MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2007 選挙に行くことの意味

2021年11月03日 | 政治


 10月31日に投開票された第49回衆議院議員総選挙の投票率は、速報値で55.93%。4年間に行われた前回(平成29年)衆院選の最終投票率は戦後2番目に低い53.68%だったので、それよりも2ポイントほど上回る結果となったようです。

 今回の選挙に当たり総務省では、若者に人気のアイドルや芸能人などを起用して、投票率上場に向けた様々なキャンペーンを行ってきました。そうした効果もあってか、投票率の低下が懸念された今回の総選挙では、長年下落傾向にあった国政選挙における投票率に、なんとか歯止めがかかった形です。

 しかし、「よかった、よかった」と喜んでばかりもいられません。菅首相の突然の退陣表明とそれに続く自民党総裁選。コロナ禍で政治のありかたに関心が集まる中、メディアでは幾度となく特集を組み、雰囲気は上々と感じていました。しかしそれでも、有権者の約半分しか投票行動に移していないという日本の社会の現実を、私たちはどう捉えるべきなのか。

 こうした現実に対し、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が10月21日の自身のブログ(「橘玲の日々刻々」)に『「政治的無知」が大多数の現実と民主制(民主主義)が抱える問題点』と題する興味深い論考を掲載しています。

 そもそも、現代の(「先進国」と呼ばれるような)民主主義国家における有権者の実態はどのようなものなのか?…実は、こうした問いに関する調査はアメリカではかなり詳細に行われていると橘氏は言います。

 それによると、平均的なアメリカ人は大統領が誰かは知っているが、それ以外の知識はきわめて心もとないもの。オバマ政権発足後の重要な政治イベントである2010年の中間選挙では最大の争点は経済だったが、有権者の3分の2は前年に経済が成長したのか縮小したのか知らなかった。しかもその選挙が終わった後、アメリカ人の過半数は、共和党が下院を支配したが上院は支配しなかったことを知らなかったということです。

 一方、だからといって、「アメリカ人はバカだなあ」と笑っているわけにはいきません。2014年の国際調査では、平均的な日本の回答者は失業率を大幅に過大評価し、殺人件数が減少ではなく増加していると誤解し、移民の割合を実際より5倍も多いと信じていた。さらに、日本人の約3分の2は政府の14の省庁の名前を半分もあげられず、大半は自分の選挙区の国会議員立候補者についてほとんど知識をもっていないと氏は指摘しています。

 今回の衆院選は「安倍・菅政治の総括」がテーマ(のひとつ)となったが、「アベノミクスの3本の矢は何か」と訊かれて、「金融緩和(デフレ脱却)、財政政策(経済対策)、規制緩和(成長戦略)」と答えられる人がどのくらいいるだろうか。それ以外でもTPP(環太平洋パートナーシップ)協定や働き方改革、普天間基地移設問題、スパイ防止法案、安保法制などが大きな政治的争点になったが、例え概要でも説明できる人は相当の政治ウオッチャーではないかというのが氏の認識です。

 橘氏はこうした状況を、民衆が(かように)政治に関心がないことの証左だと捉えています。それは今に始まったことではなく、プラトンは「民主政は無知な大衆の意見に基づいていて、哲学者やその他の専門家のよりよい知識に基づく勧告を無視するから欠陥がある」と述べている。アリストテレスは、「女性や奴隷や肉体労働者や、その他にも徳と政治的知識を十分なレベルまで得る能力がないと彼がみなした人々を政治への参加から排除すべきだ」と主張していたということです。

 また、20世紀に入り近代民主性が広く定着するようになってからも、レーニンは「労働者が自分たち自身で社会主義革命を起こす十分な政治的知識を開発させるとは期待できない」として、「共産主義への移行のためには、労働者自身よりも労働者階級の政治的利益を理解しているメンバーからなる「前衛」政党による強力な指導が必要だ」と論じていた。ヒトラーは、「有権者は愚かでたやすく操作でき、この問題は遠くを見通せる指導者が率いる独裁によってしか解決できない」として、『我が闘争』で「大衆が知識を受け入れる能力はごく限られており、彼らの知性は小さいが、彼らの忘却力は巨大である」と書いたと氏は話しています。

 実際、民衆にとって最も合理的なのは、政治的知識を獲得するための努力をほとんどせずに、適当に投票して安心することだというのがこの論考における橘氏の認識です。

 誰もが気づいているように、国政選挙では1票の価値はほぼゼロに等しい。アメリカ大統領選の場合、自分の1票が当落に影響を及ぼす確率は小さな州では1000万分の1、カリフォルニアのような大きな州では10億分の1で、平均すると6000万分の1とされる。日本は議院内閣制で計算はより複雑だが、自分の1票で当選した候補者の政党が(連立を含めて)政権をとる確率は、せいぜい数百万分の1だろうと氏は言います。

 経済学が言うように人間が経済合理性に基づき行動するのなら、なんの価値もないことにコストをかけるわけがないから、そもそも投票所に行くはずがない。だが実際には、日本の場合1990年までは国政選挙の投票率は7割程度を維持していて、それ以降はかなり下がったものの、今回の選挙でも有権者の半分は投票に行っている。そう考えればその動機は、「選挙に行った→政治に参加している」という安心感と体面を保つためと考えれば、問題なく説明がつくということです。

 とは言え、大衆による選挙の成果として、有権者が投票所に足を運ぶことでその目的は十分発揮されると考える向きもあるようです。選挙と言うマーケットにおいて競争にさらされることで、候補者は切磋琢磨し政策は磨かれる。政策形成過程はオープンになり、定期的な選挙は情実や不正の防止にもつながるということです。

 実際、この問題は多くの知識人が気づいていて、経済学者のヨゼフ・シュンペーターは、「市民は現在公職についている人々の業績を評価して、パフォーマンスが悪い人々を投票によって排除することができれば(それで)十分だ」と述べていると橘氏はこの論考に綴っています。

 これが選挙の「回顧的投票(業績評価)」と呼ばれる機能であり、有権者がパフォーマンスの低い為政者を見分けることができれば多数決的な政府の支配が十分達成できるとするという、近代間接民主主義を支えるひとつの考え方。回顧的投票のためには、「現在その職にある人のパフォーマンスがよいか悪いかを確定するために、市民たちは自分たち自身の福利の変化さえ計算できればこと足りる」とされているということです。

 そう考えれば、候補者のことがよくわからなくても「とりあえず選挙に行く」というのは、案外重要なことなのかもしれません。話を聞いていてなんとなく納得できない。人柄や考え方がなんとなく気に入らない…訴える政策の中身は理解していなくても、そうした市井の人々が持つ漠然とした感覚が実は大切なのではないかと、橘氏の論考から私も改めて感じたところです。



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