勿怪の幸い。

福長千紗の制作日記とあれこれ

犬イベント用パッケージ準備

2014-06-16 00:06:26 | 制作日記
ハンコの日記とわけたら、どっちに書きゃあいいんだ、の日記が。

悩んだけど、コーヒー染めと蝋引きなので、こっちにした。

最近ひたすら彫っていた犬ハンコと猫ハンコは、保護犬のチャリティイベントに置いてもらう用のもの。

人の目に止まってもらえるよう、可愛くなーれ、と準備。

まずはコーヒー染め。

我が家のオーブンは、食物以外も焼きます。
で、染めたものを蝋引き。

そしたら、こうなる。


持ってる袋に入らないっていうね…。
早急に、一回り大き目の袋を買いに行かなきゃならぬな…。

霞目なんですよね。

2014-06-11 18:33:03 | 徒然
正しい目薬のさし方のポスターが、目医者に貼ってあった。

忠実に試してみた。
やりやすかった。

私の行っている目医者は、診察後、目を洗い目薬をさしてくれるが、目の洗い方が半端ない。
脳みそが溺れているんじゃないかと、絶対勘違いしている。
だって、いき苦しく呼吸も荒くなる。
実際溺れたことなど無いし、昔から水中で危機を迎える度に、子供の私は冷静に切り抜けてきたというのに(年の離れた従姉妹や兄、保護者なんかあてにしてはいけない。母は泳げないし、叔父叔母夫婦は、自分の子供が死にそうにならない限り、末の子供などどうでも良いのだ。生きるか死ぬかは、三歳で浮き輪と共に海に放逐された時から自分の責任である。足が届かない海の生物が怖いなど、生命維持の前では些細な事である。)

目医者で溺れるとはこれいかに。

洗浄水と共に、涙がだくだくと流れ、目薬なぞ留まってはおらぬだろう。
どこの目医者でもそうなのか。

視力検査(左右を間違う。)と目の洗浄、激しく苦手だ。



目薬ふえたー…

読書という行為が、好きなんだ。結局。

2014-06-05 21:36:28 | 徒然
かつて私は、8冊くらいの本を同時進行で読んでいた。
枕元には読みかけをずらっと並べ、気分によって読みわけ、1日2日ほどで本が入れ替わっていた。
今や、積ん読。
なんと言うこと。
活字離れ、甚だしい。
語彙力が恐ろしく下がっている。
大嫌いだった政経の教師が、ボキャ貧や、と連呼する授業で嫌いな余り睨みつけていたら、うっかり好成績を叩き出してしまったのは過去となり、まさにボキャ貧へと滑り落ちてしまった。
女子高生をやっていた時代の私の鞄には、潰しているにもかかわらず、京極夏彦の小説と、読むようの国語辞典が常備されていたというのに。
もちろん、鞄はその二冊でパンパンである。

昔から、小説を読みながら、映像をみている。
脳みそフル回転である。
つまり、体力がいる。
面白い作品、言葉や字面の美しい作品は、より一層体力を要する。
主人公を立ち上げ、背景を作り、なんなら効果音、肌触り、香りすら妄想する。
妄想力半端ない。

現在、その作業に没頭する集中力がない。
あれやりたいこれやりたい、やらなきゃならないが重なるからだ。
暇は作るものだという信条より、眠る時間を削るも、削って作った時間は、最優先事項へ充てられる。

なぜ、こんなに時間が無いのか。

高校生以下の時は、読書が一番の趣味で、制作はしていなかった。
拗れた子どもの私は、授業中にせっせと好きな作家に影響されすぎな小説を書いていた。
夢見がちである。
大学に入ったら、絵を描き切り絵をしガラスを溶かし粘土も練っていたが、それこそ本分。
二回生で取れる卒業単位を持っていなければ人間じゃ無い生きていてもしょうがないと告げられていたため、取ってしまった後は趣味の受講と制作と必要な単位を取るだけのお気楽なものだった。
昼夜逆転なんのその。
読書時間も余裕でとれた。

それがいまや、私が居なくてもなんの問題も生じない(多少は困るはずだ。その位の雑事はやっている。)仕事をグダグダと、一切やる気のない様子でやり、1日の内の八時間を潰している。
仕事を充てがわれた当初は、余りのくだらなさに対するストレスで、ニキビの上にニキビができる有様になったものだ。
思春期ですら、ニキビなんかに煩わされなかったというのに。
この八時間を制作や読書に充てられるなら、と日々思う。
夜もゆっくり眠れるし、制作も捗る。
しかし、制作では食えぬ問題が生じる。
食えなきゃ制作もできない。

この無限ループ。

全売れないアーティスト志望者が陥り、結局アーティストにならずに終わるパターンだ。
アーティストがなんなのかはわからないが、作品を金銭に置き換えられるプロの事だと、私は認識している。

読書の話から随分と離れてしまった。今日は体調を崩して寝倒し、腰が痛くなったので、ここぞとばかりに積ん読を崩しながら己の現状を少し嘆いた1日を過ごしたのだ。

久々に小説を二冊ほど読み、三冊目に手を出したが、疲れてしまい、途中で放棄。
学生の頃の様な読み方はできぬようだ。
大変にさみしい。

小川洋子著の作品を読む度に。

2014-06-05 13:09:15 | 徒然
不手際や異物といった、様々なエラーと呼ばれるものや、そこに並べられる事象が、普通の影に身を潜め、適切な場所に運ばれるのを待っている。
密やかで控え目で申し訳なさそうな様子のそれらを大切に掬いあげて、不安でしょうがないという震えを治める。
それが何かと言うと、消失である。
失われる、失われた、失った。
自ら手放すこともある。
それは誰もが持っていて、絶対で、大切にするのも蔑ろにするのも自由だが、逃れる事は絶対にできない。
受け入れるしかなく、受け入れ難く、そのものより、それが起きた後、起きる前に存在していたという記憶や気配や匂いの方がより重量を持っている。
小川洋子という作家の小説は、消失にまつわる物が多い。
読み漏れが無いとは言えないので、総てとは言えないが、何かしら、誰かしら、ささやかに大胆に消失が起きる。
穏やかに当たり前に、失われて行く。
読み始めから読み終わるまで、ひたすら消失に向かう物語を受け入れるしか無く、抗う術は本を閉じるという事以外にはない事に、私はいつもびくびくしている。
失われるページに抗えない結末。
小説の内容も物理的な事実も、どこまでも失われてゆく。
繊細なレース編みをひたすらひたすら編み拡げている割に、編み始めたところからほどいて行くような感覚になる。
次の消失に手を出さないではいられなくなるのだ。