9月27日に投開票された自民党総裁選。1回目の投票で181票(議員票72票、総党員算定票109票)を獲得し、2位の石破茂氏の154票(議員票46票、総党員算定票108票)を大きくリードした高市早苗経済安保大臣でしたが、上位2名による決選投票では石破氏215票(議員票189票、都道府県票26票)、高市氏194票(議員票173票、都道府県票21票)と逆転を許し、女性初の “総理大臣” を惜しくも逃してしまいました。
男性優位と言われる日本の政治の世界。やはり「ガラスの天井」は高かったか…と思う一方で、今回の総裁選において、彼女が(ある意味)世論の「波に乗り切れていない」ように見えたのは私だけでしょうか。
故安倍晋三元総理の政治理念を受け継ぐ後継者を自認し、憲法改正への意欲を口にする一方で、選択的夫婦別姓への慎重姿勢や靖国神社参拝などの保守的な姿勢を強調してきた高市氏。「体育会系」というか、「男性よりも男性らしい」武骨な姿に、「日本初の女性総理誕生」という爽やかさを重ね見た国民は、実際、そんなに多くなかったかもしれません。
総裁選のテレビ中継を見ながらそのようなことを感じていた折、10月2日の情報サイト「AERA dot.」に、作家の北原みのり氏が『総理の椅子に「ほぼ座りかけた」女、高市早苗の敗北は「ガラスの天井」ではなく「安倍政治」の終わり』と題する一文を寄せていたので、指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。
高市早苗総理・総裁がギリギリのところで誕生しなかった。2016 年のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプに負けたヒラリー・クリントンが「(大統領という)最高で最も困難な『ガラスの天井』は打ち破れなかった」と敗北宣言を行った際、アメリカにも「ガラスの天井」ってあるのかぁ~とモヤモヤしたのを思い出したが、今回の高市さんの場合は(選挙の結果を)どう受け止めればよいのか…と北原氏はこのコラムで問いかけています。
そして、以下が北原氏の感想です。正直、今回の高市さんに関しては、「女だから負けた」という感じが一切しないと、氏はその冒頭で指摘しています。こんなにも「ガラスの天井感ゼロ」なのか…と思わせてくれるほどに、「女だから」という悔しさは残らない。座りかけたとたん「せーの」と椅子を引かれた感はあるが、不思議に悲壮感はないというのが氏の感覚です。
なぜかと言えば、高市さんが「女のガラスの天井」に負けたのではなく、どちらかといえば、自民党のなかにある「常識的な感覚」に負けたように見えるから。憲法改正への強い意欲、メディアへの厳しい姿勢、隣国への挑発的態度など、右寄り過ぎるイデオロギーに、自民党の中にいるフツーの人のフツーな感覚から来る抵抗感に火が付いたように見えるというのが、コラムで氏の指摘するところです。
高市さんが喫した「まさかの」逆転負け。その事実のみをもって「自民党って、まともじゃん」と(どちらかといえば)反自民だった私が思うほどに、女であることよりも極右であることが警戒された(のではないか)と氏は話しています。
第2次安倍政権が誕生して12年。安倍晋三さんが亡くなって2年。アベイズムにうっすらと覆われ続けてきたこの国は、いろいろなものを失ってきた。メディアの自由も、社会への信頼も、未来への安心も、隣国との親密な関係も、歴史への知というものも。私たちの社会は全体的に小さく、乾き、狭く、冷たくなったように思うというのが氏の感覚です。
そして今回、(先日の)自民党総裁選で、「安倍さん」が本当に亡くなったのだと思った。「安倍政治」というものに、ここでいったん本気で区切りがつけられるのではないかと氏はコラムに記しています。
新総裁の石破茂さんはさっそく解散を宣言し批判を浴びているようだが、安倍さんの政治で失った柔らかさ、温かさを日本社会が取り戻していく、そんな時代になっていければいいと心から願うばかりだと氏は言います。なんというか、日本人は政治にとても疲れているのではないか。そして、それは(ある種の)「安倍さん疲れ」だったのではないかと(今は思う)ということです。
それにしても、高市さんが総理の椅子まであと半歩までたどりついた過程は、一体どういったものだったかと氏はコラムの最後に慮っています。
サラリーマンの父親と警察官の母親という一般家庭から出てきた無所属の女性議員が、ここに来るまでの道の険しさはどれほどのものだったかは想像に難くない。早稲田大学と慶応大学、2校に現役合格するほど優秀で、それなのに「女の子だから」と上京させてもらえずに地方の国立大学に通った高市さん。彼女が歩んできた「ガラスの天井」の道は、どのようなものだったかと氏は思いを巡らせます。
32歳という若さで衆議院議員に初当選するほど頑張り、だからこそ自分の性にこだわっている高市さん自身が選択的夫婦別姓を率先して否定する理由は、一体どこにあるのか。高市さんの心の中にある「何か」を、できれば成仏させてあげてほしいという気持ちも生まれて来るということです。
さて、(同世代である私の目にも)確かに、安倍氏の亡霊を追いかけるあまり、何となく「時代に取り残されてしまった」ようにも映る高市氏。折角ですからこの機会に1回、これまでのしがらみを吹っ切って言いたいことを言い、やりたいようにやってみたらどうだろうかと(私も)思わないでもありません。
いずれにしても、総理への執着が成仏しない限り、高市さんはきっとまた出てくると思う。「安倍さんの亡霊」を引きずる高市さんではない高市さんならば、是非どこかで見てみたいな…と思ったりもすると氏は最後に綴っています。
とりあえず、日本の政治は、動きはじめたように見える。それはようやくのこと。そんな希望を、私は持ちたいとコラムを結ぶ北原氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。