内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

自分自身のコントロール感

2021-10-17 15:01:01 | ビジネス境界線
岡田としおさんというおじさんを
最近初めて知ってすぐにはまって
とても面白く話を聞いている

まず
あ仲間の人かも
という感覚から始まり
少し知ると考え方のほとんどに
同感できる何かを感じる

もう少し知ると
どうやら凄く有名な人だということが
わかった


その人の話に
「今まで大きな土台でやっていた人が追い詰められてどうにもならなくなったときに
全ての要素を自分でコントロール出来るものに置き換えていき規模を小さくしたとしても生き延びる」

という話があった

ホリエモンでもキングコングでも
岡田さんも
こういう生き延びかたという観点で
説明を聞いたときに

これだと

体にじーんと染み入ってしまった


「これだ」の正体は
私が経験してきた
この数年間を一言で一番うまく
表している言葉という意味だ


自分のコントロールが効かない要素に
より
圧倒的な危機を味わった時
人間は世界観が大きく変わり
身動きがとれなくなることがある


それはアイデンティティーの危機だとか
トラウマだとか
色んなアプローチでその現象は
説明できるが

この世界は
自分でコントロールできない

という圧倒的なショックに
よる要素はかなり重要だ



これを取り戻せなければ
常に世界に怯え続けるあたらしい
世界の中で生きることになり
とんでもない地獄となる

社会生活全てが恐怖や不安となり
常に誰かに自分が操られる
という世界観に陥る


私はこの数年間
それとずっと闘ってきた


全く自分に否がない理由で
大きな社会や組織から
ひどい仕打ちを受けてしまう

自分が人生をかけて努力して
創ってきたものを
木っ端微塵に潰されてしまう

何もかもやる気が起こらなくなる


これに対抗し得る唯一の手段が

自分一人でやれることを
一つ一つ確かめていく

ということだ


まず私は
自転車にのりまくった

自転車でどこまで行けるか
何度か試した

そして
野宿をし始めた

もし仕事が出来なくなって
誰かの奴隷にならなければならない
という妄想に怯えるなら

逃げ出して家がなくても
野宿で暮らせる事を
体で学んでいった

大きな災害が起こり
何もインフラがないときに
みんなで助け合う
そんなときに私が生き延びるには
身一つで誰かの約に立てることが
自分の商品になる
結果的に自分を大事にしてもらえる

だから
音楽を提供出来るように
クラシックギターで
バッハを全曲引けるように練習を始めた

心のケアを提供するために
カウンセラーを練習する

餓死から逃れるために
海から食料を調達する
その知識を増やしていく

料理は出来ないので
みんな大好きお寿司を
いつでも握れるようにしておく

家を立てるのは無理でも
簡単な日曜大工くらいは
いつ人から頼まれても
出来るようにしておく

中古の原付を学習道具にし
車系の構造も理解しておく


こういった一つ一つの
自分ができる自力サービス
を増やしていくことで
歪んでしまった世界観を
修正していったのだ


はじめは自分が自分に対して
サービスをしていく

これがものになってくると
対個人の他人に
それを使えるようになってくる

他人に寿司をふるまったり
職場の人間みんなの悩みをきいて
あげたり
会社の困っている部分を
直したりしてちょっと感謝されたり

こういう一つ一つが
全てリハビリとなり
新しい自分と世界との関係性として
少しづつ育っていくのである


そのバランスが安定してくると

トラウマとなっていた世界観に
対して
立ち向かえるくらいのパワーとなって
くる

ここまでくれば
後は社会生活の中で
試行錯誤しながら
調整していくことが
可能になる


圧倒的な自己コントロール感の崩壊
というのは自我が作り出した幻だが

自己コントロール感
そのものがそもそも間違いなく幻だ

しかしその幻がなければ
人間はうまく生きていけないのも
事実である


社会で生きていくために必要な道具
としては
最も根源的な重要道具であろう


ptsdの治療には
いくつかの療法があるが
根本的には
圧倒的な苦痛を生み出す
暴露療法しか今のところ
見いだされていない

ここに
私は自己コントロール感を取り戻す
という方向性からの
新たな療法が確立できるのではと

開発してみたいと
思っている













おたくが好き

2021-10-16 12:35:02 | ビジネス境界線
おたくというものがある

私が小さい頃は
ネガティブな印象だった

ただ
この成功した人もおたくだった
とか

おたく文化が
メディアで取り上げられたり

青年期頃にはおたくが
随分と市民権をえはじめた

そして
いつの間にか
おたくは広義の違う意味で
使われることの方が多くなり

どちらかというと
ポジティブな表現で使われることが
多くなっていった


自分がおたくであることを
堂々とおたくですと
言える風潮というのは最早

もともとのおたくの意味とは
違うものに変わっている事は
おそらく間違いない


何故なら
本来のおたくの意味そのものに
人に言えない
という意味が含まれている気がする
からだ


社会的に表だって言えない

これが結構大事な重要要素であり
この前提の環境の中で

自分の好きな世界観
vs
社会の世界観

この構図が生まれ

この社会の圧力に全く屈せず
自分の世界観を堅固に守り続け
追及している人


これが私にとってのおたくである

異世界に迷い混んでも
自分という一人の組織を
完全に守り抜きながら
自分の内側の世界を
保持し続ける事ができた
鉄壁系のリーダー擁する
一人の人間の組織

という定義が正しい感覚だ


今の世の中は
多様性ok
個人自由ok

あらゆるものを認めることが正しい
という道徳に社会がなりつつある


この環境下では
そもそも

個人の世界観と社会の世界観での
激しい闘い自体が生まれないのであり

今の時代は
おたくかどうか
見定める方法が本当はない

といっていいのではないか


しかし
この本当のおたく

すなわち鉄壁系最強防御力を誇る
リーダー能力をもつ人は

あらゆる社会の色々な部分に
転移する形で
現れていると思われる


すなわち社会と個人で闘いが
繰り広げられる場所で

自分の世界を守り抜きながら
生き延びられている人

これは本来の意味の
おたくと全く同じ分類の人であろう


優秀なリーダーにおたく系の
が多いのもとてもよく分かる

自分が避難される環境に
おいて鉄壁であるのだから


その闘いが
法律vs違法な個人の世界観
この場合には
残念ながら
社会的にそのおたく能力が
還元されることはまずないが

それ以外の人間社会のルールであれば
社会の変化に応じて
その鉄壁で守ってきた内なる
ガラパゴス世界の特異な進化が
ある時に社会にとって
大きな影響を及ぼす果実として
還元されるということは
非常に多くの実例から
わかることだ


私はこのおたくについて考えてきて

これが私の信念の核の一つである

オリジナリティー

とほぼ同様の意味あいを
持っていることに気づいた


私は小さな頃から
独特の嗜好があったが
やはりそれを公言できず
自分がおたくであると言われないように
社会に飲まれる方を選択してしまった


ひっそりと長年続けていた趣味もあるが
他人からの避難されれば
それに反論せずに他人側の一般視点から
相手に同調したり
おたく
になりきれなかった


おじさんになってから
私に怒った大きな
アイデンティティーの再構築は
正に
この弱ってしまった
おたく要素
オリジナリティー要素

これを呼び覚ます儀式であった

自己の世界観価値観を蹂躙され
完全な奴隷として生きさせられる
現実世界で初めて
そんな最大の敵に出会った事で


お前は100%社会に従って生きるのか
お前は100%自分に従って生きるのか

今選べ


この究極の選択を迫られたのだ


そして私は
秒速で自分に従って生きることを選んだ


とはいっても
何層にも積み重なった
社会基準による自我は
そう簡単にはパワーバランスが
変わることはない


一つ一つ

これは社会の基準だ
これは私の基準だ

という地道な弁別を行い
少しずつ体に
自分にとっての重要度を
逆転させていく
そんな作業が必要であった


これを続けて3年くらいたつと
私は随分と違う人間になっていた


もともとの社会基準の自我に
親役になってもらい
仕事で生活費を稼いでもらう

一方で成長がストップしていた
小学生のおたくの自我を必死に育て
おたく自我がようやく
遊び飽き
勉強したくてたまらなくなり
いよいよ社会で仕事をしようと
いう段階までようやく来たのだ


そして
今育ての親である社会自我と
育ったおたく自我が
それぞれの利点を相互に
利用できることが
少しづつ分かり
パートナーとして統合を向かえた

今まで社会をやって来ただけあって
3年ぶりに帰って来た社会自我は
おたく自我からすると
チート並みの能力を
持っている事に改めて驚いた


でもこちらの自我はいまいち
冷徹で合理的すぎるせいか
求心力という方面で弱い
実務家タイプ

ここに新たなおたく自我が加わる事で
わがままに
自分主導で
マイペースに
適当に
自分基準を貫きとおす
極めて人間くさい人格自我が
自分の方向性を守ってくれる

自分基準で人間臭く生きる人には
相性のよい人は興味を持ってくれる
そして自分以外の人にも興味を持つ
ここに勝手に求心力が起こる

人間くさく生きると
色々なタイプの人間が
わかるようになってくる


人の心や感情が
予想出来るようになると
人の行動に予想がたてられる
組織の動きが見えてくる
社会の未来が予測できるようになる


おたく自我を大事にすることで
これだけ多くの変化が
私の周りに少しづつ起こり始める
ようになった


躁鬱のような一進一退もあるが
それは新しい自分の形が
初めて社会を捉えて
試行錯誤しているのだから無理もない

そして確実に前進の方が強く
凄いパワーによって
自分のやりたい事に
突き進んでいく力を
体の中で感じる


オリジナリティー
おたく

というものが
生命としての現時点の私にとって
どれだけ大事なものだったのか

とても驚いている













演奏家の気持ち

2021-10-15 21:48:41 | ビジネス境界線
あくまでも

相手に伝わる要素は
音という
一つの要素になる


cdに焼かれれば
なおさらそれは

音でしかないであろう


その音を頼りに聴き手は
色々なイマジネーションを働かせる


音自体の音色や
ハーモニー
リズム
といった理論に分解され

概念というフィルターを通して
相手に届く


この符号化された情報は
デジタルであるといっていい

デジタルとは符号化の事である

共通言語の事である


こういう理論でこういう風に
組み立てられている

そういう世界が
音楽にもある



符号化には
たくさんの組み合わせが生まれ
限りない可能性が生まれるだろう

それだけでも
人間の1人生は
簡単に浪費してしまうくらいの
要素が詰まっている


しかし
生演奏というものには
符号化世界とは
違う要素があることは
聴いたときに人間は分別できる


それがはっきり認識できるかどうかは
勿論受けての個人差はあるが

誰でもしっかりその音に意識を向けて
いれば

その差は歴然となる


符号化という統一基準の中に
収まらない何か


それが何なのかは
受け手は表現できない

他人にそれをうまく伝えられる
ということは
それはすでに符号化の世界だからだ


しかし音楽を聴くことが好きな人は
この何かの要素にはまる人が勿論多い


それは共有が不可能であるゆえに
コアな自分だけの世界として

いわば瞑想による時間の過ごし方と
性質の一部を共にしている




ではその符号化できない要素とは何か


それは人間そのものである


演奏家という一人の人間要素を
音の中に感じているのである


例えばこのミュージシャンの
このフレーズはこんな印象
というのが

共有できないが
私にはしっかり伝わっている
という感覚がある


演奏家の発している人間性を
捉える事が
聞き手にとって
符号化されていない世界が
私の中に何かしらの形で
伝わってきている


その感覚を
じっくり味わうことが
楽しいのである



自分が楽器をひくと
聴き手の世界観と全く違うことが
よく分かる


本当に同じ音楽を中心に
捉えたものなのかと
いつも驚いてしまう


それくらい
聴き手と弾き手は違う


弾き手側が符号化された世界に
表せないものはたくさんある


まず
その曲が好きかどうか

そして
体の記憶
体の自然な動き
触覚の好みによる感情の表れ
体の記憶と脳の記憶との連携具合

1ミリという世界が
とんでもなく大きくなる世界観

自分の精神状態の表れ

人に聴かせるのか
自分に聴かせるのか

という職業上の
とてつもなく大きなアプローチの違い


こういったものが
常に変化する中で
弾き手は演奏をする

プロであれば
こういうムラを少しでも
安定させることも
大事な要素とする人もいれば


常に自分に向けた音楽を
何万という聴衆の前でも
実現できる集中力を発揮し続ける
演奏スタイルの人もいる


符号化されていない世界に
はまる人なら
勿論後者の演奏家が好きであろう


音楽を楽しんでいるのではなく
人と人のコミュニケーションの限界を
楽しんでいるようなところが
あるからだ



コンサートにいくと

「本日はピアニストの体調により
この曲はやらず代わりにこれをやります」

というような事が起こる


私は自分が聴きたかったもとの曲が
聴けなくてひどくご立腹だったのだが

弾き手の気持ちを考えると
正直しょうがないよなと
今は充分思える


自分の感情はコントロールできる
そう思い込んで生きている人は多い

そしてコントロールできる事が
一人前であるという風潮も
同時にある


しかしそれは幻であるから

コントロールされたような現象を
自我が「自分がやった」
と思い込む事ができる世界が
自我によって作られた自我社会である



しかし演奏家というのは
もう少しそれを潜った
深い部分で生活している

自分の状態は弾いてみれば
自分がよく理解できる


そう

自我はあくまでも
状態を後から教えられて
自分の状態を認識するのである


すなわち
苦手な曲をやろうとすると
体が拒否反応をする

これを克服することは
自我には出来ないのである


体調が良くないというのも
同じである

体調維持も
世界の影響を受けているこの体だけを
切り離して
自分の隊長をコントロールできる
それは不可能なことであり
体調がコントロールされたと
自我が認識したとすれば

それは生命が安定性の方向に
動いている
そういう性質を今私の体が持っている

それをただ認識しただけなのである
自我は何もしていないのである


急遽プログラムを変更した
ピアニストは

ただそれを認識しただけなのである

その結果
そのピアニストの曲は
ひかれることがなかった

それだけである


自我により自分を操作できる
という思い込みこそが

世界の人々は
自分で自分を操作するべきだ

という思い込みが生まれる


指が嫌っている
それをどうにかすることなど
自我には到底出来ないのである














感情を排除しようとするある人の話

2021-10-13 23:12:27 | ビジネス境界線
人間が嫌いだ
感情は全て排除するべきだ
性格検査何てものはとても恐ろしい
自分の心なんて絶対に知りたくない
自分に対してなんて考えたくないのだ

無機質な世界
心という世界は認めない
そんなものは私にとって
存在しないからだ

他人は
嬉しがったり楽しがったり
苦しがったり逃げていったりする

その仕組みはわからない
わからない事で
避難されることが非常に苦痛なのだ

だから勉強をするのだ
本を読むのだ
知識を得ると
人間の謎の行動も少しずつだが
予想が出来るようになってきた

こういう時に
人間はこうなる

この膨大な知識を
纏えば人間なんて怖くないのだ


自分の世界は事実だ
誰からも何も言われる筋合いなどない

だから私はその知識こそを神として
自分の世界を拡大させ
自分の命の真実性を高める

私の世界で存在できる知識によれば
組織とは人間を操作することだ

どうやって
最も効率的に機能的に
人間を操作できるか

それこそが私にとっての真理であり
私の世界を広げる真実だ



他人が自分が思ったように苦しむと
楽しいと思う

それは私の世界が
心の世界を凌駕した証だからだ
私の世界が今ここにあるからだ

だから私は
人の心という領域世界を
一切排除する事に積極的に
生きている

そして数は少ないが
たくさんの人間を試すと
私と同じ世界で生きることが
出来そうな人間が表れることもある

しかし慎重にならなければならない
いつだって人間は
何を考えているかなんて
わからないのだから
心に支配された哀れな生き物なのだ

私はその悪しき心の世界から
影響を受けることがない
希少な存在なのだ

私が人間を導く

私が腹心として近くに置くのは
人間の心を排除する事が出来る奴だけだ

私が認めて可愛がってあげるのは
私と同じ存在
すなわち
心のない物質世界
私と全く同じ存在に
なることができるもののみだ

仏教や禅の世界の知識も
私の事を悟りと表現して書いている
すなわち私は無我で生きているのだ

誰もが私の近くまできて
悲鳴を上げて精神病になる

近くなればなるほど
私はそいつに心を捨てさせるのだ
誰一人私と同じようになれない






私はいつも苦しい
無我でいる存在は苦しいのだ
それは尊いことである

世の中では心という重要な何かの要素が
扱われている

そしてそれはかつて
色んな場面で私を苦しめてきた


私の気持ち考えてるの?
この映画ここでぐっとくるよね?
誰々ってこう思うよね?
このサイコパス!
裏切ったんじゃなくて分かっただけ
コミュニケーションしたくないです



感情に振り回された人間は
こういうふざけた言葉で
私を罵倒してきた


だからこういう悪魔から
私は逃避をしてきた

そして
この悪魔によって出来ている社会にも
強烈な嫌悪感を抱いた
私だけが違う
この理解できない気持ち悪い社会で
過ごす事は私は出来ない


大きな事があった
女からの裏切り

この女も感情が原因で
くだらない行動にでたのだ

私は大きなダメージを追い
精神病になった


何千何万と考え抜いた結果
自分を表現出来る世界を
ついに見つけた

感情のない世界だ
そこでは人間という要素が否定される

私は間違ってなかった
私の世界が真実だったのだ

愚かな感情の世界を横目に
生きる世界の変更を選択した


知識があれば
随分多くの愚かな感情人間を
操れる事はもう知っている

だから導いてやるのだ

やつらは馬鹿だから
騙され金を奪われ怒る

しかし金を奪った方が
絶対的な勝利なのだ

こんな世界の真実を表している事はない


しかし怒った人間は
何を考えているのかわからない

私は突然そういった愚かな人間に
襲われるのではないかと
いつも不安いや恐怖を与えられている

愚かな感情人間がいることで
私は脅かされているのだ

だから私は自分の身を守る
感情人間にとっての幻である責任
という概念から可能な限り離れる

そのためには騙した人間を
綿密な計画で
肉壁として配置しよう

これは奴等にとっても
大事な修行なのだ

この責任という幻に打ち勝って
無我になる

すなわち自分以外に対して
感情人間から押し付けられる
責任というものを
感情人間に擦り付ける
という事は
感情人間にとっては浄化なのである



私は毎日毎日
頭が覚醒している

1日1~2時間しか寝ない
これも浄化中の感情人間どもに
私と同じ事が出来るか試す



私は怖い

人間が私に何をするのか
何を企んでいるのか
どんな気持ちで何をしてくるのか

全く想像がつかない

ただただ毎日が恐ろしい



※これは大きな経済犯罪を
犯し続けてしまう人の心の内を
シミュレートしたもので
勿論私の事ではありません






酒に酔うのは誰か

2021-10-11 23:21:41 | ビジネス境界線
なかなか難しいこの問題

初めて意識を飛ばしたのは
高校一年

何十人かで外で野外で飲んでいて
飲み過ぎて意識なし

原付で送ってくれたガキ大将
自分の家に二階からよじ登ろうとして
隣の家に落ちた

何とか家に入れたらしく
記憶は当然ない


次は大学に入ってからだ
何か鬱憤がたまっていたのかどうかは
わからない

音楽サークルだったもんで
クラブを貸しきったイベントを
やっていた

私は全然おしゃれな若者でも
何でもないが
ただただ酒に酔って
一生懸命ブレイクダンスみたいなことを
やろうとしてぶっ倒れた


そして記憶がなく
初めて意識を取り戻した時に
死にたいと思うくらいの後悔をした

誰にどんな風に思われているか
それを想像しただけで
にしそうになった

何とか仲間もわらって許してくれ
私は日常へと戻っていった



そしてつい最近
私はまたやってしまうのであった


しかし今回は随分と意味が違う

酒に酔って爆発して
意識を飛ばした張本人が
どうやら別人格なのである


よく若い時にやらかしてしまう
そういう事は
若気のいたりとか
黒歴史みたいな言葉で言われる


それは間違いなく思春期で起こる


私の新しい人格は

リスを見てははしゃぎ
山道を見ては興奮し
遠くに見える深い緑の山にうっとりし
いろんな虫に興味を持ち
自転車による行動範囲に感嘆し
原付の地を這う動きに驚き
自分でものを作る楽しみにはまり
海という新しい概念を恐れ
一人バーベキューの解放感に明け暮れ
半島を一周する喜びに明け暮れ
フェリーで新しい大陸に冒険を試み
海の中の未知数の生き物に思いを寄せ
ベランダのリゾート化にうっとりする


誰がどうみても
いいとしこいたおっさんの
行動ではない

私のだけがその行動を理解している
私の精神年齢は
小学校始まり
ようやく大学生まで育ち
これからビジネスの世界に
出ようとしている

それがこの2~3年で起こったことを
私だけが知っている


これはまさしく1人の人間が
大人になるときに辿る
思春期そのものであった

一つ一つに物凄い感動が
そこにはあった

今は育ってしまったので
同じ事をしても
お馴染み感動は得られない

女学生は箸が転んでも笑う
というような言い伝えがあるが
これはそれである


さけに酔って意識が飛ぶというのも
どうやらこの現象の一端であると
思われる

これは自分という存在
すなわち自我が
自分以外のあらゆる要素と
対峙していくその過程に
たまらない衝撃を感じ
全身を震わせる楽しいと
なるのであろう



私は新たな自我によって
意識が飛んだのだが
なかなか難しいひどい


精神的に参っていた友達の話を
聞いていたら
その友達のはけ口はキャバクラだった

今日はつきあうぜと悪乗りし
一緒に夜の町へなん十年ぶりかに
くりだした


私はキャバクラがしんそこ嫌いだった
しかしその日私は
キャバクラを楽しんでいたのである

この違いに私はビックリした
楽しみかたが一般の方とは違うと
思うが
若い女の人やそこで働くボーイさんなど
その人達の話をただ聞くのが
凄く面白くて
スゲースゲーって
バカみたいに楽しんだ

キャバクラのシステムなんて
接待でも嫌というほど知っているのに
本当に初めて経験したかのような
気持ちでどういうシステムなのかを
嬢から一から教えてもらい
スゲー!と興奮しまくる
ヤバいおじさんだった


そして最終的に何件か目で
意識がほぼとび思い出せない状況に
なった

何とか家まで変えれたが
記憶はまちまち
忘れ物をして
後日自分が行った店を探し
夜の町全体で捜索してもらうなんて
申し訳ない事になった

私の年齢は間違いなく18才くらいだった
何度もお礼を言って
チョッと怖い夜の町からそれ以来
遠ざかったが

今までの自分からしたら
信じられない行動だった


ここで
話を戻すと
酒に寄ったのは誰なのか

という事である


それはほぼ間違いなく言える事は

自我である

私の事を
私だと定義づけている主体
それが自我である

もう少し説明を付け加えるのであれば
「主自我」と呼んでもよいかもしれない

自分の中にはたくさんの自我が存在する

しない人もいるだろう
しかし
新しい自我はいつでもどこでも
新たに生まれる可能性を持っている


何故ならば
「性質」の特徴をそのまま写し出した
自我で生きている人は皆無だ

社会で生きていくなかで
「性質」と「自我」は
少し違うものになる

この不一致が起こる限り
無限大の自我が新たに作られる
可能性を人間はいつでもどこでも
秘めている

エピジェネリクスという遺伝子額の
考え方があるが

環境によってその遺伝子の表出する
性質は変化する

この考え方は
量産可能な自我概念との関係においても
ぴったりと当てはまる

性質にあってない自我もできる
性質に合わそうとする自我もできる
しかも
性質自体も変化するのだ
だから
性質変化による新しい自我もできる


あらゆるパターンで
自我は出来上がり
そして崩壊する事もありえる


しかし自我崩壊は
とてつもなく大変で
不安定な状況にもなる



酒に酔って意識をなくす行為は
この自我崩壊の
一つのシミュレートである

主自我が酔っぱらうことにより
麻酔を打たれたような機能不全になる

その間に現れるものは
従属的な自我
野党的な自我
そういった普段日の目を見ない
自我達が統合を失い
ワッと出てくることになる
そしてその先に見えるものは
「性質」である

ただただ勧業によって表出した性質

これが自我がない人間に表れる
核のようなものである

それは命と呼ぶなら命となるが
それを命という概念で捉えるものは
いつだって自我である

意識がない世界
記憶がない世界

この世界と
睡眠中の世界はある程度似ているだろう


私はいつでも意識がはっきりして
しまっているので
睡眠中はこの意識のない世界として
なかなか経験できないのだが

意識と記憶がストップしている
という世界があることを
皮肉にも自我の世界が
どうやらあることを
証明してくれていることは

この内のどれかの経験がある人は
理解できることと思う


風呂でシャワーを浴びている説きに
過労からか倒れた事がある

誰も目撃していない
頭から有香に倒れこんでいた
前歯を打ったみたいでひどく痛んでいる
シャワーが頭にかかり続けている


気を失ったのだと気づくには
自我の世界に戻った自分しか
証明できない

いやそれは表現が違うのかもしれない
私は気を失っていた時には
主体が自我から抜け出し

「自我でない何者か」に

主体が変わっていた

そういう表現の方が
最近では正しいと思えるようになった

その命がそこに倒れ
場合によっては死にかけている

という状況は
気を失っている時空の広場主体に
とっては
どうでもよいことである

その主体から見れば
何故なら自我も存在しないし
性質という概念もその視点では
興味のないものだから
だと考える


気を失う経験というのは
自我というものの輪郭を
体験として掘り出してくれる
随分と貴重なものだと思う

しかし気を失いたいとは私は思わない
そう考えているのは
まさに自分=自我だからである