内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

自己概念の変化

2019-12-19 23:13:33 | ビジネス境界線
自分とは

自分が認識している自己概念であると

とてもよく理解が進んでいるのですが


変化に強い人とか

最近流行りのレジリエンス
という言葉の意味も

要は
速度にあります



社会の変化が早いから

個人の変化も早くないと

追い付かない


何が起こっているかといえば


社会が変化することで
自分も変わっているのに

自分に対して思っている
自己概念が追い付かない

変化の早い社会と
個人のこの認識の変化のスピードに
アンバランスが生まれる事で

精神の疾患が生まれるのだと
思います


その変化の対応には
「平均」も設定されています


大きな社会の変化に対しての
自己概念の追い付けなさは
医学界でも
通常のものとして扱われます

自己概念の修正にかかる時間によって
通常に起こりえるもの
身体的な別の理由によるもの
そんな区別をしてさえいます

情動とは最も大きな感情の動き

小さな感情にしろ
大きな感情にしろ
この感情というものは

何かの事象について「こだわり」
すなわち
社会との間に「停滞」をもたらす
効果があります


ここに一つの生命として
社会という全体と
自分自身の差別化を感じる

一つの境界線の設定という現象が
生まれるのではないでしょうか


生命を感じることと
精神病は
常に表裏一体


生命を感じるための過程として
苦しい苦しい精神疾患が起こること

そんな装置が人間には
備わっていること


生きるための自動装置
自己概念の追及



熊谷守一のゲシュタルト

2019-12-16 23:10:05 | ビジネス境界線
小学校2〜3年の時の読書感想文に
志賀直哉の城の崎にてを選んだ
勿論自分の意思ではなく
親が選択肢を作った

その中から
(薄っぺらくてすぐ読めそうなもの)
これが私の選択である

中身は小学生からしたら
全体からさみしさしか漂ってこない
雰囲気を
・・・と無感情で読んでいたが
不思議とこの作品について
嫌な印象は受けず
何故か大人になっても
よく覚えていたのだった


大学に入りよく池袋の専門学校に
通っていた時に

帰りに素敵な建物を見つけた
熊谷守一美術館

こんなところに
いかした美術館があるんだな

表に飾ったあった絵を見て
はっとなる

この人の事をずいぶん前から
知っている気がする

この蟻

この岩

ものすごく響いてくる
なにかを感じるのでした


入りもしないし
何故知っているのかも
全く思い出せない

とにかく静かに気になるまま
大人になった


ふとあるときにに
家族と一緒にそこに
行くことになった


家族は出会う前からそこを知っていて
やっぱりいいところと感じていたので

自然とそこに行くことになった

私は全く思い出せないけど
何だか知った気にずっとなっており

あ、あそこね
いいねいこう

くらいの感覚だった


ただ行ったはいいが
自分が知っている何かの絵が
そこにはなかった

一つ一つの絵を丁寧に見回り
自分の中の一つの隠れたカギと
合わせていく作業を永遠と続けたが
結局見つけられなかった


でもこの絵はいいな
とても好きだな
昔から凄く好きな気がするのが不思議




そして大分たってから
家族と大きな熊谷守一の展覧会に行った


とても最高で
そこには見たことのない熊谷ワールドが
たくさんあり
それはそれはご満悦でした

でも
そこでも自分は自分の中の鍵と
一致する何かの絵に
出会うことは出来ませんでした


やっぱり
なんだけど

それだと思われる蟻の絵を
見てもどうしてもぴったりはまらない





帰りに楽しい
ミュージアムショップにより
ただただ徘徊モードで歩いて
いると
その瞬間は訪れました



単行本の城の崎にてが
並んでおり
その表紙には

「あの」蟻が


これだ
これです
間違いない

私の中の鍵は
この蟻です


確か物語の主人公は
最後の方に蟻を眺めてるのです


その小説と
この蟻が合わさって

初めて私の中の懐かしいが
完全に吹き出しました


こういうのをすっきりと
いうのかもしれません



私にとっては
この小説とこの蟻が
とても何だか味のある
素敵な感触としてのこっており
含めてゲシュタルトなのかもしれません

絵単体ではちょっとしか発動しない
というのも面白い



さておき

この美術展で最大の収穫は
熊谷守一がなんで
あんな画風になっていったのかが
よく解説されていて
特に
「山を見ると全て女体に見える」
そんなところでした


その瞬間

なるほど!

ととてもすっきりしたのです


誰かにとっての世界の見えかたを
違う他人が少しだけ
その人の認知の枠組みを
味わうことができる

そんな可能性を絵は持っている
視覚というのは
とても人間にとって大きな感覚だから


その誰かの感覚体系の一部を少しでも
感じることができると
美術館は交流の場へと変わります






人たらし

2019-12-13 23:10:20 | ビジネス境界線
この言葉からは
必要悪のような
ネガティブな要素を含みながら
何だか憎めない放っておけないような
印象を受けます


調べてみると
もともとはやはりネガティブな言葉で
使われてきたが
現代においてはむしろポジティブな
使われ方をしている
という事が分かりました

そして何より
人たらしの人の特徴に

何より人が好き

というのがあり
なるほどなーと
納得してしまいました



私は人たらしに対して
その表の顔から

信用ならない
うまくやりやがってと嫉妬
自分に嘘をついている奴だと軽蔑

こんな感じで好きではなかったのに
どんどん
本当の人たらしに対しての印象は
総じていうと
憧れに変わってきていることを
感じました

その理由はまさに
本当に人たらしになれる人間は
人間が好きであると感じるから

もっといえば
私が人間を好きになってきているので
同じものを好きな人が
自分の目標に変わってきているから



私は何人もの
物凄い人たらしと一緒に
働いた経験があります


人たらしの条件として
たらしこまなければいけないので
そこには
一定のウソの扱いがうまい
という能力が必要不可欠です

ここにネガティブな要素を
感じてしまうのですが

人たらしとして完成した人は
土台として人間が好きだからこそ
ウソを造っているということを
大人になって
よく理解出来るようになりました



でも私の知っている人たらしは
多くが大きな破滅に向かいました


一つの大きな事件は
内なる部分に大きな闇を抱えて
生きている人だったということを
まざまざと教えてくれます

でも
闇を抱えている人だから
人たらしになれたのだと思います


闇を抱えているという状態は
自分のという生命の境界線の認識が
不安定であると
この際言い切ってしまえば

闇のない人と比べて
自分は何か
他人は何か
いつでも人とは何かを
考えてきている土台が育ちやすいのです



人間観察
ヒューマウォッチング
が好きという人は
一定の数
自分自身の境界線が不安定だから
そこに興味を持ってきた人が
それなりに含まれます


自分の中の内なる問題を抱え

自分という一人の人間に興味を持ち

他の人間に興味をもち

それが
人が好きの一つの要因となっていること


その後の分岐として

人の特徴をうまくつかみ
その特徴に自分をうまく合わせる
テクニックを身に付けられる人


これが人たらしが生まれる
一つの流れなんじゃないかと
思います



そこからさらに分岐があるとすると

自分に嘘をつきすぎてでも
人をたらしこむ

自分以外を喜ばし続ける


社会の地位や立場の中での
人間関係は

その調整が難しくなったり
加速したりバブルします


気がついたときには

爆発

事件が起こる



みんなのために必死に生きてきたのに
どうしてこんな事件が
起こってしまったのか


社会は複雑だから

自分だけのフィルターで
人間を喜ばすことに
熱中しても

自分自身を喜ばせることと比べたら
決して完結しない泥沼だから
必然ともいえる



その人たらしの

個人と社会の認識が

あまりにもアンバランスだから

行くところまでいき

事件は起こる



こんなに人間が好きなのに


人間が作るそれぞれの境界線

2019-12-11 22:18:33 | ビジネス境界線
どこにどんな境界線をひくか

それはみんな違います


自分のためにどこにひくか

みんなのためにどこにひくか

によっても違い

とても複雑さを増します



でもそれぞれの人間に共通して言える
事は

自分が大事だと思っていること
に対して境界線は多くひかれる

という事です



例えば
この人のこんな細かいところが嫌い

という感覚は

実は細かいのが嫌いなのではなくて
重要だと大事だと思っている部分が
噛み合っていないから
そう思うのです


何か物差しがあるから
線がひかれるのであって

性格上
細かい
おおざっぱ
というのは

脳のシワの数の大小を比較する以外には
適用できないのが事実では
ないでしょうか



この人なんでここ細かいの?


これはそれだけ
あなたの知らない物差しが
存在している証拠でもあります



木を見て森をみない

大局を見失わない

こんなワードは
モノサシの違うもの同士が混在している

今時の言い方なら
ダイバーシティの時代だからこそ
感じやすい環境への感情



相手や環境が

何をモノサシにしているかは
最低限わかった上での

後は自分自身との対話


生きたいのであれば
ここは大切にしなくてはなりません


自分の基礎である境界線があるから
人間は生きていける


自分にとって大事はこと
他人にとって大事なこと
それはなんなのか

理解してから初めて
交渉
調整
の世界が始まります







反対ではなくバランス

2019-12-04 22:50:59 | ビジネス境界線
男の反対は女だけど

男に対してバランスするのは女

こういう考え方の方が大事と思う

反対のものと
バランスのものは
似てくるが根本的に違う


反対なものはその間の境界線が
既に決まっているから
反対という概念が生まれる


男と女でいえば
生物学類型のような物差しが
先に存在する上で生まれる関係である



バランスという関係は
こういうメカニズムではなく
片寄っている何かを
昇華するために必要な何かという
アプローチで生まれるものである


それは決して反対なものではなく
相互に補完し合う関係といえる


判断している主体の
2つの対象の捉え方にも
違いがあるかもしれない


反対を作り出す境界線の創造主は
2つの対象を
モノ
として見ている

バランスを感じる主体は
2つの対象を
自分の一部
としてみている


自分以外が絶えず動いている
という認識は

自分という生命が
それ以外のものに
自分自身を感じる
一つの基礎的な機能なのかもしれない


自分自身の一部だから
相互に補完しているという観点
すなわち生命の自分にとっての
物差しが適用できるのである


単純に反対なものは
死んでいる

自分の一部という概念は関係なく
2つの対象は
自分の生命の外側で
論じられるものである

だから自分の基準ではない

"学問""他人""知識"
を借りたモノサシが使われる

興味が薄いのである

動いていないと感じているのだから