この懐かしき本たちよ!

まだ私の手元に残っている懐かしい本とそれにまつわるいろいろな思い出、その他、とりとめのない思いを書き綴りたい。

#51「 出淵博のこと」Ⅰ(逝きし友)

2005年04月05日 | 随想

出淵博をこのブログで私がどういう風に呼ぶべきかについてかなり考えた。結局、出淵博もしくは出淵と書くことにした。これは私が例えば文豪志賀直哉のことを書くときには志賀直哉もしくは志賀と書くのと同じことである。呼びつけにしているわけではない。

私が学生時代からの友人だからと言って、彼を出淵君と書くのはおこがましいというものだ。二人の間では、彼は私のことを佐藤君と呼んでくれていたし私も出淵君という呼び方以外では呼んだことはない。しかしそれは二人の間で呼び合うときのことだ。

今私は、著名人としての出淵博のことを書こうとしている。すでに彼のことを知っている人がこのブログを読んでくれるという可能性も意識しながら書くとすれば、出淵君などと書くのは不遜というものだろう。

出淵博著作集の第2巻には出淵博の年譜ものっている。

1935年に生まれてから1999年に没するまでの彼の生涯は本当に好きな英文学に浸りきった幸せな充実した人生であったと思う。文学といっても学問としての文学に力点がおかれていたのであるが。

勿論、大学教授の仕事としては学問だけでなく管理という別な仕事に時間をとられることはあったと思うが、それでも対象は若々しい学生達の管理の問題なのであるから、彼としてはやりがいのある仕事であったことであろう。

いつか電話で話しをしたときに、大学の教養学部の教授としての仕事で私達の学生時代には第6委員会といわれて耳慣れていた委員会(この委員会は昔は学生運動への対応で忙しかった)の委員もしていて結構いろいろあるんだと笑って話をしていたことがあったが、それぞれの仕事で彼らしく学生のためになるように誠心誠意仕事をしたことであろう。

この本の中の年譜で編者は彼を「大学ではデモによく参加し、終生断固たる左派であった。」と書いてあるがこれは事実と違う。しかし何故編者がこう書いているのかは解るような気がする。

彼は常に穏健派であり、学生運動家に無責任に同調することは全くなかった。左派ではなくまさに中道派であった。彼は何よりも学問に関心のある学生であった。しかし単に学生運動を批判する学生や無関心な学生とは違い、自ら何らかの立場で社会に関ることが個々人にとって必要であるという信念を持ち、デモにもときどき参加した。

彼の同僚や後輩の教官が彼を「断固たる左派」だと見ていたとすれば、きっと彼が委員会などで彼の信念にもとづき学生を弁護することがよくあったのであろう。

年譜にはまた「(教官として)昭和45年(1970年)の大学紛争では、文化を破壊するという理由で、全共闘には反対の立場をとった。」とあるがその通りだろう。

NHKを退社して大学院に戻った彼はやがて同じ大学院で一緒に学んでいたきりりとした美人で才媛のT子さんをかちえて新家庭を持ち、T子夫人も子供を育てながら大学で教鞭をとるおしどり夫婦の生活を送ることになる。

幸せな生涯だったと思う。

前回(#50)借用した出淵博著作集2の中の彼の53歳のときの写真は私なども嬉しくなるような本当に学生時代そのままのすがすがしい顔だ。

彼の学生時代の写真を探そうと思っていたら、ひょいと1枚の写真が出てきた。私の方が大きく写っていて気がひけるのだが、整理のよくない私にはあとすぐに探し出す自信がない。とりあえず載せておこう。

これは昭和33年に学生寮の同室のもの3人で3月の休みに伊豆の宇佐美にある大学の寮に泊り、次の日に伊東から大島行きの船に乗っていた船上で同行の寮友が撮ってくれたものだ。
このときは出淵も私も22歳であった。懐かしい写真だ。(後ろに写っているのが出淵博。前に写っているのは筆者)      (つづく)

 

 


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