店の人に教えてもらい覗きました。ここは第二次世界大戦の際に
当時の町内会長が那覇市長の指示で壺屋の住民に命じて掘られた
防空壕である。昭和19年の10月9日に完成(空襲は10月10日)多くの
壺屋の住民が避難し助かった。
残念ながら、壕の中に入ることはできず(崩壊もある?)当時の面影を
見ることはできない。
壺屋から牧志(まきし)に至る坂の通称。この坂に天ぷら屋が建ち並び、その名が付いた。
かつてこの一帯は、「一松尾(ティーツチマーチュー)」・「二松尾(ターツチマーチュー)」と呼ばれる丘陵で、丘には墓が点在し、前の坂道は「ガマヌ下(シチャ)」と呼ばれた。
1944年(昭和19)9月、壺屋(つぼや)町内会が丘に防空壕を掘り、10月9日に完成した。翌日、米軍の空襲(10・10空襲)があり、1,000人余が避難し助かったという。
1945年(昭和20)11月に、壺屋・牧志一帯が開放されて以降、那覇の人口が増加するとともに、坂に沿って、壕を利用した天ぷら屋が建ち、人々に食を供し、いつしか通りの通称となった。
1945年(昭和20)の沖縄戦直後は、天ぷら油は米軍からの「戦果(せんか)」(盗品)のモービル油(機械用潤滑油)が使われたという。黒煙が立ち上り、独特な嗅いで、お腹を下す人もいたというが、食糧不足の時代、天ぷらはご馳走として喜ばれたという。
1994年(平成6)に着手された牧志・壺屋西線の道路工事に伴い、丘も坂も多くが削られた。