6月3日
読書譚~その5
「茶の本」岡倉天心著:桶谷秀昭訳、講談社学術文庫、1994.8. 並びに、大久保喬樹訳、NHK100分de名著テキスト、2015.1.
読書譚~その4「「縮み」志向の日本人」には、茶室に代表される「座の文化」が日本文化の特色であると述べられています。確かに茶道や連歌などは日本独自のもののようです。そこで、天心が英語で書いたこの本の日本語訳を読みました。併せて「NHK100分de名著」のテキストを読み直しました。
章建ては「人情の碗」「茶の流派」「道教と禅道」「茶室」「芸術鑑賞」「花」「茶の宗匠たち」の七章、約百ページと短かい本なので一気に読み通せます。
「人情の碗」:冒頭近くに「茶道(Teaism)は、雑然とした日々の暮らしの中に見を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀式である。そこから人は純粋と調和、互いに相手を思い遣る慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。茶道の本質は、不完全ということの崇拝―物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなしとげようとする心やさしい試みが茶道なのである。」と定義した上で、「現代世界は我欲と俗悪の闇の中を手さぐりで歩いている。知識はやましさの意識によって得られ、博愛は功利のためにおこなわれる。東と西は狂乱の海に翻弄される二匹の竜のごとく、生命の宝玉を取り戻そうとむなしくあがいている。」という現状認識に立って、「一服のお茶をすすろうではないか。・・・おろかしいこと(beautiful foolishness)への想いに耽ろうではないか」と茶の効用を主張している。
「茶の流派」:茶の歴史が語られています。中国で4,5世紀に始まった喫茶の文化は唐代宋代の変遷、発展を経て鎌倉時代の禅僧により日本に本格的に紹介され、室町時代に完成されその後のさまざまな芸術文化に影響を与えたとしています。唐代の詩人、陸羽の著作「茶経」や宋代の王兎偁の「その微妙な苦味はよき忠言のあと味を思い出させる。」などの言葉も併せて紹介し、日本は1281年の蒙古襲来を防げたので、宋の文化運動を継続することができたとしています。
「道教と禅道」:茶との結びつきが語られています。天心の文章は詩のように淀みなく流れ、「道教は、その正当な後継者禅道と同じように南方中国の個人主義的傾向を表していて、儒教の姿で現れている北方中国と対照的である。・・・一方の美術と詩は他方のそれとはまったくことなった雰囲気を呼吸している。」「「虚」は見る者を誘い、彼の美的情緒を十二分に満たすためにそこにある。」等の表現で記述されています。
「茶室」:「完全そのものよりも完全を求める過程に重きを置いた。真の美は、不完全を心の中で完全なものにする人だけが発見することができる。人生と芸術の力強さは、伸びようとする可能性の中にある。茶室では、全体の効果を自分とのかかわりの中で完全なものにすることが、客めいめいの想像力にゆだねられている。」などと述べています
「芸術鑑賞」:「芸術鑑賞に必要な、共感による心の交流は、互いに譲り合う精神にもとづかなければならない。芸術家が伝言を伝える方法を知らなければならないように、鑑賞者は、伝言を受け取る正しい態度を培わねばならない。」「共感の能力がある人にとって、傑作は生きた現実になり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。」などの記述があります。
「花」:「茶人は、花を得心がいくように活けおわると、それを日本の部屋の上 にあたる、床の間に置く。花の美を妨げるようなものは一切、その近くに置かない。客や弟子たちは部屋に入ると、主人に挨拶するまえに、花に向かって深々と頭をさげて敬礼する。・・・花がしおれると、宗匠は心を込めてそれを川に流すか、注意深く地中に埋める。」と解説しています。
「茶の宗匠たち」:「茶室でおこなわれている高度の風雅によって、その日常生活を律しようと努めた。・・・美しいものとともに生きた人だけが美しく死ぬことができる。」として「利休の最後の茶の湯」について紹介しています。
【感想】天心の「自己中心的な虚栄というものは、芸術家、鑑賞者いずれの側にあっても、共感を育うえで致命的な障害となるのである。」という言葉を受けて、NHK「100分de名著」の大久保喬樹氏はテキストで、茶道を含めて「東洋の諸文化は共同制作を重視する」と述べています。そういえば、芭蕉も共同制作の俳諧連歌を追求しており、人間が自然の一部として自然の摂理に組み込まれて生きているので、人と自然、人と人も共鳴しあえると観じているようです。芭蕉に「造化に従いて四時を友とす。」という言葉があります。「造化」という言葉は聞き慣れない言葉ですが、人為のない地形や環境を示す「nature」が「自然(自ら然り)」という言葉に訳される以前には、「自然の働き」を表す言葉として使われていたそうです。古代ギリシャでもピュシス(physice)が人間の本性・自然を表す言葉として使われていたことを考えると、環境文化を「人間の故郷探しの活動」として捉えることもできると感じました。
3月2日
読書譚~その4
「縮み」志向の日本人:李御寧(イー・オリョン)、講談社文庫、昭和59年10月
日本独特の文化とは何か?を示してくれる本です。著者は多くの「日本論」が西洋文化との比較のみで導かれているために、東洋文化の中での独自性が明らかになっていないとして、まず、縮み志向を①入れ子型:啄木の「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の中で「東海」から「白浜」までに3重に「の」の文字が使われていることを例として、空間を一つのつながりとして把握し、それを一点に込めていこうという志向、②扇子型:ウチワが日本に伝わったとたんに折りたたみ式の扇子が創案されたこと等を例として、トランジスタ文化などの携帯に便利なものを作り出す志向、③姉さま人形型:姉さま人形等を例として、事物を単純化し簡素化するところに美と機能を求めようとする志向、④折詰め弁当型:弁当のように、より狭い空間により多くのものをコンパクトにして量を質にかえる志向、⑤能面型:能面のように、いろいろな動作、いろいろな時間をひとつの瞬間に縮める志向、⑥紋章型:家紋のように、家系の歴史性と集団を具象的な物として象徴化する志向、以上の六つに分類して東洋文化の中での日本の独自性を示している。つぎに、①自然にあらわれた「縮み」の文化として、枯山水や盆栽など、②人と社会にあらわれた「縮み」の文化として、四畳半の空間論や座の文化など、③現代にあらわあれた「縮み」の文化として、和魂のトランジスタや「縮み」の経営学などが語られている。最後に、「拡がり」の文化と今日の日本の章で、その時代の縮み志向で生まれた「物」は世界市場への拡がりの志向に繋がるとしながら、「心」の縮み志向:閉鎖性の面では、ウチ社会で「村八分」になることは恐れているが、ソト社会で「世界八分」にされることには余り気を使っていないのかもしれないとしている。
【感想】東洋文化の中で日本文化の独自性を知ることができる貴重な資料だと思う。ちなみに、韓国人の筆者は、「恨 (ハン)の文化論」と題する韓国文化論の本も日本語で出しており、「恨」は「怨」とは違い、その内容は「アリラン峠の歌」が端的に物語っているとしている。 読書譚~その3「日本木炭史」では、「書院造りの時代には床に畳を敷き、唐紙・障子も普及し家屋の可燃性が増すのに伴って焔と煙を出さない木炭は暖房用にますます利用されることになった」ことを述べていたが、「「縮み」志向の日本人」には、「中国や韓国などの大陸文化に見られなかった日本独自の文化は、畳が敷かれているその部屋、それも方丈、茶室、待合など四畳半で代表されるあの狭い空間と不可分の関係にあるということに気付くようになります。」との記述があり、日本文化の一つの源流は「四畳半」なのだと気付かされました。また、この空間から座の文学である「連歌」が作られています。連歌は個人の発想だけでは成り立たず、座に集まる一人ひとりの思いがけない発想と人と人との響き合いが必要なので茶室のように皮膚感覚でお互いを分かり合える空間がピッタリなのでしょう。突飛ではありますが、この連歌づくりの発想が地方再生に生かせないものかと感じます。流域の人々は気候風土を皮膚感覚で共有しています。例えば、青森県の「青い森國土保全協同組合」では既に発句を作っています。「林業の 山の残材 木炭に」です。次に「水もきれいに 木炭護岸」→「木炭を 農地に入れて 元気な根」→「地球よろこぶ 炭素の隔離」などと続けることができれば、挙句は「ニッコリ笑う お岩木山よ」です。あまりにも格調が低くなりすぎたので最後に「炭俵」と題する俳諧連歌の芭蕉の発句を紹介します。「梅が香に のつと日の出る 山路かな」
9月25日
読書譚~その3「日本木炭史」樋口清之、講談社学術文庫、1993.5.
木炭は何時ごろから使われだしたのだろう?木炭はどのような用途に使われてきたのだろうか?日本の木炭文化はどのように醸成されてきたのだろうか?このような疑問に明確に答えてくれる図書が「日本木炭史」でした。著者は、時代で移り変わる木炭の用途と木炭文化醸成の様子を数多くの史料と実地調査から浮き彫りにしています。本の構成は、序説から始まり、本論は古代、中世、近世の順に木炭の生産・価格・消費に分けて書かれており、木炭の経済史的な記述が多くを占めていますが、以下には、木炭の起源、用途、木炭文化について、その一部を紹介します。
【起源】30数万年前までさかのぼれるそうである。愛媛県の石灰岩洞窟に鹿ノ川原人が暮らしていた跡があり、前期最新世の各種動物化石、人類の歯、骨器石器と共に、原始的なに和(にこ)炭と消炭ではあるが木炭と灰、焼土が見つかっているとのこと。洞窟内で暖をとるのに薪では煙が出るので具合が悪いかったのだろうとしている。なお、木炭を作り始める時に焚火に伴って生じた消炭と共に、火山活動と火山灰により樹木が熱分解されてできる自然木炭の存在が一つの暗示になっていた可能性を指摘している。
【用途】先ず、暖房用の熱源利用ですが、竪穴住居の時代は直接土面に炉を掘って円錐形の屋蓋に排気孔を設け、焔による照明機能も兼ねていたので薪が使用されていたが、高床住居の時代に床が可燃になると暖房と照明・炊事が分離され、暖房用の木炭の用は急に拡がったとしている。更に、書院造りの時代には床に畳を敷き、唐紙・障子も普及し家屋の可燃性が増すのに伴って焔と煙を出さない木炭は暖房用にますます利用されることになったとしている。次に、金属精錬・鋳造用の熱源利用では、南九州・中国山地・東関東などでタタラ遺跡からは大量の木炭塊が出土しており、鉱物の還元熔融に利用され、鋳造では東大寺大仏鋳造時の木炭の大量消費が特出されるとしている。次に木炭の物理的性質の利用は、防腐剤利用として中尊寺藤原氏墓棺に木炭を詰めた事例、濾過剤利用として平安時代初期の井戸底に厚く木炭を埋めた事例、170℃以下の温度では変質しない性質を利用して土地の境界に炭塊を点々と埋めた事例、保水力の利用として農地土壌に消炭を漉き込んだ事例などが示されている。
【木炭文化】著者は「すべての文化現象は、現象相互も、現象と時間関係も、空間関係もうずれも有機的であって、相互関連してはじめて存在し得る。そのため文化現象の一つだけを全体から取り出して時空関係と無関係に観察それは無駄であるのみではなく、正しい観察は不可能であるのが常である。木炭文化もその意味において、全体の日本文化史の流動の一面であることを意識して観察されなければならない。」とした上で、木炭を冬の風物詩として扱った清少納言の枕草子から「冬はつとめて、~ 炭もて渡るも いとつきづきし。」などを紹介。さらに、茶道の炭の手前や火相を観賞するような芸術は日本の茶道を除いては世界に存在せず、木炭自身の質が、熱量・発熱時間を決定し、これが湯加減と釜鳴り、間を左右する条件であるし、木炭の色・形・組み方・火相が茶室の一景色でもあるので品質の向上に寄与したとしている。
ところで、木炭の農地施用は土壌改良効果と共に、半永久的な炭素貯留効果があるのは「日本木炭史」の記述からも明らかです。NPO法人環境文化創発支援協会は、地球温暖化防止にも貢献するこの稀有な素材を活用する活動を応援しています。「日本木炭史」を踏まえて、これからの木炭利用についての雑感を若干付け加えました。
(以下、NPO法人環境文化創発支援協会HPからのつづき)
清少納言の記述や茶道での木炭のは、人の「立ち居振る舞いの美しさ」を引き出しているような気がします。「美しいと感じる」とは曖昧な表現ですが、同じ気候風土に培われた「心と心」の間には響きあう何かがありそうです。また、木炭利用にも周辺空間との関係で「ピッタリ」と感じあえる何かが今後の木炭文化を創発させるのかもしれません。例えば、①災害時のエネルギーストックを兼ねて火鉢などの利用で雰囲気を味わう木炭の熱利用が各家庭で復活。②河川流域の環境特性に調和させて、木炭を生産して森林保全にも貢献し、農地に木炭を施用して土づくりに貢献し、河川の水質浄化に使って生物多様性を向上させ、畜産の飼料と敷料に使って悪臭防止と炭入り堆肥づくりに貢献、しかも地球温暖化防止にも貢献、等を美しいストーリーと感じる人が増えるかもしれません。新たな炭文化の創発です。
9月25日
読書譚~その2
「新・国富論」浜矩子、文春新書、2012.12.
NHK、Eテレ「100分de名著」という番組の別冊「幸せについて考えよう」の中で経済学者の浜矩子氏は、経済学の生みの親と言われているアダム・スミスの著書「国富論」を解説したうえで経済学の立場から考える幸せとは「人の痛みがわかることである」と述べています。アダム・スミスは産業革命の時代に、「分業が富を生む、市場規模は大きいほどいい、見えざる手に委ねよ」等と主張した学者だと記憶していたので驚きです。浜矩子氏は更に、「驚かれてしまうところに今の経済活動そのものの問題がある」としています。そこで浜矩子氏の著書「新・国富論」を読みました。「新・国富論」はアダム・スミスを現代にお連れしたら何と言うか?を探る旅という設定で書き進められています。例えばリーマンショックについては「そこに至る経済活動の状況が維持不能なものだから発生した。経済の力学は必ず均衡点を求めるものだから、それ以前の状態とは別の状態に移行しなければならない。」と言わせています。アダム・スミスは「交換する」という人間にしかできない行為を経済活動と捉えたうえで、その交換価値を高めることができる分業を奨励したそうですが、併せて「人間を知的マヒ状態に追い込む、創造工夫を発揮する余地はまるで無い、思考停止状態に陥っていく」と弊害も指摘しているとのことです。浜矩子氏は「現代では分業はグローバル・サプライチェーンを出現させ、税金が最も低く、人件費が最も安く、資産が最も効率的に運用できる場所に向かってヒト・モノ・カネが国境を越えてドンドン吸引されてしまう。国内には国境を越えられない人たちが残る。」としています。
浜矩子氏は「産業革命当時の経済力学の大前提だと考えられていた重商主義に対してアダム・スミスが異を唱えたことは経済の領域に於けるコペルニクス的転回だった。そして今、ひょっとするとまた新たなコペルニクス的瞬間が訪れているのかもしれない。グローバル時代は奪い合いの時代にあらず、分かち合いの時代なり。地球の時代は地域の時代にほかならず。」とした上で、新国富論として「君富論」を展開しています。僕の富が増えればいい。僕の富が減らないためなら何をしてもいいと考える「僕富論」とはま逆の「君富論」です。
ところで、この「君富論」は、NPO法人環境文化創発支援協会が応援する地球環境保全を「他」とする「自利利他」の文化活動とも響き合う部分があるのかもしれません。
(以下、NPO法人環境文化創発支援協会HPからのつづき)
経済活動が「交換」であるならば、相手から奪う、搾取するのでは交換になりません。まずは相手に与えることから経済活動がするはずですので、浜矩子氏が提唱する「君富論」は経済分野でのコペルニクス的転回でしょう。現代はグローバル・サプライチェーンに代表されるラージスケールメリットを具現化させた「僕富論」ばかりが目立ち、国内は「夏草や兵どもの夢の跡」の観を呈していますが、夢の跡をよくよく見ると、兵が荒らしていった風土には地域単位で逞しい経済活動の息吹が既に確実に存在するようです。読書譚~その1で紹介した「里山資本主義」に掲載されれいる事例などは正に新たに地域収支向上を評価指標とした地域を「君」とした「君富論」の実践なのかもしれません。
「新・国富論」の著者、浜矩子氏は「君富論」を展開する合言葉は、アダム・スミスの「見えざる手」に対応させてグローバル市民の視点に立ってお互いの「差し伸べる手」:優しい手、勇気ある手、智恵ある手であるとしています。今は真さに、同じく経済学者のヨーゼフ・シュンペータが提唱している「既存技術の新結合」によるイノベーションが、地域愛を持った人々同志の「差し伸べる手」を結合力として地域風土に根付きつつある真只中なのかもしれません。
9月25日
読書譚~その1
「里山資本主義」藻谷浩介・NHK広島取材班、角川書店、2013.
新書対象2014を受賞。表紙カバーには「24万部突破」とある。ビックリ!である。従来の里山を扱った本は薪炭林として利用されなくなったために荒廃する雑木林の環境保全活動を紹介するものが多く、地味な図書をイメージしていたからだ。なぜこんなに評判になるのだろうか。本を読ませて頂いて感じたのは、マネー資本主義と里山資本主義を対比させた記述が、①マネー資本主義の限界を肌で感じつつある読者に受け入れられたこと、②里山を広義に「地域」として捉え、地域収支を向上させる具体の事例を紹介することで「懐かしい未来」像を明確にしたことが大きな要因であろうと納得。
NPO法人環境文化創発支援協会は、地球規模で環境を保全し、サステナブルコミュニティを実現するには「Think globally, Act locally」の実践として、現代の物質文明と補間・拮抗・相乗作用を持つ環境文化の創発が必須であり、「自然環境と調和した物質循環づくり:因縁果報」「手間をかけることを楽しむ生活環境づくり:楽則能久」「全体の利益を図ることが個の利益につながる仕組みづくり:自利利他」を支援するNPO法人です。物質文明は大量生産・大規模流通・大量消費のラージスケールメリット獲得の競争社会を形成するのに対し、環境文化は地域規模でのスモールスケールメリットを活かした安全安心の協奏社会が形成されます。「里山資本主義」では地域収支を向上させるにはエネルギーとモノの赤字削減が必要であるとし、それを実現する多くの事例を紹介しています。
環境文化創発支援協会では里山資本主義の成熟が「地域収支」のみならず地球温暖化防止などの「地球収支」の赤字解消にもつながると考え、本NPO法人の立場から「里山資本主義」で紹介されている事例の幾つかについての読後譚を記させていただきました。
(以下、NPO法人環境文化創発支援協会HPからの続き)
【広島県庄原市総領地区のWさん:里山暮らし】裏山1haを9万円で購入し、枝などをエコストーブの燃料に利用。エコストーブは暖房だけではなく、煮炊きにも利用して手間も楽しむ暮らしを実践されているとのこと。一般家庭のエネルギー消費の多くは熱利用が占め、その燃料を身近な里山に求めることで地球温暖化防止(バイオマス利用はカーボンニュートラル)、緊急時にも熱利用が確保される安心の防災対策にもなっています。さらに、里山に人手が入れば雑木林も自然萌芽で再生し、下草刈りなどの作業を続けることで、節分草などの春植物や里山特有のチョウなども生息し、生物多様性も向上します。東北地方の雪国などでは脈々と今でも薪ストーブの利用が続いています。石油やガスストーブはスイッチを切った瞬間から部屋が冷えてきますが薪ストーブやW氏のエコストーブは、着火して直ぐには暖まらない代わりに、燃料が燃え尽きるまで暖かいのです。このタイムラグが人の健康にも優しいのかもしれません。Wさんが奏でる主旋律に里山を楽しむ都会人が加わった「里山協奏曲」の演奏はもう始まっているのかもしれません。
【広島県庄原市の社会福祉法人のKさん】デイサービス利用者から「自宅の畑で作っている野菜が余る一方で腐らせてしまう」という話を聞いたKさん、その野菜を福祉施設の食材として購入。施設は食材費の削減、利用者には作る張り合いが生まれたとのこと。きっと施設利用者間でのオシャベリの話題にもなっていることでしょう。確実に海外からの食糧輸入量も減り、食の安全も高まり、成熟した高齢化社会の双方向コミュニケーションの一つの姿を具現化しているのかもしれません。
【山口県周防大島のジャム屋さんMさんと蜂蜜屋さんKさん】瀬戸内海の周防大島は自然環境特性を活かした柑橘類などの生産地。Mさんはカフェを併設したジャム屋さんを瀬戸内海の眺めの良い場所に開き、熟す前の青ミカンをジャムに、パンと一緒に焼いて食べるサツマイモジャムなど、四季折々に様々なジャムを作っているとのこと。更に、有効利用されているのは果樹園の果実だけではなく、その花もKさんにより養蜂に利用され、蜂蜜は地元の道の駅などで販売されているとのこと。まさに一次産業を核とした六次産業化であり、地域規模で新結合が加われば加わるほど「周防大島」という地域ブランド力が充実し、ラージスケールメリットを活かすマネー資本主義からスモールスケールメリットを活かす里山資本主義へのパラダイムシフトを目の当たりに見ているのかもしれません。
【岡山県真庭市の製材所のNさん】製材所M工業では、製材で発生する副産物である木屑を燃料とした2,000kW/hの木質バイオマス発電で所内のほぼ100%の電力を賄い、電気代で1億5千万円/年、産業廃棄物処理費用で2億4千万円/年の節減になっているとのこと。事業収支、地域収支の改善に大きく貢献している。里山資本主義での電力の地域収支向上にはどのようなモデルで成熟に向かうのだろうか。「里山資本主義」の副題に「日本経済は安心の原理で動く」とあるように、木質バイオマス発電がラージスケールメリットを追求して限りなく大規模化することは無いだろう。なぜなら木質バイオマス調達に地域間競争が発生し、マネー資本主義と同じ道をたどってしまうからです。里山資源である自然に働きかけて自然からの恵みで発電する立場から、例えば、農業用水路の水を使った「小水力」、建物の屋根を借りた「ソーラー」、峠の「風力」など、気象条件によっては不安定ではあるが、組み合わせれば安定し、更に燃料のストックが利く「木質バイオマス」を加えた安心の地域単位の電力供給が全国各地の自然環境特性に適合する形にブレンドされて具現化する日が来るかもしれない。さらに、このマイクログリッドと呼ばれる発電システムは全世界にいまだ残されている無電化地域の人々の光明になるのかもしれない。
読書譚~その5
「茶の本」岡倉天心著:桶谷秀昭訳、講談社学術文庫、1994.8. 並びに、大久保喬樹訳、NHK100分de名著テキスト、2015.1.
読書譚~その4「「縮み」志向の日本人」には、茶室に代表される「座の文化」が日本文化の特色であると述べられています。確かに茶道や連歌などは日本独自のもののようです。そこで、天心が英語で書いたこの本の日本語訳を読みました。併せて「NHK100分de名著」のテキストを読み直しました。
章建ては「人情の碗」「茶の流派」「道教と禅道」「茶室」「芸術鑑賞」「花」「茶の宗匠たち」の七章、約百ページと短かい本なので一気に読み通せます。
「人情の碗」:冒頭近くに「茶道(Teaism)は、雑然とした日々の暮らしの中に見を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀式である。そこから人は純粋と調和、互いに相手を思い遣る慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。茶道の本質は、不完全ということの崇拝―物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなしとげようとする心やさしい試みが茶道なのである。」と定義した上で、「現代世界は我欲と俗悪の闇の中を手さぐりで歩いている。知識はやましさの意識によって得られ、博愛は功利のためにおこなわれる。東と西は狂乱の海に翻弄される二匹の竜のごとく、生命の宝玉を取り戻そうとむなしくあがいている。」という現状認識に立って、「一服のお茶をすすろうではないか。・・・おろかしいこと(beautiful foolishness)への想いに耽ろうではないか」と茶の効用を主張している。
「茶の流派」:茶の歴史が語られています。中国で4,5世紀に始まった喫茶の文化は唐代宋代の変遷、発展を経て鎌倉時代の禅僧により日本に本格的に紹介され、室町時代に完成されその後のさまざまな芸術文化に影響を与えたとしています。唐代の詩人、陸羽の著作「茶経」や宋代の王兎偁の「その微妙な苦味はよき忠言のあと味を思い出させる。」などの言葉も併せて紹介し、日本は1281年の蒙古襲来を防げたので、宋の文化運動を継続することができたとしています。
「道教と禅道」:茶との結びつきが語られています。天心の文章は詩のように淀みなく流れ、「道教は、その正当な後継者禅道と同じように南方中国の個人主義的傾向を表していて、儒教の姿で現れている北方中国と対照的である。・・・一方の美術と詩は他方のそれとはまったくことなった雰囲気を呼吸している。」「「虚」は見る者を誘い、彼の美的情緒を十二分に満たすためにそこにある。」等の表現で記述されています。
「茶室」:「完全そのものよりも完全を求める過程に重きを置いた。真の美は、不完全を心の中で完全なものにする人だけが発見することができる。人生と芸術の力強さは、伸びようとする可能性の中にある。茶室では、全体の効果を自分とのかかわりの中で完全なものにすることが、客めいめいの想像力にゆだねられている。」などと述べています
「芸術鑑賞」:「芸術鑑賞に必要な、共感による心の交流は、互いに譲り合う精神にもとづかなければならない。芸術家が伝言を伝える方法を知らなければならないように、鑑賞者は、伝言を受け取る正しい態度を培わねばならない。」「共感の能力がある人にとって、傑作は生きた現実になり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。」などの記述があります。
「花」:「茶人は、花を得心がいくように活けおわると、それを日本の部屋の上 にあたる、床の間に置く。花の美を妨げるようなものは一切、その近くに置かない。客や弟子たちは部屋に入ると、主人に挨拶するまえに、花に向かって深々と頭をさげて敬礼する。・・・花がしおれると、宗匠は心を込めてそれを川に流すか、注意深く地中に埋める。」と解説しています。
「茶の宗匠たち」:「茶室でおこなわれている高度の風雅によって、その日常生活を律しようと努めた。・・・美しいものとともに生きた人だけが美しく死ぬことができる。」として「利休の最後の茶の湯」について紹介しています。
【感想】天心の「自己中心的な虚栄というものは、芸術家、鑑賞者いずれの側にあっても、共感を育うえで致命的な障害となるのである。」という言葉を受けて、NHK「100分de名著」の大久保喬樹氏はテキストで、茶道を含めて「東洋の諸文化は共同制作を重視する」と述べています。そういえば、芭蕉も共同制作の俳諧連歌を追求しており、人間が自然の一部として自然の摂理に組み込まれて生きているので、人と自然、人と人も共鳴しあえると観じているようです。芭蕉に「造化に従いて四時を友とす。」という言葉があります。「造化」という言葉は聞き慣れない言葉ですが、人為のない地形や環境を示す「nature」が「自然(自ら然り)」という言葉に訳される以前には、「自然の働き」を表す言葉として使われていたそうです。古代ギリシャでもピュシス(physice)が人間の本性・自然を表す言葉として使われていたことを考えると、環境文化を「人間の故郷探しの活動」として捉えることもできると感じました。
3月2日
読書譚~その4
「縮み」志向の日本人:李御寧(イー・オリョン)、講談社文庫、昭和59年10月
日本独特の文化とは何か?を示してくれる本です。著者は多くの「日本論」が西洋文化との比較のみで導かれているために、東洋文化の中での独自性が明らかになっていないとして、まず、縮み志向を①入れ子型:啄木の「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の中で「東海」から「白浜」までに3重に「の」の文字が使われていることを例として、空間を一つのつながりとして把握し、それを一点に込めていこうという志向、②扇子型:ウチワが日本に伝わったとたんに折りたたみ式の扇子が創案されたこと等を例として、トランジスタ文化などの携帯に便利なものを作り出す志向、③姉さま人形型:姉さま人形等を例として、事物を単純化し簡素化するところに美と機能を求めようとする志向、④折詰め弁当型:弁当のように、より狭い空間により多くのものをコンパクトにして量を質にかえる志向、⑤能面型:能面のように、いろいろな動作、いろいろな時間をひとつの瞬間に縮める志向、⑥紋章型:家紋のように、家系の歴史性と集団を具象的な物として象徴化する志向、以上の六つに分類して東洋文化の中での日本の独自性を示している。つぎに、①自然にあらわれた「縮み」の文化として、枯山水や盆栽など、②人と社会にあらわれた「縮み」の文化として、四畳半の空間論や座の文化など、③現代にあらわあれた「縮み」の文化として、和魂のトランジスタや「縮み」の経営学などが語られている。最後に、「拡がり」の文化と今日の日本の章で、その時代の縮み志向で生まれた「物」は世界市場への拡がりの志向に繋がるとしながら、「心」の縮み志向:閉鎖性の面では、ウチ社会で「村八分」になることは恐れているが、ソト社会で「世界八分」にされることには余り気を使っていないのかもしれないとしている。
【感想】東洋文化の中で日本文化の独自性を知ることができる貴重な資料だと思う。ちなみに、韓国人の筆者は、「恨 (ハン)の文化論」と題する韓国文化論の本も日本語で出しており、「恨」は「怨」とは違い、その内容は「アリラン峠の歌」が端的に物語っているとしている。 読書譚~その3「日本木炭史」では、「書院造りの時代には床に畳を敷き、唐紙・障子も普及し家屋の可燃性が増すのに伴って焔と煙を出さない木炭は暖房用にますます利用されることになった」ことを述べていたが、「「縮み」志向の日本人」には、「中国や韓国などの大陸文化に見られなかった日本独自の文化は、畳が敷かれているその部屋、それも方丈、茶室、待合など四畳半で代表されるあの狭い空間と不可分の関係にあるということに気付くようになります。」との記述があり、日本文化の一つの源流は「四畳半」なのだと気付かされました。また、この空間から座の文学である「連歌」が作られています。連歌は個人の発想だけでは成り立たず、座に集まる一人ひとりの思いがけない発想と人と人との響き合いが必要なので茶室のように皮膚感覚でお互いを分かり合える空間がピッタリなのでしょう。突飛ではありますが、この連歌づくりの発想が地方再生に生かせないものかと感じます。流域の人々は気候風土を皮膚感覚で共有しています。例えば、青森県の「青い森國土保全協同組合」では既に発句を作っています。「林業の 山の残材 木炭に」です。次に「水もきれいに 木炭護岸」→「木炭を 農地に入れて 元気な根」→「地球よろこぶ 炭素の隔離」などと続けることができれば、挙句は「ニッコリ笑う お岩木山よ」です。あまりにも格調が低くなりすぎたので最後に「炭俵」と題する俳諧連歌の芭蕉の発句を紹介します。「梅が香に のつと日の出る 山路かな」
9月25日
読書譚~その3「日本木炭史」樋口清之、講談社学術文庫、1993.5.
木炭は何時ごろから使われだしたのだろう?木炭はどのような用途に使われてきたのだろうか?日本の木炭文化はどのように醸成されてきたのだろうか?このような疑問に明確に答えてくれる図書が「日本木炭史」でした。著者は、時代で移り変わる木炭の用途と木炭文化醸成の様子を数多くの史料と実地調査から浮き彫りにしています。本の構成は、序説から始まり、本論は古代、中世、近世の順に木炭の生産・価格・消費に分けて書かれており、木炭の経済史的な記述が多くを占めていますが、以下には、木炭の起源、用途、木炭文化について、その一部を紹介します。
【起源】30数万年前までさかのぼれるそうである。愛媛県の石灰岩洞窟に鹿ノ川原人が暮らしていた跡があり、前期最新世の各種動物化石、人類の歯、骨器石器と共に、原始的なに和(にこ)炭と消炭ではあるが木炭と灰、焼土が見つかっているとのこと。洞窟内で暖をとるのに薪では煙が出るので具合が悪いかったのだろうとしている。なお、木炭を作り始める時に焚火に伴って生じた消炭と共に、火山活動と火山灰により樹木が熱分解されてできる自然木炭の存在が一つの暗示になっていた可能性を指摘している。
【用途】先ず、暖房用の熱源利用ですが、竪穴住居の時代は直接土面に炉を掘って円錐形の屋蓋に排気孔を設け、焔による照明機能も兼ねていたので薪が使用されていたが、高床住居の時代に床が可燃になると暖房と照明・炊事が分離され、暖房用の木炭の用は急に拡がったとしている。更に、書院造りの時代には床に畳を敷き、唐紙・障子も普及し家屋の可燃性が増すのに伴って焔と煙を出さない木炭は暖房用にますます利用されることになったとしている。次に、金属精錬・鋳造用の熱源利用では、南九州・中国山地・東関東などでタタラ遺跡からは大量の木炭塊が出土しており、鉱物の還元熔融に利用され、鋳造では東大寺大仏鋳造時の木炭の大量消費が特出されるとしている。次に木炭の物理的性質の利用は、防腐剤利用として中尊寺藤原氏墓棺に木炭を詰めた事例、濾過剤利用として平安時代初期の井戸底に厚く木炭を埋めた事例、170℃以下の温度では変質しない性質を利用して土地の境界に炭塊を点々と埋めた事例、保水力の利用として農地土壌に消炭を漉き込んだ事例などが示されている。
【木炭文化】著者は「すべての文化現象は、現象相互も、現象と時間関係も、空間関係もうずれも有機的であって、相互関連してはじめて存在し得る。そのため文化現象の一つだけを全体から取り出して時空関係と無関係に観察それは無駄であるのみではなく、正しい観察は不可能であるのが常である。木炭文化もその意味において、全体の日本文化史の流動の一面であることを意識して観察されなければならない。」とした上で、木炭を冬の風物詩として扱った清少納言の枕草子から「冬はつとめて、~ 炭もて渡るも いとつきづきし。」などを紹介。さらに、茶道の炭の手前や火相を観賞するような芸術は日本の茶道を除いては世界に存在せず、木炭自身の質が、熱量・発熱時間を決定し、これが湯加減と釜鳴り、間を左右する条件であるし、木炭の色・形・組み方・火相が茶室の一景色でもあるので品質の向上に寄与したとしている。
ところで、木炭の農地施用は土壌改良効果と共に、半永久的な炭素貯留効果があるのは「日本木炭史」の記述からも明らかです。NPO法人環境文化創発支援協会は、地球温暖化防止にも貢献するこの稀有な素材を活用する活動を応援しています。「日本木炭史」を踏まえて、これからの木炭利用についての雑感を若干付け加えました。
(以下、NPO法人環境文化創発支援協会HPからのつづき)
清少納言の記述や茶道での木炭のは、人の「立ち居振る舞いの美しさ」を引き出しているような気がします。「美しいと感じる」とは曖昧な表現ですが、同じ気候風土に培われた「心と心」の間には響きあう何かがありそうです。また、木炭利用にも周辺空間との関係で「ピッタリ」と感じあえる何かが今後の木炭文化を創発させるのかもしれません。例えば、①災害時のエネルギーストックを兼ねて火鉢などの利用で雰囲気を味わう木炭の熱利用が各家庭で復活。②河川流域の環境特性に調和させて、木炭を生産して森林保全にも貢献し、農地に木炭を施用して土づくりに貢献し、河川の水質浄化に使って生物多様性を向上させ、畜産の飼料と敷料に使って悪臭防止と炭入り堆肥づくりに貢献、しかも地球温暖化防止にも貢献、等を美しいストーリーと感じる人が増えるかもしれません。新たな炭文化の創発です。
9月25日
読書譚~その2
「新・国富論」浜矩子、文春新書、2012.12.
NHK、Eテレ「100分de名著」という番組の別冊「幸せについて考えよう」の中で経済学者の浜矩子氏は、経済学の生みの親と言われているアダム・スミスの著書「国富論」を解説したうえで経済学の立場から考える幸せとは「人の痛みがわかることである」と述べています。アダム・スミスは産業革命の時代に、「分業が富を生む、市場規模は大きいほどいい、見えざる手に委ねよ」等と主張した学者だと記憶していたので驚きです。浜矩子氏は更に、「驚かれてしまうところに今の経済活動そのものの問題がある」としています。そこで浜矩子氏の著書「新・国富論」を読みました。「新・国富論」はアダム・スミスを現代にお連れしたら何と言うか?を探る旅という設定で書き進められています。例えばリーマンショックについては「そこに至る経済活動の状況が維持不能なものだから発生した。経済の力学は必ず均衡点を求めるものだから、それ以前の状態とは別の状態に移行しなければならない。」と言わせています。アダム・スミスは「交換する」という人間にしかできない行為を経済活動と捉えたうえで、その交換価値を高めることができる分業を奨励したそうですが、併せて「人間を知的マヒ状態に追い込む、創造工夫を発揮する余地はまるで無い、思考停止状態に陥っていく」と弊害も指摘しているとのことです。浜矩子氏は「現代では分業はグローバル・サプライチェーンを出現させ、税金が最も低く、人件費が最も安く、資産が最も効率的に運用できる場所に向かってヒト・モノ・カネが国境を越えてドンドン吸引されてしまう。国内には国境を越えられない人たちが残る。」としています。
浜矩子氏は「産業革命当時の経済力学の大前提だと考えられていた重商主義に対してアダム・スミスが異を唱えたことは経済の領域に於けるコペルニクス的転回だった。そして今、ひょっとするとまた新たなコペルニクス的瞬間が訪れているのかもしれない。グローバル時代は奪い合いの時代にあらず、分かち合いの時代なり。地球の時代は地域の時代にほかならず。」とした上で、新国富論として「君富論」を展開しています。僕の富が増えればいい。僕の富が減らないためなら何をしてもいいと考える「僕富論」とはま逆の「君富論」です。
ところで、この「君富論」は、NPO法人環境文化創発支援協会が応援する地球環境保全を「他」とする「自利利他」の文化活動とも響き合う部分があるのかもしれません。
(以下、NPO法人環境文化創発支援協会HPからのつづき)
経済活動が「交換」であるならば、相手から奪う、搾取するのでは交換になりません。まずは相手に与えることから経済活動がするはずですので、浜矩子氏が提唱する「君富論」は経済分野でのコペルニクス的転回でしょう。現代はグローバル・サプライチェーンに代表されるラージスケールメリットを具現化させた「僕富論」ばかりが目立ち、国内は「夏草や兵どもの夢の跡」の観を呈していますが、夢の跡をよくよく見ると、兵が荒らしていった風土には地域単位で逞しい経済活動の息吹が既に確実に存在するようです。読書譚~その1で紹介した「里山資本主義」に掲載されれいる事例などは正に新たに地域収支向上を評価指標とした地域を「君」とした「君富論」の実践なのかもしれません。
「新・国富論」の著者、浜矩子氏は「君富論」を展開する合言葉は、アダム・スミスの「見えざる手」に対応させてグローバル市民の視点に立ってお互いの「差し伸べる手」:優しい手、勇気ある手、智恵ある手であるとしています。今は真さに、同じく経済学者のヨーゼフ・シュンペータが提唱している「既存技術の新結合」によるイノベーションが、地域愛を持った人々同志の「差し伸べる手」を結合力として地域風土に根付きつつある真只中なのかもしれません。
9月25日
読書譚~その1
「里山資本主義」藻谷浩介・NHK広島取材班、角川書店、2013.
新書対象2014を受賞。表紙カバーには「24万部突破」とある。ビックリ!である。従来の里山を扱った本は薪炭林として利用されなくなったために荒廃する雑木林の環境保全活動を紹介するものが多く、地味な図書をイメージしていたからだ。なぜこんなに評判になるのだろうか。本を読ませて頂いて感じたのは、マネー資本主義と里山資本主義を対比させた記述が、①マネー資本主義の限界を肌で感じつつある読者に受け入れられたこと、②里山を広義に「地域」として捉え、地域収支を向上させる具体の事例を紹介することで「懐かしい未来」像を明確にしたことが大きな要因であろうと納得。
NPO法人環境文化創発支援協会は、地球規模で環境を保全し、サステナブルコミュニティを実現するには「Think globally, Act locally」の実践として、現代の物質文明と補間・拮抗・相乗作用を持つ環境文化の創発が必須であり、「自然環境と調和した物質循環づくり:因縁果報」「手間をかけることを楽しむ生活環境づくり:楽則能久」「全体の利益を図ることが個の利益につながる仕組みづくり:自利利他」を支援するNPO法人です。物質文明は大量生産・大規模流通・大量消費のラージスケールメリット獲得の競争社会を形成するのに対し、環境文化は地域規模でのスモールスケールメリットを活かした安全安心の協奏社会が形成されます。「里山資本主義」では地域収支を向上させるにはエネルギーとモノの赤字削減が必要であるとし、それを実現する多くの事例を紹介しています。
環境文化創発支援協会では里山資本主義の成熟が「地域収支」のみならず地球温暖化防止などの「地球収支」の赤字解消にもつながると考え、本NPO法人の立場から「里山資本主義」で紹介されている事例の幾つかについての読後譚を記させていただきました。
(以下、NPO法人環境文化創発支援協会HPからの続き)
【広島県庄原市総領地区のWさん:里山暮らし】裏山1haを9万円で購入し、枝などをエコストーブの燃料に利用。エコストーブは暖房だけではなく、煮炊きにも利用して手間も楽しむ暮らしを実践されているとのこと。一般家庭のエネルギー消費の多くは熱利用が占め、その燃料を身近な里山に求めることで地球温暖化防止(バイオマス利用はカーボンニュートラル)、緊急時にも熱利用が確保される安心の防災対策にもなっています。さらに、里山に人手が入れば雑木林も自然萌芽で再生し、下草刈りなどの作業を続けることで、節分草などの春植物や里山特有のチョウなども生息し、生物多様性も向上します。東北地方の雪国などでは脈々と今でも薪ストーブの利用が続いています。石油やガスストーブはスイッチを切った瞬間から部屋が冷えてきますが薪ストーブやW氏のエコストーブは、着火して直ぐには暖まらない代わりに、燃料が燃え尽きるまで暖かいのです。このタイムラグが人の健康にも優しいのかもしれません。Wさんが奏でる主旋律に里山を楽しむ都会人が加わった「里山協奏曲」の演奏はもう始まっているのかもしれません。
【広島県庄原市の社会福祉法人のKさん】デイサービス利用者から「自宅の畑で作っている野菜が余る一方で腐らせてしまう」という話を聞いたKさん、その野菜を福祉施設の食材として購入。施設は食材費の削減、利用者には作る張り合いが生まれたとのこと。きっと施設利用者間でのオシャベリの話題にもなっていることでしょう。確実に海外からの食糧輸入量も減り、食の安全も高まり、成熟した高齢化社会の双方向コミュニケーションの一つの姿を具現化しているのかもしれません。
【山口県周防大島のジャム屋さんMさんと蜂蜜屋さんKさん】瀬戸内海の周防大島は自然環境特性を活かした柑橘類などの生産地。Mさんはカフェを併設したジャム屋さんを瀬戸内海の眺めの良い場所に開き、熟す前の青ミカンをジャムに、パンと一緒に焼いて食べるサツマイモジャムなど、四季折々に様々なジャムを作っているとのこと。更に、有効利用されているのは果樹園の果実だけではなく、その花もKさんにより養蜂に利用され、蜂蜜は地元の道の駅などで販売されているとのこと。まさに一次産業を核とした六次産業化であり、地域規模で新結合が加われば加わるほど「周防大島」という地域ブランド力が充実し、ラージスケールメリットを活かすマネー資本主義からスモールスケールメリットを活かす里山資本主義へのパラダイムシフトを目の当たりに見ているのかもしれません。
【岡山県真庭市の製材所のNさん】製材所M工業では、製材で発生する副産物である木屑を燃料とした2,000kW/hの木質バイオマス発電で所内のほぼ100%の電力を賄い、電気代で1億5千万円/年、産業廃棄物処理費用で2億4千万円/年の節減になっているとのこと。事業収支、地域収支の改善に大きく貢献している。里山資本主義での電力の地域収支向上にはどのようなモデルで成熟に向かうのだろうか。「里山資本主義」の副題に「日本経済は安心の原理で動く」とあるように、木質バイオマス発電がラージスケールメリットを追求して限りなく大規模化することは無いだろう。なぜなら木質バイオマス調達に地域間競争が発生し、マネー資本主義と同じ道をたどってしまうからです。里山資源である自然に働きかけて自然からの恵みで発電する立場から、例えば、農業用水路の水を使った「小水力」、建物の屋根を借りた「ソーラー」、峠の「風力」など、気象条件によっては不安定ではあるが、組み合わせれば安定し、更に燃料のストックが利く「木質バイオマス」を加えた安心の地域単位の電力供給が全国各地の自然環境特性に適合する形にブレンドされて具現化する日が来るかもしれない。さらに、このマイクログリッドと呼ばれる発電システムは全世界にいまだ残されている無電化地域の人々の光明になるのかもしれない。