東京都独自の子育て支援策の柱として、都内在住の0歳から18歳までの子どもを対象に月額5000円(年間最大6万円)を支給する「018サポート」事業。都知事選挙に合わせ(るように)昨年度(2023年度)から始まった同制度ですが、本年度も継続して実施さるようです。
必要とされる予算はおよそ1261億円とのこと。その他にも、東京都では独自の子育て支援策として、第2子への保育料無償化(110億円)、私立中学生に対する1人当たり年10万円の助成(40億円)、東京都立大学の授業料無償化(準備費に2千万円)など、対象に所得制限を設けない給付金を積み上げています。
こうした(ある意味「なりふり構わない」)小池都政のやりかたに、首都圏近隣県の知事からは「(都とは)税収構造が全然違っていて太刀打ちができない(神奈川県黒岩知事)」「まだやるのっていう感じ(千葉県熊谷知事)」「自治体の税収の格差によって保護者の負担に大きな差が生じている状況は住民にとって不公平(埼玉県大野知事)」など批判の声も上がっているところです。
確かに、若い子育て世代にとって、数万円単位の現金が直接振り込まれるのは助かる話。家賃の高い東京都に住んでいて良かったな…と(きっと)感じていることでしょう。しかし、そもそも生活費のかかる都内に住んでいる子育て世代には、それなりに恵まれた世帯が多いのもまた事実。恩恵を受けている人々に向け「バラマキ」の言葉は口にしづらいものの、実は「本当にこれでいいのかな?」と感じている都民も多いかもしれません。
そうした折、7月26日の日本経済新聞の経済解説欄である「経済教室」に、東京都立大学教授の阿部彩(あべ・あや)氏が「あるべき家計支援、普遍的な現金給付避けよ」と題する論考を寄せていたので、参考までに小欄にもその主張を残しておきたいと思います。
近年、様々な形で行われるようになった公費による家計支援。2024年度税制改正でも、1人あたり所得税3万円、住民税1万円の定額減税が行われるほか、燃料油価格の激変緩和措置や(「夏を乗り切るため」と始まった)電気・ガス料金への補助など、様々な形で実施されていると氏はこの論考に記しています。
氏によれば、コロナ禍における特別定額給付金以来、頻繁に行われるようになったこれらの支援策に共通する特徴は、対象者を国民全体としてとらえていることとのこと。こうした普遍的な手法は家計支援だけではなく、子育て支援策でも児童手当の所得制限が撤廃されるほか、3〜5歳児の保育無償化も記憶に新しいということです。
自治体でも、給食費の無償化が拡大しつつあり、東京都や大阪府では都立・府立大学の授業料無償化に踏み切った。しかしその一方で、保育所も大学も給食費も低所得者に対する支援制度は以前からあるため、これらの施策で新たに便益を受けるのは中高所得層だけだというのがこの論考で氏の指摘するところです。
こうした施策が広がった背景にあるのは、物価上昇や円安などで膨らんでいる国民の負担感だと氏は言います。「国民生活基礎調査」によると、22年から23年にかけて生活が「苦しい」と感じる世帯は51.3%から59.6%に増えている。全世帯の約6割が「生活が苦しい」と訴える国民感情を背景に、政府は小出しの現金給付策を講じているというのが氏の認識です。
しかし、物価上昇が一時的なものでない限り、こうした単発の家計支援は一時的な気休めにすぎない。これは一種の「感情政治(Emotional politics)」だと阿部氏はこの論考に記しています。
「負担感」というのは厄介な感情で、物価が上昇しているのだから(所得の多寡にかかわらず)誰もが「負担が増えた」と感じる。人々の消費行動やライフスタイルは臨機応変に変化させられないので、以前の生活を維持しようと思えば家計が厳しいと感じるのはいたしかたないということです。
もちろんこうした国民感情を矮小化するつもりはないが、これに普遍的な現金給付や補助金で対処するのはいかがなものか。これらが必ずしも得策とならない理由は大きく二つあると氏はしています。
一つはもちろん、普遍的な給付・補助金の受益者の大半は生活に困窮しているわけではなく、給付が何に使われるかわからないこと。また、使われなければ貯金として(無駄に)積み上げられていくだけで世の中には回らず、政策効果も上がらないのは言うまでもありません。
そういえば、一人10万円のコロナの給付金が配られた際に得られた消費増加効果は、等価所得が下位3分の1のグループで 32%、中位のグループで 18%、上位3分の1のグループでは19%程度という分析もあるようです(内閣府HP「特別定額給付金が家計消費に与えた影響」)。給付金の多くが貯蓄に回り、家計の有する金融資産額が急激に上昇したのも記憶に新しいところ。全員にお金を配るというのは、「そういうこと」だということでしょう。
一方、普遍的給付が必ずしも得策でない2つ目の理由として、阿部氏は「その他」の必要なサービスの給付の拡大を妨げる可能性があることを挙げています。
負担感の背景には、資源(所得など)と支出の両面がある。氏によれば、(その軽減には)資源の増加のみで対処するのではなく、必要な支出がかからないような国づくり・街づくりをするという両サイドの施策が必要だということです。
例えば近年、都会でも路線バスが廃止・縮小されたことで生まれている交通難民の問題。その対策として、資源にアプローチする方法は「タクシー代の給付」であり、支出にアプローチする方法は「公共交通サービスの維持・拡充」だと氏は話しています。
ここで「タクシー代の給付」を普遍的に実施すれば、マイカーを持つ世帯にはただのお小遣いとなる。また、たとえ交通難民を正確に特定して「正しい人」にタクシー代を給付したとしても、その地域に十分なタクシー供給があるかなどの運営面の課題もあると氏は言います。一方、公共交通サービスの提供であれば、「誰に給付をするのか」という面倒かつ不完全な選別をしなくてもよく、確実に交通難民を救える方法といえるということです。
普遍的な給付のメリットは、受けた「みんな」が「得した」と感じることで、社会全体に広がる急激な負担感の上昇を(一定程度)抑える効果があるということ。一方、デメリットと言えば、政策の効果が一時的であることや、必要のない人にまでお金を配ることでコスパを欠くこと、ほかに回すべき財政資源(予算)まで食ってしまうことなどが挙げられるということでしょう。
制限のない給付の全てが悪いとは言いませんが、政府や自治体が有権者に対して「現ナマ」を配り、ご機嫌を取るというのが本来的な姿でないのは誰もが感じているはず。選挙も終わったことだし、財政的にもきつくなってきたところ。再選された都知事には、今後はぜひ効果的な資源の投下を行ってほしいなと、改めて感じた次第です。
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