MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2041 理不尽な通り魔事件はなぜ起こるのか

2021年12月15日 | 社会・経済


 路上などで凶器を使って不特定の人を襲う「通り魔殺人」が、警察庁に統計の残る1994年以降2020年までに全国で179件(未遂含む)起きていると11月18日の時事通信が報じています。これには10月に起きた京王線車内での事件のような電車内での発生は含まれておらず、実際の無差別殺傷事件数はさらに多いということです。

 このような事件は1994年以降毎年発生しており、最も多かったのは茨城県土浦市や東京・秋葉原などで事件が相次いだ2008年の14件。179件のうち、殺害までには至らない未遂が135件で、検挙件数は173件だったとされています。

 「むしゃくしゃしていた」「誰でもよかった」というのは、事件の犯人がたびたび口にするお決まりの台詞ですが、こうした事件を引き起こす犯人に共通するキーワードは、独身、無職、男性というのが最近の通り相場になっているようです。

 海外ではあまり聞かない(社会から見放された)孤独な男たちのこのような場当たり的な犯罪について6月16日のNewsweek日本版では、国際政治学者の六辻彰二氏が「なぜ日本では「世の中への報復」がテロではなく通り魔を生むか」と題する興味深い論考を寄せています。

 日本では、低所得、ひきこもり、メンタルな問題などで社会に適応できなくなった男たちが、世の中に一方的に憎悪を募らせ起こす通り魔的な犯罪が珍しくなくなった。しかし、世界全体を見渡せば、多くの国では社会への破壊衝動がテロリストを生むことの方が目立っており、このパターンはむしろ少数派だと氏はこの論考に綴っています。

 テロリストと通り魔は、いずれも社会を敵視し、無差別に他人を殺傷する点では共通する。しかし厳密に言えば別のものだと氏は指摘しています。

 テロリストは敵対する者を脅し、政治的、宗教的なメッセージを発する手段として暴力を用いる。つまり、どんな歪んだ形であっても、そこには何らかの主義主張やイデオロギーがあると氏はしています。

 なので、たとえ人生がうまくいっていないという個人的な動機が(その根底に)あったとしても、何らかのあるべき社会像のための戦いと主張する。イスラム原理主義などの宗教色の強いものだけでなく、非白人から白人の世界を取り戻すことを大義とする白人右翼テロもこの点では同じだということです。

 一方、日本などで発生するほとんどの通り魔は、世の中に対する漠然とした不満や敵意があってもそれを言語しようとはしない(できない)。第三者に自分の正しさを発信しようせず、あくまで他人を殺傷して自分の存在を誇示することが目的化したものだということです。

 それではなぜ、日本ではテロリストではなく通り魔が目立つのか。一言で言えば、日本では、社会に破壊衝動を抱きやすい者を吸収する場がほとんどないからだというのが氏の見解です。

 日本では社会に適応するのが難しい者が家族・親族に世話されることが多い。一方、身内でも(成人すれば)あくまで独立した個人とみなされる欧米では、成人後は家から追い出されることが珍しくないと氏は言います。

 そのような場合、安定した職がなく、また公的支援も受けず、孤立した個人に居場所を与える役割を、宗教関係者や慈善団体(そして、反社会組織など)が担うことが多い。そうした中には過激な思想を広げることを目的とした団体もあり、思想的に同化したネットワークのなかで「君は悪くない。悪いのは世の中で、これを正す必要がある」と吹き込まれ、過激な思想を自分のものとする者は少なくないというのが氏の認識です。

 さらに、多くの国では政治集会やデモなどに参加するハードルが日本ほど高くなく、これもリアルな結びつきを生み、主義主張が共有される場になる。つまり、ネット空間だけでなくリアル空間で居場所を見つけることで、人生がうまくいかない者は過激思想に接触する機会が生まれやすいということです。

 これに対し日本では、もともと無宗教な人が多いこともあって、宗教施設がコミュニティになることは少なく、また政治活動に参加する人も多くない。これは一般的な社会生活を送る人でもそうだが、ひきこもりだったりすればなおさらだと氏はしています。

 (勿論「それ」があった方がよいと言っているわけではないが)このように負のエネルギーを集積する場がないことが、日本において「世の中への報復」を意識した者が単独で、しかもメッセージなしに凶行に及ぶ土台になっている。日本でテロリストより通り魔が目立つことからは、日本が諸外国と比べ(独身、無職の男性たちが)孤立しやすい環境にあることが伺われるということです。

 こうした日本社会に特有の状況は、破壊衝動にかられる者への対応で、他国にはない難しさを浮き彫りにすると氏はこの論考で指摘しています。

 通り魔が目立つことは、少なくとも同時多発的、組織的な犯行になりにくいことを意味する一方、テロリストの場合よりも行動を事前に予測・警戒することが難しい。どの国でも当局によるテロ対策は、拠点となる組織や指導者をマークすることが中心となるが、孤立した通り魔を事前に絞り込むことは不可能に近いということです。

 そもそも、このような問題を担当する社会福祉事務所などは、治安機関との情報共有をほとんど想定していない。こうした情報不足は、通り魔事件の発生を事前に兆候を察知することを難しくする一因となっているというのが氏の指摘するところです。

 実際、あらゆる個人の問題を、「家族が対応するべき」と決めつけたり、(いまだに)何かあれば家族・親族まで罵詈雑言を浴びせられたりする風潮が色濃く残るこの日本の社会では、身内が(警察などに)事前に情報提供することへのハードルはかなり高いと氏はしています。

 時に暴力的であったり残虐性を押さえられなかったりする家族(息子)を、(何をしでかすかわからないからと)簡単に警察や病院に引き渡せる家族(親たち)は、恐らくそんなに多くはないでしょう。

 弱いものをターゲットにした無差別・理不尽な暴力や犯行を「卑劣」「許せない」と糾弾することは簡単ですが、それだけではこうした悲劇をなくすことには繋がらない。通り魔による悲惨な犯罪を減らすためには、社会に適応するのが難しい者を抱える身内だけでなく、社会全体の対応もまた問われていると考えるこの論考における六辻氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。



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