智恵子抄の偽善 その2

2008-12-07 23:25:01 | Weblog
 「百年の誤読」(岡野宏文、豊崎由美著 ちくま文庫)に
よると、高村光太郎の妻智恵子さんは統合失調を発症し
入院したわけなんだが、光太郎さん、見舞いに行ったこと
が数回しかなかったという。ウィキで調べてみると入院期
間は3年にも渡っているのに。3年の間に数回って、もし
本当なら少しひどすぎるのではなかろうか。智恵子さんの
死因は当時不治の病とされた結核であり、結核患者に近
寄りたくなかったという、極めて人間的な動機だったのか
もしれないが。

 脂ハゲはとても俗な人間であり、高村光太郎のような高
邁な理想を掲げた芸術家とは生まれからして肌が合わない
のかもしれないが、それでもどうもなんかこの。「口語自由
詩の完成」として世に喧伝される「道程」にしろ、「ああ 自然
よ 父よ。 僕を 一人立ちさせた 広大な父よ。 僕から目を離
さないで 守る事をせよ」という一節を読み、「父からの守りを
要求するなんて一人立ちした人間のすることじゃないじゃん」
というツッコミいれてたのが小学校時代のわたしだ。結局は
なんか詰めが甘いのだこのシトは。

 「ぼろぼろな駝鳥」にしろ、あの独善性はなんなのか。「な
にが面白くて駝鳥を飼うのだ」というこの詩人の目には、駝
鳥を見て喜んでいる子供の姿が見えていない。駝鳥のほう
だって、自由と引き換えに生命の保証をされた現況を、真か
ら嫌がっているかどうかなどわかるはずもない。だいたい、
高村光太郎は野生の、自然な姿の駝鳥を見たことなどなか
ったのではないか。万一、勝手に脳内に理想的な野生の駝
鳥のイメージを作り上げ、それが目の前にいる動物園の駝鳥
と差異があるからといって怒っているとしたなら、それはもう
芸術家でも詩人でもない。単なるクレーマーである。

 詩人、彫刻家としての名声は言わずもがなのひとだが、こ
ういう「思い込んだら一本道」のひととは、あまり近づきたくな
いというのが本音である。氏が戦争賛美の詩を書いて、それ
を懺悔して田舎にこもったというのは割りと有名な話であるが、
「飯を食うため戦争賛美する」というのは弱き者の代表たる芸
術家としてそんなに罪に思うことでもあるまい。が、それまで
の作風が作風だ。他人を上から目線でしか捉えられない、プ
ライドが山より高きアーチストが、「自己正当化のために下司
な他人との交わりを絶つ」という行動。それ自体が他人の目を
意識したパフォーマンスに思えて仕方がない。脂ハゲの性根
が腐ってる証拠なのかもしれないが。

 少なくとも「智恵子抄」は、世に思われているような芸術家と
その妻の生と死を描いた純愛詩集などでは断じてない。妻の
智恵子さん自身がもともとが画家であり、結構多くの人間から
評価されていたなんてことは描かれていない。実家は裕福な
造り酒屋で、当時の女性としては最高の学歴である日本女子
大学校卒である、ということも黙殺されている。なぜか。それら
は光太郎さんの理想の妻としてのイメージからはずれていたか
らだと思う。

 「百年の誤読」の豊崎氏は「金」という詩を引用して言う。「『智
恵子よ。夕方の台所が如何に淋しからうとも、石炭は焚かうね』
 てめぇで焚け!」。これについて光太郎について好意的な解釈
をしていたブログがあったが、うなずけない。「石炭を焚こうね」で
なくて「石炭は焚こうね」なのだ。要するに、「さまざまな不満があ
るけれども、最低限石炭は焚こう」ということを智恵子さんに言っ
てるわけで、「お前の稼ぎがちゃんとしてれば石炭でも石油でも
なんでも焚いてやるよ」などと、下町のおかみさんライクに智恵子
さんが言い返せないのをわかったうえでこういう詩を書いているの
である。なんというか。

 やはり脂ハゲと体育会系は合わない。あいも変わらずヘナヘナ
な結論であるな。