージが家の壁に書かれていたときと、
電光掲示板で流れたときとで、そのメッセージを同じ感覚で受け止めている
でしょうか?


ホルツァーは電光掲示板という「メディア」を好んで用います。
電光掲示板という、情報を得るには便利な反面、半ば強制的にテキストを
「掲示板が目に付いた」人に刷り込みやすいメディアを使うことで、
ことばの持つ力強さと恐怖を表現しているようです。

非常に計算された「美しさ」とともに。

そこには書き「ことば」の力が、見事に表現されています。


残念ながら私は直接彼女の作品に触れたことはありません。
昨年東京で彼女の個展が開かれていたそうですが、
彼女のテキストを思い出したのが昨日で、調べて見つけたのが今日ですから、
勿論見ることは叶いませんでした。

元々遅筆家でもあるようで、最近はコレといった特徴的な作品は
発表していないようですが、
ひょっとしたらそれはコンピュータメディア、
あるいはインターネットメディアの急速な進化に対して、
彼女自身の表現を練り直している最中なのではないかと、
そんな風に思えるのです。

この10年で「表現する場所」は飛躍的に増えました。
そしてその分、
「ことば」自体の力は分散されてしまいやすくなっているようです。

簡単な「ことば」が受け入れられ、消費されて、あっという間に捨てられる。
その一連の流れが近年ますます速くなっているようです。

本当に伝えたい「ことば」が上手く伝えられない、
そんな時代になりつつあるかもしれません。


今一度、「ことば」を放つということを考えないと、
人はいけない時期にたどり着いてるのでしょう。
でなければ、人は退化していくはずです。きっと。


ホントはみんな怖いんです。
「ことばは想いに足りない」のを、判っているはずなのですから。


そういえば一時期書いていた「話し言葉」と「書きことば」に関する記述、
そろそろ再開させないといけませんね。
もう少々お待ちを。

【本日飯の記録】
昼:日比谷のフレッシュネスバーガーで日替わりバーガーのランチコンボ。
  銀座に「モスバーガー」がなくなって早数年、
  ようやく「まともに食べれるハンバーガー」屋を見つけました。
  意外に近い場所で。
夜:和光のとんかつ、サラダ、カボチャのバターソテー、鮎の塩焼き。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする