小学校2〜3年の時の読書感想文に
志賀直哉の城の崎にてを選んだ
勿論自分の意思ではなく
親が選択肢を作った
その中から
(薄っぺらくてすぐ読めそうなもの)
これが私の選択である
中身は小学生からしたら
全体からさみしさしか漂ってこない
雰囲気を
・・・と無感情で読んでいたが
不思議とこの作品について
嫌な印象は受けず
何故か大人になっても
よく覚えていたのだった
大学に入りよく池袋の専門学校に
通っていた時に
帰りに素敵な建物を見つけた
熊谷守一美術館
こんなところに
いかした美術館があるんだな
表に飾ったあった絵を見て
はっとなる
この人の事をずいぶん前から
知っている気がする
この蟻
この岩
ものすごく響いてくる
なにかを感じるのでした
入りもしないし
何故知っているのかも
全く思い出せない
とにかく静かに気になるまま
大人になった
ふとあるときにに
家族と一緒にそこに
行くことになった
家族は出会う前からそこを知っていて
やっぱりいいところと感じていたので
自然とそこに行くことになった
私は全く思い出せないけど
何だか知った気にずっとなっており
あ、あそこね
いいねいこう
くらいの感覚だった
ただ行ったはいいが
自分が知っている何かの絵が
そこにはなかった
一つ一つの絵を丁寧に見回り
自分の中の一つの隠れたカギと
合わせていく作業を永遠と続けたが
結局見つけられなかった
でもこの絵はいいな
とても好きだな
昔から凄く好きな気がするのが不思議
そして大分たってから
家族と大きな熊谷守一の展覧会に行った
とても最高で
そこには見たことのない熊谷ワールドが
たくさんあり
それはそれはご満悦でした
でも
そこでも自分は自分の中の鍵と
一致する何かの絵に
出会うことは出来ませんでした
やっぱり
蟻
なんだけど
それだと思われる蟻の絵を
見てもどうしてもぴったりはまらない
帰りに楽しい
ミュージアムショップにより
ただただ徘徊モードで歩いて
いると
その瞬間は訪れました
単行本の城の崎にてが
並んでおり
その表紙には
「あの」蟻が
これだ
これです
間違いない
私の中の鍵は
この蟻です
確か物語の主人公は
最後の方に蟻を眺めてるのです
その小説と
この蟻が合わさって
初めて私の中の懐かしいが
完全に吹き出しました
こういうのをすっきりと
いうのかもしれません
私にとっては
この小説とこの蟻が
とても何だか味のある
素敵な感触としてのこっており
含めてゲシュタルトなのかもしれません
絵単体ではちょっとしか発動しない
というのも面白い
さておき
この美術展で最大の収穫は
熊谷守一がなんで
あんな画風になっていったのかが
よく解説されていて
特に
「山を見ると全て女体に見える」
そんなところでした
その瞬間
なるほど!
ととてもすっきりしたのです
誰かにとっての世界の見えかたを
違う他人が少しだけ
その人の認知の枠組みを
味わうことができる
そんな可能性を絵は持っている
視覚というのは
とても人間にとって大きな感覚だから
その誰かの感覚体系の一部を少しでも
感じることができると
美術館は交流の場へと変わります
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