ひこにゃん×ひこにゃん ブログ 彦根にひとつだけの花

ひこにゃん それは古城に住まう心清きみんなのねこ

いちファンの綴るレポート&おとぎばなしのブログです☆

インターミッション XXXII

2010-11-18 18:04:35 | 彦根ノムコウ
”【妄想】ひこにゃん”に捧げます。






Your Song 儂の謳はそなたの謳
第五章 ~開戦・2度目の“関ヶ原の戦い”~














9月9日、刑部の元にそれぞれ違う場所から書状が届きました。


「殿、立花殿と真田殿から書状が届いております」


「うむ、
 五助、読んでくれ」


「はっ、まずは立花殿の方から・・・

 “本日より京極高次殿の籠もる大津城に攻め掛かり候。
  必ずや短日の内にこの城を抜き、皆様の下へ駆けつけ候らえば
  美濃表にても力を惜しまぬ所存にて!”

 日付は昨日の九月八日になっております」




「流石は立花侍従殿、控え目な言葉にも戦意が漲っておられる!
 五助、吉報と参陣をお待ちしていると返書を認めてくれ」


「はっ、では次は真田殿よりの書状を。

 “本日、当城(信州・上田城)に徳川の軍勢が押し寄せ候。
  その数およそ三万八千、それに比べ当方は僅か三千にも及ばぬ態にて。
  されど軍略の限りを尽くし、必ずや大坂方の御為になる働きを仕るべし!
  なお攻め手の大将は内府が倅(秀忠)の様子、相手として甚だ不足なり。
  内府が現れず口惜しい限りにて候。”

 日付は九月二日でございます」


「徳川方の兵、三万八千か!
 随分な数じゃな、まさか徳川の本隊ではあるまいな・・・」


「兵の内訳は定かではありましぇんが、家康しゃんは東海道筋を向かって来てるはずでしゅ。
 今日あたりは三河・岡崎城に、明日は尾張・熱田に着くはじゅかと」




誰も答える事が出来ない疑問にスラスラと答えるお家元。
最早軍師の枠すら超えています。


「成程・・・・
 しかし安房守殿(真田昌幸)は痛快な書状を書かれるのう(笑)
 されどこれは空元気ではあるまい。
 彼の者の軍略を持ってすれば、徳川方は散々足る被害を蒙るであろうな」



この日、刑部の元に書状を届けた二人の武将は、広く天下にその名を轟かせている武将達です。


立花侍従宗茂(たちばなじじゅうむねしげ)

数多い逸話を残し、誰一人として悪く云う者が見当たらない、
九州にその人あり!と謳われた武将です。
秀吉は宗茂を
“その忠義は鎮西一(九州一)、その剛勇もまた鎮西一”
“東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる”
と言い、家康は秀忠への遺言に
“今後ますます立花とは懇意にせよ。されど決して十五万石以上の大名にしてはならぬ
 いかに心安く親しくしようとも、軽々しく扱えぬ人物である”

秀吉はその人物と武勇が並々ならぬ事を褒め称え、家康はこの人物が持つ天下への影響力に対して
息子ではとても扱い切れぬとし、終生警戒を怠らぬように遺訓としました。

立花宗茂(実は“宗茂”は晩年の名乗り)は予告した通り、僅か一週間で大津城を落としましたが
奇しくもその日は9月15日、“関ヶ原の戦い”と同じ日でした。
宗茂は戦の後も東軍との抗戦を望みましたが、毛利輝元はこれを却下。
その直後に領国筑後・柳川へ帰国しましたが、戻ってからも大坂方として戦を続け
大軍を相手にギリギリまで矛を収めずに戦い続けました。




真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさゆき)

真田幸村の父親と言った方が通じやすいかもしれません。
けれど当時真田の武名を天下に響かせていたのは、紛れも無くこの昌幸に由るものです。
偉大なる主君・武田信玄と謀略に長けた父・幸隆や勇猛な兄達の下
着々と軍才を磨き、武田家滅亡と信長弑逆の激動期を
巧みに乗り切り、その狭間で徳川方の大軍を退け(第一次上田合戦)
大いに武勇を轟かせました。

そしてこの度も刑部の予想通り、徳川秀忠の軍勢は真田昌幸・幸村親子に翻弄され
上田城を落とせないばかりか“関ヶ原の戦い”にも間に合いませんでした。
(第二次上田合戦)
真田家は徳川家にとって終生鬼門の家でした。
そして真田家と大谷家、石田家は強固な婚姻関係にあり絆の深い間柄です。

世上、石田三成が“戦下手”というレッテルを貼られた“武蔵・忍城の水攻め”は
近年の通説では、秀吉から遂行を厳命されたという事が窺えます。
(秀吉からの書状が現存します)
とはいえ結果は堤が決壊し、遂に忍城攻めは暗礁に乗り上げてしまうのですが
この時に同じ現場にいて組下として参加していた真田や常陸の佐竹義宣は
その一部始終をその目で見ているにも関わらず、“関ヶ原の戦い”では
迷わず三成の誘いを受けるのです。
真田も佐竹も暗愚な武将でもありません、ましてや現実感覚が乏しい訳でもないニ家が
“関ヶ原の戦い”では三成に乗りました。
この二家は大坂方が勝つ成算を見出し、三成の軍略を信じていたのです。

このニ家は大坂から遠く離れた地にいたので耳にしていた情報から無理もありません。
その頃、本拠地・大坂と美濃に集結した軍勢には
至る所に綻びの兆候が現れていました・・・・・




三成が反徳川勢力として築いたこの連合体は、毛利輝元を推戴したものの
当の輝元が招きに応じ意気込んで上坂した割には、明確な戦略を持っていませんでした。
当然です、挙兵までの計画は全て三成が練ったものですし
輝元自身が独裁的な人物では無かったからです。

そのせいではありませんが、実質的な総司令官には豊家と関わりの深い
貴公子・宇喜多秀家が就く事になりました。
この見目麗しい若き大老は、大老中最も豊家を愛していたと言っても過言ではありません。

この図式では緒戦から輝元が出馬する必要性がなくなり、持っていた不退転の覚悟が
次第に薄れていきました。

また三成が広めた噂を信じて大坂に出馬した諸将には、戦意旺盛な者も数多くいましたが
家康を慕っていたものの足止めされ、否応なく大坂方に組するしかない者も多くいました。
上層部に明確な指揮系統が見られない事は、大坂に参集した諸将は直ぐに見抜きました。
それは戦意の薄い者の意識をさらに加速させていきます。

そのため戦の前に東軍に“繋ぎ”を付ける者が続出しました。
けれどそれは完全に大坂方に見切りを付けたという訳ではなく
いざという時のための“保険”です。


中にはハッキリと居城に立て籠もって叛旗を翻す者もいます。
これは刑部の担当した方面でさえあった現象で、堀尾吉晴や京極高次がそうでした。

またひどく不鮮明な行動に走る者もいました。
小早川中納言秀秋です。


関ヶ原を語る上で外せない18歳のこの若者は、偉大な義理の叔父(秀吉)に翻弄され続けた若者です。
この若者が家中でどれだけイニシアチブを握っていたかは不明ですが
義理の父である小早川隆景から受け継いだ名家には、それに相応しい名立たる家老がおり
そのせいでかなり意向が制限され、自由に振舞えなかった事が窺えます。

この局面に遭遇した若者に、多くの者が如何に振舞うべきかを示唆した事でしょう。

それを受けた秀秋は初戦の伏見城攻めに参加した後は、伊勢方面軍に編成されましたが
同道していた毛利秀元や吉川広家から途中で離れて近江まで引き返し
病と称して臥せ、軍を停滞させます。
小早川の陣からは再三家康に使いを出しているのが記録に残っています。
その後、大坂方からの如何なる指示や懇願にも言を左右にし、
“関ヶ原の戦い”前日の9月14日に、毛利輝元の為に設えた
松尾山新城の在番・伊藤盛正を追い出して、1万5千の兵で半ば強引に松尾山に入城しました。
最も大事な場所に、最も去就の怪しい者が入った事になります。


お家元は勿論こうなる事を知っていましたが、事前に刑部に告げる訳にはいきませんでした。
歴史が変わってしまうような助言は一切出来ません。
この様子を隣りの山中村から窺っていた刑部にも成す術がありませんでした。

その日の夜、大垣から大坂方の面々が大移動を行い、西上する東軍を迎え撃つため布陣しました。
松尾山新城に入った秀秋に面会を求めて三成が向かいましたが、秀秋は病と称して
会いませんでした。
その帰路、三成は刑部の元にやって来て、秀秋に会えなかった事を伝えました。
予告もなしにやって来た三成にお家元は大いに慌てましたが、
何とか会わずにやり過ごす事が出来ました。

この時に護衛で連れて来ていた父譲りの立派な体躯を持つ若者を、三成は刑部の元へ留めました。
彼こそが嶋左近の息子、嶋信勝です!

嶋信勝はこの当時流行っていた当世具足ではなく古風な大鎧を用いており、そのセンスが窺えます。
三成が去った後に、お家元はこの若者にも話し掛けました。


「ひこにゃんでしゅ、こっちはタイガーしゃんでしゅ!」




二人が打ち解けるのに時間は掛かりませんでした。
雨が降り日付が変わりました。










慶長5年(西暦1600年)9月15日
美濃国 関ヶ原

“関ヶ原の戦い”当日







小高い傾斜地に構える刑部の陣の麓で、陣を整えていた平塚為広と戸田勝成が
ある事に気付きました。


「戸田殿、あれは・・・」


「おや?」


使い番が一騎、陣の前を駆けて行きます。
その背には赤い母衣と“二引に大一”の指物があり、石田家の使い番なのは一目瞭然です。
平塚と戸田が気を止めたのは、その使い番ではなく
後に続いて駆けて来たタイガーしゃんに跨ったお家元でした。


「ぬこ殿、如何された!?」


「ぬこ殿!」


お家元達は呼び止められた事に気付いて一瞥しましたが、“そんな訳がない!”と
視線を正面に戻して止まる事なく笹尾山の方へ使い番と共に駆けて行きました。


「何か大事が・・・?」


「はて・・・」


「ひこにゃんの無礼をお許し下しゃい、お二人しゃん」




「!!」


「ぬ、ぬこ殿!!??
 あそこを駆けて行くあの者達は・・・・・???」


「ありは半年前に来たひこにゃん達でしゅ。
 三成しゃんの陣に向かうために佐和山城から来たんでしゅ」


「さ、左様で・・・・・」


二人は以前その件をチラッと聴かされていましたが、流石に面を食らいました。
どんな戦場であろうと動じない胆力を持った二人もこれには仰天したようです。
お家元と一緒にその様子をひと目見ようと付いて来ていた
大谷吉勝と木下頼継、嶋信勝も同様でした。


「あのぬこ殿達は、これから殿(三成)と親父殿(左近)に会いに行かれるのですね・・・」


「あい」


「いやはや・・・面白いものですなぁ、兄上」


「頼継、儂はもう何を見聞きしても驚ろかんぞ(笑)」


「傍から見たらあんな感じなんですね、私達って(苦笑)」


これはタイガーしゃんの感想です。

戦の前の1コマでした。






お家元達が出払っている頃、刑部は山中村の藤川台にあった陣小屋にいました。


「(・・・・・・・・・
 ぬこ殿は最初に会った日に、九月十五日までの供を願っておった・・・
 つまりそれはこの戦が今日一日限りの勝負だという事だろう。

 だが謎はまだある・・・・・・
 ぬこ殿の本当の目的が何なのかだ、まさか戦見物に来た訳ではあるまい・・・・・・)」


「殿?」


「何だ、五助」


「いえ、お加減が良くないのではと・・・」


「大事ない、心配は無用じゃ」


それぞれの夜が過ぎていきます。









夜が明け辺りが白々としてくる頃には、回りを囲む山の頂から
この狭い盆地に霧が吹き降りてきました。
あたかもこの地に集まった十数万人を覆い隠すかのようです。

空気は冷たく一晩中雨に打たれた身体には堪えます。



お家元はこの地にもう一人自分が居る事に不思議な感覚を憶えました。
笹尾山には半年前の自分が居るはずです。

思えばあの日の自分はこの雰囲気に圧倒され、大事に思い至れなかったと
悔いが残ったものでした。
ですが今は不思議と心は澄み、心強い者達に囲まれ自分もその一員なんだという
手応えを感じていました。
これは長期に渡って友情を培う事が出来た事と無関係ではありません。
半年前には味わえなかった感覚です。

だがその戦友達との別れはもう直ぐそこまで迫っていました。




この日刑部が配置した陣立ては
大部分の兵の采配を平塚為広に預け、戸田勝成と共に第一陣とし、
第二陣に大谷吉勝と木下頼継を置いて正面に備え、
脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保の四隊を小早川勢のもしもの抑えとして
松尾山麓に配置しました。
刑部自身は精鋭六百を従え、松尾山に備える構えです。
刑部が正面よりも南側面に対して重点を置いていたのが解かります。


静寂が支配していたこの地に、激しい大量の種子島の轟音が鳴り響きました!
その直後、攻めかかる兵達の掛かれの叫び声が聞こえ戦端が開かれると
次第に全体に伝播していき、関ヶ原全体に拡大しました!


大谷隊が最初に相対したのは寺沢広高隊で、陣取った山際の地形を活かして
寺沢隊を蹴散らしました!
その後、隣りの宇喜多隊の危機を感じ救援に向かったところ
それを阻止しようと掛かって来た藤堂隊と京極隊、織田隊の圧迫を受け
戦は陣形を保つのも困難なほどの乱戦に突入し、正に死闘の連続となりました!

泥に塗れながら何度も掛かれと退けを繰り返しながら、大谷隊は決して崩れる事なく
よく士気を保って戦いました。
お家元とタイガーしゃんは、高所の藤川台からその用兵ぶりを見て感動していました。





本格的な戦闘に突入して3時間が過ぎた頃、それでも静まり返っている松尾山の軍勢が
重要な意味を持ち始め、この隊の行方が勝敗を左右するようになっていきます。

その意味に双方の首脳は早くから気付いていましたから、
三成は戦闘中にも頻繁に使いを出しました。
家康も石田勢と激しい戦闘に突入した黒田長政に使い番を走らせ
“小早川は本当に味方するのか?大丈夫だろうな?」
といったくどい確認をせずにいられないほど焦っていました。
(小早川を味方に誘ったのが黒田長政だったからです)
家康は今日まで小早川からの使いに対しては他の者達と違い、素っ気無く対応していましたが
まさか当日これほどの意味を持つ戦力になるとは思ってもいませんでした。
家康はもう噛む爪がなくなっていましたが、それでも噛み続けていました。

この局面で家康が出した答えは、それでも方針を変えず高圧に出た事です!
この人物はやはりただ年齢を重ねただけの暗愚な武将ではありません。
人を見る事にかけても熟達した経験を持った名将でした。


「鉄砲頭に伝えよ!
 松尾山山麓から金吾(中納言の別称)の陣へ向けて一斉に放てとな!」


「殿、畏れながら麓からではとても山頂の陣まで種子島は届きませぬが・・・・」


「誰が当てよと言った!!
 放つだけでよい!
 早う伝えよ!!!
 手遅れになるぞ!!!!!」








藤川台の高所から戦場全体を見ていたお家元とタイガーしゃんは、
この広大な戦場の中で不自然な動きを始めた一隊に目を止めました。
タイガーしゃんもこの旅で戦場の呼吸が感じられるまでに成長していました。


「お家元、あれは・・・・・!?」


お家元はその一隊の狙いが何なのか解かり過ぎるくらい解かっていたので
表情が強張り言葉が出ませんでした。

鉄砲隊は松尾山に向けて一斉射撃を放ちました!
それはこの戦場では特に目立つ行動でも、轟音でもありませんでした。
目に止めた者がいたとしても、届かない発砲はさぞ滑稽に見えた事でしょう。

だがこの戦場でその行動の意味に気付いた人物が二人いました。
一人は標的にされた当の小早川秀秋自身です!
秀秋は自分に向けられた発砲が

「何を愚図愚図している、小僧!
 さっさと動かぬか!」

と家康に叱責されたかのように感じました。

もう一人はその経過を聞いていた刑部でした!!


「流石は内府・・・・・」


刑部は自分達には絶対出来ない行動に踏み切った家康を認めました。
太閤の義理の甥である秀秋は主筋同然だからです。

その結果、小早川の采配は大谷勢に向けられる事になり
家康の放った布石で動くのを躊躇っていた山が遂に動きました!



それを笹尾山から見ていた半年前のお家元は思わず目を覆いましたが
今日のお家元は松尾山から目を逸らしませんでした。


「ちゅいに始まってしまいました・・・・・」




松尾山から駆け下りてくる人馬の群れが、お家元には失敗の許されない
大切な役目へ引きずり込む無慈悲な雪崩のように見えました。










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