気ままなピークハンターズの山旅

日本百名山の頂と風景や国内旅行を中心とした絶景を掲載致します

晩秋の『あゝ野麦峠』

2022-11-10 10:09:00 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は岐阜県高山市と長野県松本市の県境にある野麦峠を
掲載してみたいと思います

晩秋の野麦峠
野麦峠(のむぎとうげ)は、岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、
飛騨国と信濃国を結ぶ鎌倉街道・江戸街道と呼ばれる街道の峠
乗鞍岳と鎌ヶ峰の間にあり、標高1,672 mの地点にある
長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線が通っている
1968年に発表された山本茂実『あゝ野麦峠』の舞台でもある

旧野麦街道 わさび沢付近の紅葉

わさび沢 旧野麦街道から野麦峠入口

旧野麦街道案内板

旧野麦街道 わさび沢付近の紅葉

野麦峠付近車道のカラマツ紅葉

野麦峠にある道標

晩秋の野麦峠と冠雪の乗鞍岳
古来から野麦街道最大の難所として知られ、
能登で取れたブリを飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋であった
野麦峠には、日本最高所の水準点がおかれている
北に乗鞍岳、南に御嶽山が望まれ景観が素晴らしい
峠の名は、峠に群生する隈笹が10年に一度、
麦の穂に似た実を付けることがあり、
土地の人に「野麦」と呼ばれていたことによる
凶作の時にはこの実を採って団子にし、
飢えをしのいだまた小説によれば、
就労先で妊娠し、厳しい峠越えの最中に
胎児を流産する工女も少なくなかった
故に野産み峠となり、野麦峠となった、とある
奈良時代に信濃国と飛騨国を結ぶ官道として開かれたといわれている



工女泣きし野麦峠やと書かれた石碑



晩秋の野麦峠より望む冠雪の北アルプス乗鞍岳

政井みね(右)と政井辰次郎(左)の像
『あゝ飛騨が見える』と言い残して死亡した政井みね

飛騨を一目見たかったみねの死を記した石碑
政井みねと政井辰次郎の像の裏に記されている

野麦峠資料館(現在閉館)より望む冠雪の北アルプス乗鞍岳

旧野麦街道
江戸時代に高山が天領となってからは代官が往来に利用したほか、
越中富山の薬売りが各地に出向く際にも利用された しかし、
峠道は厳しく、幕府は願い出を受けて天保の頃に頂上に
「お助け小屋」を設置した
明治の初めから大正にかけては、当時の主力輸出産業であった生糸工業で
発展していた諏訪地方の岡谷へ、現金収入の乏しい飛騨の村々の女性(
多くは10代の少女)が女工として出稼ぎのためにこの峠を越えた
この史実は、1968年に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)の
ノンフィクション『あゝ野麦峠』で全国的に有名になった

晩秋の野麦峠から望む冠雪の乗鞍岳

野麦峠から飛騨高山方面を眺める
1997年(平成9年)には乗鞍岳の北を越える安房峠
(国道158号)に安房トンネル(中部縦貫自動車道の一部)が開通した
また木曽方面へも鎌ヶ峰の南の長峰峠(国道361号)が主要道路となったため、
野麦峠は観光道路としての往来が主になっている

野麦峠から長野県松本方面を眺める


最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 晩秋の遠山郷下栗の里を訪ね... | トップ | 晩秋の長峰峠を越えて開田高原へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

登山に通った峠道」カテゴリの最新記事