ひこにゃん×ひこにゃん ブログ 彦根にひとつだけの花

ひこにゃん それは古城に住まう心清きみんなのねこ

いちファンの綴るレポート&おとぎばなしのブログです☆

インターミッションXXXXIV

2013-05-02 21:43:21 | 彦根ノムコウ
“【妄想】ひこにゃん”に捧げます☆





巨人と才人 “磯うつ波の謳”

第二章 “井伊直弼・埋もれ木と柳”



       



2013年4月某日
彦根市 尾末町 埋木舎






「一杯いかがなりか?」


「いただきましゅ!」

       


カモンちゃんの昔話に聞き入りながら、お家元は出された膳を食し、お酒の代わりにミルクをいただきます。


「ひこなんは“ちゃかぽん”という言葉を知っているなりか?」


「あい、知ってましゅ!
 キャッスルロードにあるうどん屋しゃんの事でしゅよね、いつか全メニュー制覇したいなって思ってましゅ」

       


「確かにあるなりな(苦笑)

 実はその屋号がカモンのあだ名から付けられているのは知っているなりか?」


「カモンちゃんは昔うどん屋しゃんだったんでしゅか???」

       


「ふふふ、“ちゃかぽん”というのはお茶と歌(謡)と鼓を模した呼び名なりよ。
 当時、埋木舎に住んでいた頃のカモンのあだ名なり」


「しょういう意味だったんでしゅか!」


「当時カモンは、生涯部屋住みとしての運命(さだめ)を享受し、前向きに生きていこうとしたなり。
 
 そこで頭に浮かんだのは、父上(井伊直中)のお姿だったなり。

 生前の父上は実に多芸を極めた方で、茶道・香道・能・蹴鞠などを嗜まれていたなり。
 さらに長浜から曳山歌舞伎を呼び寄せるなどの鑑賞眼もお持ちで、カモンもご一緒したのを覚えているなり。(※注1)

 そんな父上の生前のお姿に憧れ、カモンも芸事を習い、出来るならばその道を極めようと思い立ったなり。(※注2)」 


「いい心掛けでしゅね」


「うむ、それからカモンは一日の睡眠時間を4時間ほどとし、それ以外の時間は、茶の湯(※注3)、和歌、鼓、華道、禅(※注4)、陶芸、能、狂言、剣術、槍術、柔術、居合術、砲術、兵学、国学、儒学、西洋事情、開国論など、ざっと上げればそのようなものを習得するのに夢中になったなり。」


「え~~っと・・・とても覚えられましぇん」


「構わないなりよ(笑)

 実はなひこなん、その頃の埋木舎があった尾末町は100~300石の藩士が住む一角になっていて、この前の道は毎朝登城する藩士の通り道だったなり。
 そんな藩士達は我が屋敷を横目に見ては、ここが部屋住みの“ちゃかぽん”が住む屋敷だと、声も憚らずに通って行ったものなり。」


「仕えるお殿様の弟に対してでしゅか?」


「それが部屋住みに対する世間の常識的な反応なりよ。

 まぁ、当のカモンは毎日習い事に忙しかったお陰で、余計な言葉に耳を傾ける余裕はなかったなり。

 もっとも習い事に出た先で、あからさまにカモンに無礼な言葉を投げかける者もいない訳ではなかったなりが・・・
 それでもな、ここに戻って庭の柳の木を眺めると不思議と心は静まったものなり。

 カモンとって柳の木は、大いなる慰めだったなり。(※注5)
 
 


 そんな修養三昧と世捨て人のような暮らしの中でも、心に火を灯す出会いはあったなりよ!(※注6)」


「そりは重畳でしゅね」


「そんなカモンの人生が180度変わったのは32の時だったなり。

 直亮兄上の跡継ぎとされていた直元兄上が亡くなられてしまい、たった一人残っていたカモンが急遽次期藩主として白羽の矢が立ったなり!
 その後は直ぐに大名見習いとして江戸に向かい、生涯登る事など無いと思っていた江戸城に出仕し、公方様(江戸幕府将軍)のお目見えを得て、直亮兄上に厳しい教えを受けたなり。
 大名同士の付き合い方に駆け引き、礼と作法と独特の仕来り、藩主としての心構え、覚える事は山ほどあったなり。
 そんな中でも直亮兄上が最も大事とカモンに諭されたのが、井伊家の当主が果たさねばならぬ重要なお役目についてだったなり。」


「“大老”というやつでしゅね」


「その通りなり!
 歴代の井伊家の藩主達は、それまで何度も幕府最高執行者足る“大老職”を勤めた名門中の名門であれば、いずれカモンもそのお役目を賜る日が来るかもしれないと戒められていたなり。


 カモンは自分の運命が不思議でならなかったなり。
 それまで生涯を埋木舎で朽ち果てていくものと諦めて、お堀のこちら側から毎日眺めているしか出来なかった彦根城・・・
それは実際の距離よりも遥かに遠く、決して手など届かぬ隔たりをもったものだったなり。
それが突然、全ての家臣を従える身となり、江戸にては譜代大名として国政に携わる命を帯び、果ては公方様に準ずる位にまで登り、幕府の頂きに立たねばならぬとは・・・・・

 なんという使命、なんという重責、武士として生まれてこの上ない最上の栄誉!
 カモンは震えて涙したなり、その喜びに!その生きる目的を得られた幸福に!

 























「・・・その後のカモンの足跡は言うまでもないなりな。
 徳川家(とくせんけ)を御守りしたいという一心で、カモンは強硬な姿勢を崩さず、御三家、御三卿、西南諸藩に屈する事なく、一命を賭して励んだなり。

 たとえこの身が砕かれようと、たとえ我が魂魄が滅せようとも、ただただ徳川家の御為だけに、尽くし参らせ奉る!

 我が身がどんな最期を迎えようとも悔いはなかったなり。


 琵琶湖に打ちつける波が何度も何度も打ち砕けては引く事を繰り返すように、この世の為に心砕いて勤めた日々は、決して・・・」(※注7)





 



 








繰り返し続くカモンちゃんの無言の想いを、お家元は邪魔せず沈黙をもって応えました。
お家元はカモンちゃんが幕末に果たした業績の数々を少なからず認知しています。

それをどうこう意見する気は勿論ありません。

カモンちゃんは自分にとって朋友とも呼べる者であり、同郷の偉大なる先人の一人です。
その立場を自然と擁護したくなるのは当然です。



お家元がこの時点で考えていたのは、この後カモンちゃんがどちらに話の方向を向けるのかという点でした。

“どちら”!

そうです、お家元はこの話の顛末が二択のどちらになるのかまで読めました。
そしてその二択がどちらの目的になっても、方法はひとつだけだという事まで。













「ひこなん、カモンには聞いて貰いたい願いがあるなり」


「(しょらきた!)」とお家元は思いました。


「カモンは会ってみたい方々がいるなり、それも二人!」


「だりとだりでしゅか?」


「茶聖・千利休殿、豊臣家奉行・石田三成殿!」


「二人とも安土桃山時代の方でしゅね」


「そうじゃ、これまでなら望むべくもなかったなりが、ひこなんがいるなり!
 “タイム・スリッパ”が出来るようになったひこなんが!」

カチャンカチャン!


「頼む、ひこなん!
 カモンを16世紀の世に連れて行って欲しいなり!」


カモンちゃんは並べていた貴重な茶器をどけもせずに、ただその想いを願い、頭を下げました。










「(やっぱり・・・)」とお家元は思い、沈黙せずにはいられませんでした。


去年、龍たんの逆鱗に触れた時にカモンちゃんが持ち出していた“茶湯一會集”の訳もこれで解りました。
あの時からカモンちゃんは願っていたんだなぁと。

そしてこの一年以上の間、カモンちゃんはその機会を窺っていたのでしょう。
今日の茶事がお家元の労いから、カモンちゃんの話しに実に自然に移行していったのは偶然ではありません。
しかもこんな身の上話を聴かされた後では、断る事も難しいです。


「(やらりた!)」と、お家元は思いました。


お家元は散らばってしまった茶器を見渡し、これを博物館から借り受ける苦労を想像しました。
しかもあろう事か、苦労して借りたはずの茶器を気にせぬカモンちゃんの情熱。

もしカモンちゃんが茶器を冷静に隅に片付けて頭を下げていたら、お家元はその願いを聞く気になれなかったはずです。

お家元はカモンちゃんが“タイム・スリッパ”を願う事を、次郎法師しゃんの話を打ち明けた時に気付いていました。
あの時のカモンちゃんが目をキラキラさせて聴き入っていたのを、昨日の事のように覚えています。

その時カモンちゃんが願うのは、自分の過去の修正か?はたまた全く関係のない別の時代なのか?
これまた幕末の自分の過去に手を加えるつもりだったなら、聞ける願いではありません。
二択の選択が後者だったのは幸いでした。







「・・・無理でしゅね」

       


カモンちゃんが泣きそうな顔を上げました。


「今日は疲れたんで、もう行く元気がありましぇん。
 後日、行く日を決めて向かうでいいでしゅか?」


「あ、ありがとうなり!ひこなん!」


「ただし、向かった先では、ひこにゃんの言いつけは絶対守って下しゃい。
 タイムスリッパするタイミングも任せてもらいましゅから!」


「約束するなり♪」


ここでどんな無理難題を出しても、行けるとなればカモンちゃんは聞くんだろうな、とお家元は苦笑しました。




「そりじゃあ、後日また」

       


「恩に着るなり、ひこなん」


埋木舎の門前まで見送りに出てくれたカモンちゃんと別れ、お家元はお城に戻りました。


「しょれっ!」




華麗な台車使いでコーナーを曲がっていくお家元を、カモンちゃんは見えなくなるまで見送っていました。





       つ づ く









次回予告 )


カモンちゃんが会いたがっていた“巨人・千利休と才人・石田三成”。

二人に会いたがったカモンちゃんの胸の内とは?





第三章 “田中与四郎・若き日の茶聖”







― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 



Nukopedia
ぬこペディア


お花の百科事典







※注1)井伊直中公(いいなおなか)

カモンちゃんの回想では、既に隠居していた井伊直中公の姿なので、芸事中心に終始していますが、その足跡を藩主時代まで遡ってみますと、歴代藩主の中でも中々の名君です。
 
父(直幸公・いいなおひで)の死を受けて直中公は藩主を継ぎました。
直中公が藩主になった寛政年間は、江戸時代三大改革の一つといわれる「寛政の改革」の頃で、徹底した倹約政策が勧めれており、直中公も父・直幸公の政策を引き継ぎました。
父・直幸公の遺金という名目で領民に援助金を与え、城下町の防火対策を見直し、新田開発を進めるなどしています。
また藩士の教育も重視しており、藩校・稽古館(後の弘道館)を設立して、剣術、槍術、弓術、馬術、砲術、算術、天文学など幅広い教育に力を注ぎました。
直中公自身も砲術に関しては、米村流の奥義を極めて「一貫流」という流派を興すほどの文武両道の藩主でした。
直弼も直中公存命中の15の歳から、通いで学んでいたと謂います。
弘道館の一部は、現在の金亀会館に残っています。

本文にあった長浜・曳山歌舞伎は直弼が11歳くらいの頃の出来事だと思います。






※注2)直弼の決意

ここではカモンちゃんは前向きな言葉で結んでいますけど、実際の直弼公はこうした指針を自ら立てなければ、奮い立つ事が出来ず、その絶望は深かったようです。
その一端は(※注4)の解説で後述します。






※注3)茶の湯においての直弼

・茶の湯は石州流の片桐宗猿に学び、数々の茶の湯の手引書「栂野みちふみ」「閑夜茶話」「入門記」「茶湯一会集」「炭の書」「灰の書」 を著述し、弟子は18人を数えるそうです。






※注4)禅の修養

・直弼が禅の修養を始めたのは13歳からと謂われており、参禅していたのは佐和山の麓にある井伊家の菩提寺のひとつ“清凉寺”。
清凉寺21世・道鳴、22世・師虔、23世・仙英の三代の住職に学び、道場には直弼が修養に使っていた椅子が遺されています。
また埋木舎には座禅の間も設けるほどで、22世・師虔には格別な尊敬を持ち、師虔示寂の際には相当落胆したらしく、闇夜に火を失う、盲人の杖が無き心地と歌うほどでした。
興味深いのは、この歌の中で直弼が現している自らの境遇です。
尊敬する住職を闇夜の火や盲人の杖と頼りにしたのは解りますが、火と杖がなくても直弼の普段の心地が闇夜であり、盲目に等しいと表現している点です。
この寺で後に直弼は悟りを開いたと、住職からお墨付きを戴きます。




※注5)直弼と柳

直弼はとても柳を愛していたそうです。
今では桜の名所としての方が有名な彦根城ですが、お堀に植えられた桜の歴史は意外に浅く、大正時代から植樹が始まって、昭和になってから彦根市民の吉田繁治朗氏や市によって大規模な植樹が行われました。
それ以前には柳を愛した直弼がお堀に植えたともいい、柳の名所とも聴きました。

 そよと吹く 風にたなびきて すなほなる 姿をうつす 岸の青柳

と、直弼が謡った歌や

  むっとして 戻れば庭に 柳かな

という、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て、心を落ち着けたというエピソードがあるそうです。
それほど直弼は柳をことのほか愛しており、号にも「柳王舎」を使うことが多かったと謂います。

また、直弼誕生以前から彦根城下で営業している“いと重菓舗”さんは、部屋住みの埋木舎時代の直弼から付き合いがあったそうで、銘菓“柳のしずく”は直弼公自らが木型に柳の文様を彫り、それを以って作られていたそうです。
ただ現在では、流石に直弼公自らが彫られた木型を傷めるのは偲びなく、同じ模様の複製の木型を用いられて作られているそうです。

さらに彦根城のお堀を航行している屋形船の名前には“柳王丸(りゅうおうまる)”があり、現在でも直弼を偲ぶ痕跡は彦根の其処彼処で見受けられます。





※注6)心に火を灯す出会いとは

ここでカモンちゃんが言う出会いとは“村山たか”と“長野主馬義言(ながのしゅめよしよき)”の二人です。
埋木舎時代の部屋住みでしかなかった直弼と出会った二人でしたが、直弼の出世に伴い数奇な運命を辿ります。
長野は直弼の藩主就任に伴い、長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)となり、代わりの利かない右腕となってゆきます。

2009年の9月30日に更新した“インターミッション お蔵出し”の中で、加藤清史郎くんをモデルに描いたのが、その長野主膳のパロディーになります。







※注7)直弼、覚悟の弾圧

直弼は藩主に就任すると、江戸城内では溜詰(たまりづめ)となりました。
溜詰というのは、溜之間(たまりのま)に詰める者という意味で、将軍謁見のための控室・詰所とされていた伺候席(しこうせき)の一つです。
溜之間の上席には大廊下(おおろうか)と大広間(おおひろま)があり、大廊下には将軍に準じる家系・御三家・御三卿などが詰め、大広間には国持ち大名と四位以上の官位を持つ外様大名などが主となります。
溜之間は第三席の位置で、松平容保の会津藩もこの席でした。直弼と容保が同じ部屋で意見を交わしていたのは日常の出来事だったはずです。
溜之間にいた頃の直弼は人当たりが良く実直な人物というのが、同室の大名達の大方の人物評価でした。
が、ある日突然(正に突然でした)、家格もそのままに上席の大名達を飛び越えて大老に任じられた日から、その人柄は豹変します。
その豹変ぶりには、かつての同輩の大名が首を傾げるほどだったと謂いますが、後の歴史を知り、当時表に出る事の無かった直弼の覚悟や心情を知る事が出来た後世の私達には、その豹変した理由が容易に想像出来ます。

幕府の大老となり、安政の大獄(実はこれは明治になってからの名称で、当時は“飯泉喜内事件”などと呼ばれていたそうです)に着手して不穏分子を徹底的に排除しようとした直弼は、その反動も勿論覚悟の上でした。
それを示すかのように、彦根清凉寺の23世住職・仙英と相談して自ら戒名と位牌をつくり、さらに自身の肖像画に歌をしたため納めたのです。(暗殺直前の正月に作成)
位牌に記された戒名は、大河ドラマ“八重の桜”でも登場した“宗観院殿柳暁覚翁大居士”。
肖像画にしたためた歌が、このお噺のタイトルにもした“あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな”です。





※注7 補足)

上記したように、譜代筆頭の35万石の大藩・彦根藩と云えども、江戸時代の家格に照らし合わせてみれば、外様の大名はいざ知らず、大廊下に詰める御三家・御三卿に比べれば遥かに下位の席順で、普段から平身低頭しなければいけない身分です。
それでも大老ともなればそういった上位の方々をも自由に指図する権限も付与されますが、家格自体が上昇した訳ではないので、相も変わらず大廊下の方々と接する際には、頭が上がらないという矛盾を抱えていました。
これは現代の会社で、かつての上司を部下に持つまで出世した苦労よりも、遥かに哀れな環境です。
それでも直弼はその一線を遂に越えるのです!

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。