この懐かしき本たちよ!

まだ私の手元に残っている懐かしい本とそれにまつわるいろいろな思い出、その他、とりとめのない思いを書き綴りたい。

#119 トルストイ著「少年時代」

2005年06月15日 | ロシア文学
この本は確かに私の「懐かしい本」の一冊だ。「幼年時代」、「青年時代」も同じ懐かしい本なのだが、私が学生時代に買ったこの3冊の本で何故か唯一この「少年時代」だけが残っている。原久一郎氏の訳の新潮文庫である。

1955年3月25日に大学の生協書籍部で買ったと記されている。この日付には私はまだ正式には大学生にはなっていない。しかし合格発表の後であるのは確かだ。大分前にこのブログで書いた内村鑑三の「キリスト教問答」がこの年の4月19日、ヘッセの「青春は美し」が6月14日に同じ場所で購入したとあるのに較べると或いは、生協の組合員として買った初めての本かもしれない。いや、まだ手続きは終わっていないので組合員ではなかったかも知れない。何故この時に買ったのが、「幼年時代」や「青年時代」ではなく「少年時代」だったのかなのかと今考えている。思い出せない。

Comme il faut (かくあるべき)というのが、トルストイの青少年時代のモットーだったことがある(しかし後に彼はこの考えは間違いだと感ずる)というのはよく記憶しており、自分も共感していたのだが、それが「少年時代」の中だったのか「青年時代」の中だったのかはっきりしていなかったが、今この「少年時代」を読み返しているとその中にない。ということは、Comme il fautは「青年時代」の中に書いてあったことなのだろう。

私は、新潮文庫の「少年時代」をもう1冊持っていることに気づいた。原卓也氏の訳によるものだ。「幼年時代」と「青年時代」と同時にその後買ったものである。学生時代に買ったものは、もう私の本棚からはなくなっていると思っていた。そして、この懐かしい本をもう一度読もうと買ってそのままになっていたものである。

「少年時代」より「幼年時代」の方がみずみずしく感ずるのだが、「少年時代」の興味深いのは、人間が自分に目覚めて行くのはどのようにしてなのかがよく描かれていることだ。自分と自分以外の人との関係というのに自覚し始める。

「少年時代」の主人公は人を観察し分析する「矯正すべき」癖があると自覚している。これを読んで私も苦笑している。私もこの癖を持っているかも知れない。人を、特に自分に感銘を与える人を観察しそして知らぬうちにいろいろと分析しているようだ。私は人間というものに良い意味で強い関心を持っている。「少年時代」の主人公はまさにそのとおりだと思う。

こう書いてある。
「総じて私は、徐々に少年時代の欠点を矯正して行った。但し一番主な欠点だけは例外でこの欠点は私の生涯に、まだまだ多くの害毒を与える運命を持っていた。――― この主要な欠点はほかでもない、知的解剖癖がそれである。」

 私は、これは逆説的な言い方だと思いながら読んでいる。

 「兄に客があると兄の部屋に座り込んで、皆のすることを黙々と観察するのが好きだった。」

 そして、ネフリユードフという尊敬する友人を得る。

私は、大学に入った直後のクラスのコンパでのクラスメートの自己紹介の内容をほとんど全て記憶していたので友人達に驚かれたことがある。一人一人の話が実に興味深かった。それぞれの友人の話に特徴があり、話し方も上手だったからでもあろう。

このトルストイの「青年時代」ではなく「少年時代」を、その時期に買った経緯がどうだったのかを今思い出そうとしている。やっと受験勉強が終わって思い切り読書にふけろうと思っていたはずの私が最初に買った本としては、どうも地味すぎるような気がして仕方がない。

*画像:トルストイ著「少年時代」左 原久一郎訳  昭和27年(1952年)初版 
同29年6月3刷 全146ページ 定価60円 
右 原卓也訳 昭和48年(1973年)初版 同59年11月(1984年)19刷      全164ページ 定価240円 
     いずれも新潮文庫

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