MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2328 縛られている思想

2022年12月31日 | 社会・経済

 長引くコロナ禍、終わりの見えないウクライナ戦争、世界を覆うインフレの波と、歴史に刻まれる激動の時期となった2022年。国内に目を向ければ、引き続く円安に物価高、安倍首相への銃撃事件に端を発した国葬問題や政治と宗教の問題、相変わらずの政治とカネの不透明な関係など、相変わらずのグズグズ感が漂っています。

 世界情勢に関係する大きな問題から公園の騒音といった隣近所の小さなトラブルまで、メディアやネットが(これでもかと)次々と提示する現実に振り回されている我々は、気が付けばそのあまりの情報量に、「自分の頭で考える」という習慣をついに放棄してしまっている観もあります。

 思えば、「戦後」と呼ばれる時代が始まってもうすぐ80年。与えられた枠組みの中でしかものを考えられなくなってしまった(もしくは自ら考えることを放棄してしまった)日本人の思考に、ブレイクスルーをもたらすもの何なのか。

 12月2日の総合経済情報サイト「DIAMOND ONLINE」が、精神科医で作家の和田秀樹氏の近著『50歳からの「脳のトリセツ」』(PHPビジネス新書)の一部(「世の中は変わらないと思い込んでいないか」)を紹介しているので、備忘の意味で(小欄に)その概要を残しておきたいと思います。

 同書によれば、請われて有識者の討論会に出演した和田氏は、その際、国際政治学者の三浦瑠麗さんが発したきわめて印象的な言葉を耳にしたということです。

 それは、ウクライナ問題に日本はどう関わっていくかを話し合い、「アメリカとしっかり連携しよう」というところに結論が落ち着いたタイミングのこと。各人が最後の総括をする場面で、三浦氏は「西側優勢の秩序が今後も変わらないと思っている方が多くて、驚きました」と発言したということです。

 三浦氏の指摘は、正鵠を射ていると和田氏は(その時)強く感じたと言います。例えば(おそらく)10年後には、中国のGDPはアメリカを追い抜くことになる。20年後には、軍事力でアメリカを上回るかもしれない。そのとき日本は、中国とどう付き合っていくつもりなのか。

 中国が世界の覇権を握れば、ロシアの立場や国力も大きく変わってくるだろう。その時、西側諸国の一員として安穏と過ごしてきた日本はどうすればいいのか…そこを誰も考えないのが今の日本だというのが和田氏の見解です。

 今の日本では、誰もが「アメリカの庇護のもとに平和が保たれる社会が、いつまでも続く」と思っている。たしかに、その体制は戦後80年近く変わっていないが、今後も90年、100年と続いていく保証などどこにもないと和田氏は言います。

 国家(政府)同士が争っているときは、民間でリスクヘッジするのが合理的戦略というもの。国が戦争をしていても、民間では商品を売買してつながっておけば、万一戦争に負けたときも民間のパイプが活用できるというのが氏の認識です。

 ところが日本では、国がロシアを非難すれば、マスコミも同調してロシアの非道ぶりを強調し、民間も関係を断絶しようと動きだしてしまう。これではリスクヘッジがまったく効かず、戦略としてあまりにも拙いということです。

 「前と同じ」「みんなと同じ」を所与のものとして、変化を恐れる日本という国には、「思想の自由」がないというのがこの論考において和田氏の指摘するところです。

 一般に言われるように、例えば中国やロシアなのど権威主義の国々では「言論の自由」は認められていない。報道の自由や、表現の自由もないと言っていい状態だと氏は言います。

 しかし、そこに「思想の自由」はある。習近平国家主席に聞こえないところで彼を批判する中国人はいくらでもいるし、プーチン大統領のやり方に不賛成なロシア人も多いというのが氏の認識です。

 彼らは、言論の自由がないから口に出すのを我慢しているだけで、心のなかで抱く思想には自由なものがある。そして、プーチン大統領や習近平国家主席が失脚すれば、自由に彼らの批判をするだろうということです。

 一方、日本の現状はその逆だろうと氏は指摘しています。言論の自由は保障されているものの、思想が見えない力で縛られてしまっている。匿名で投票ができるのに、まったく日本経済を成長させてくれない自民党に票を入れ続け、「民主党政権時代は暗黒だった」と言われたらそう信じ込むと和田氏は話しています。

 今の状態を変えること、変化することに過剰な不安を覚え、野党に票を投じず新しい選択をしない。バイアスに縛られて自由な思想ができず、(自由な投票ができるにもかかわらず)常に政権与党に有利なような投票行動をする方が、(氏には)中国やロシアよりも思想の自由がないように思えるということです。

 政治スキャンダルへの対応にしても同じこと。政権が民主主義国家として守るべきことを守らなくても、批判の声が上がるには上がるものの、いつも一過性で終わってしまうと氏は言います。

 報道番組やワイドショーが一時は騒ぎ立てても、しばらくじっとしていれば別の話題に移っていく。すると批判の声もみるみる小さくなり、さらに時間が経つと、怒り続けているわずかな人のほうが肩身が狭くなってしまうということです。

 この国では、権力に対して批判的な人は、しばしば「左の人なんだね」といった言葉をネガティブなニュアンスで投げかけられることになると、和田氏はこの論考の最後に記しています。

 そこには、「変わり者」「小難しい人」「お近づきになりたくない人」などの毒(ニュアンス)が色濃く含まれている。そして、このような「左」に対するネガティブイメージにも、変化を嫌う国民性が垣間見えるとするこの論考における氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。

 



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